16東北一人旅

2016/7/6


下北半島上陸
 7月6日函館から船に乗って大間に着いた。
夕闇迫る時間ではあったが、薄日が射しているのに小雨も降る狐の嫁入り天気。
走り出して間もなく虹を見た。津軽海峡側は太陽が雲から時々顔を出す。東の空を見ると奇麗な虹が出ていた。

   
 大間の虹  漆黒の中の国道・県道分岐点


夕闇の迫る中、津軽海峡側のR338号を南下する。
願掛け岩という名勝地の辺りで大分夕闇が迫ってきた。丁度キャンプ場の看板。細い道を左折するとキャンプ場に入って行く。
人気は全くない。バンガロー風の建物が数棟。後は狭い芝地。狭いエリヤでやっと車をUターンすると小父さんが立っていた。
小父さんは此処の管理人らしい。私は此処にテントを張る気にならなかったので、丁重にお断りして先に進む。
この施設は人気が無かったので、バンガロウ―もキャンプ場も今夜は無人なのでしょうか。やっと訪れたと思った車が出て行ってしまい、小父さんには悪いことをしてしまった。

この先の国道が怪しい。道幅は狭く、曲りは多く、上り下りは半端ではない。
やっと仏が浦という所の駐車場に着いた。薄明りで見ると名勝地は更に600m下った辺りらしい。
急な坂道が予想されるのでここは断念。
真っ暗な中15kmほど進むと、県道253号との分岐点。脇野沢に行きたかったが更に30km近く夜道を走る気にはならない。
そこで「かわうち湖」を目指す。此処には道の駅もあるようだ。途中右側に野平高原キャンプ場という看板を目にしたが、対向車も全くない山道。行ってもどういう施設か分からないので止めた。(後で調べるとかなり広いキャンプ場。おそらく今夜は誰も利用していなかったと思うので、行かずに正解)

20時30分ころ道の駅に着くと軽自動車のバンが1台駐車していた。
広い駐車場ではないが、少し距離をあけて駐車する。
今夜は車中泊。急いで晩酌の支度。今日は江差港から道南を西端から東端へ走り、函館に戻りフェリーで大間へ。そして今は下北半島のど真ん中の山中のかわうち湖畔。随分移動した。疲れて早々に眠りにつく。
翌朝何かの気配で目が覚める。車外を見ると猿の集団。老若男女親子連れ。隣の車の人達は写真撮り。
暫く猿を見ていたが、車のドアを開けると猿集団は何処かへ散って行った。
隣りの車は大阪から元職場の同僚という二人の小父さんたち。これから北海道に渡るという。この車に男同士二人がどうして寝れるのか考えてしまう。
県道253号から46号を走ると日帰り温泉 ふれあいの湯 というのがあり、駐車場に入れる。
営業は9時からだというので30分程時間待ち。その間に日本剃刀を入念に研いだ。
朝風呂に浸かり髭も剃りゆっくり楽しんだ。

下北半島は過去2度来ているので、今回は周遊せずに一路岩手県を目指す。
八戸市と岩手県一戸町は近い位置。時間があれば八戸の「縄文学習館」にも寄ろう。
メールが入った。「古寺鉱泉から日帰り登山でヒメサユリを観に行かないか?」と山仲間から。
来週から朝日連峰小国口の登山道整備を予定しているが、足のトレーニングを全くしていない。この旅の途中で山登りをして鍛えようと安易に考えていたのだが、えりも町のアポイ岳も登らなかった。
日程を逆算すると無理な計画では無そう。渡りに船という面もあるので快諾。
今後の行程はほぼ決まる。
取り敢えず一戸町へ向かおう。

もみじ交友舎

     
 スズダケの弁当箱の底  鳥越観音山門  観音堂の洞窟回廊

もみじ交友舎には7月7日(木曜日)午後一で到着した。
早速入館す。中には3名程作業中。壁際に作品がずらり。
ここもみじ交友舎は、古くから伝わるスズダケを材料にした笊や籠の生産地。江戸時代から寒村の現金収入のため、この製品を作り続けていたという。
明治以降は特産品奨励ということもあり、特に行李(こうり)という今風で言えば旅行バックを大量に生産していたようです。私が子供の頃はどこの家にも柳行李が1つや2つあったと記憶しています。
古い製品から最近の物まで陳列してある。
作業をしている職人?に私が疑問に思っていたことをお尋ねしてみた。
私も陳列してあるようなスズダケの弁当箱を作ったのだが、縁巻の仕方などイマイチしっくりしていなかったのです。
お聞きして何となく理解できたような気がしてきた。後は帰宅後試してみよう。

   
 元館長さんの製作したソバ笊  


奥の部屋に館長さんがいて、いろいろ話をしていただいた。
帰りに記念に何か求めたいと思い、手ごろな籠を購入する。
そしてこの技術を教えて下さった慈覚大師が祀られているという鳥越観音堂を拝観に行く。
鳥越山の急な坂道を上ると拝観堂と洞窟がある。洞窟の中に観音堂があるというが、施錠してあり入れないので手前の堂でお参りをした。
此処のスズダケの編み方は「白蛇の骨の模様」を模して網代編みという技法で編んでいるという。
この技法を伝授に当たり、慈覚大師は四足二足の生き物を食してはならない、という厳しい決まりがあったと言います。
現代では皆さん卵や肉も、それらを食べているということです。

この夜はR4号を南に下り、岩木町の道の駅石神の丘で泊まる。
入り口から一番奥の端の芝地にテントを張る。周囲にも車中泊の車が2〜3台。やっぱりテントの中は快適だ。
車に畳を敷いてあるが、雨の降らない日はテントが良い。国道を走るトラックの音を気にしなければ…。

藤原三代の郷

 
 金沢柵跡といわれている城跡にある金沢八幡宮


 秋田県横手市は奥州藤原三代の故郷でした。
歴史の勉強で前九年の役、後三年の役というのを憶えているでしょうか?
年表丸暗記で名前そのものは記憶にあります。というのが大方ではないでしょうか。

いずれの役も争いというのは私利私欲的な側面と、人の恨みつらみが絡み合い複雑でした。
それにこの役には、中央(都)から派遣されていた陸奥の守や鎮守府将軍が大きくかかわったとされます。

前九年の役を大掴みにおさらいします(私の浅学で異論があるかもしれませんが、お気づきの点はご指摘、ご連絡頂ければ幸いです。)
 11世紀になると奥六郡(現岩手県)は阿部頼良(頼時)の実質支配地になりました。中央に税を納めず酋長を名乗り、中央(京都)を無視したと言われます。
そこで朝廷は1051年陸奥の守 藤原登任(なりとう)に阿部討伐を命じました。登任は秋田の平重成を動員して、阿部頼良を攻撃しますが、鬼切部(宮城県鳴子)で大敗します。
朝廷は登任を解任して1051年河内源氏の源頼義を陸奥の守に任じ、1053年鎮守府将軍も兼任し阿部氏制圧を命じる。

頼義の国府着任後の1052年朝廷で大赦があり阿部頼良も罪を許される。
1056年任期を終えて源頼義が胆沢城(鎮守府)から多賀城(国府)への帰途中を、阿部頼時の長男貞任(さだとう)が襲い合戦が再開。
源頼義は阿部富忠(とみただ)を味方につけ戦いますが、黄海(きのみ)の戦いで大敗します。
頼義は奥羽(秋田)の清原武則(たけのり)に援軍を要請し、1062年厨川(くりやがわ)柵、ウバ戸柵で貞任を破り前九年の役は終了。
阿部氏は滅亡してその支配地は清原氏に渡り、清原武則が奥羽、陸奥の国の総支配者になったのです。藤原清衡は母親が清原武則の嫡男武貞に子供を伴って再婚したため、清原清衡と氏を替えました。清原武貞の3人の子供はいづれも異母異父兄弟でした。これがやがて争いの火種になります。



     *出典:いわての文化情報大事典よりhttp://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/data/nara_4.html

清衡は藤原経清と阿部頼時の女(むすめ)との間に生まれました。
阿部氏滅亡の際は藤原経清は阿部に味方したため、皆殺しになったのですが、この幼い藤原清衡と母親は助命され、清原武貞と子連れで再婚したのです。

後三年の役は、時が経ち清原武則の子武貞そしてその子真衡が継承しました。真衡に嫡男が無かったので成衡(なりひら:平氏の血筋)を養子に迎えた。
この成衡の嫁に源頼義の娘を迎えた。婚礼の際に真衡の小父に当たる吉彦秀武(きみこのひでたけ)が祝いに参じた折、冷遇されて、盆に盛った持参の祝いの砂金を庭にぶちまけて帰ってしまった。
真衡はこれに怒り戦いになった。
すったもんだがあったが、真衡の急死で状況が変わり、いったん鎮静化する。そして鎮守府将軍の源義家は真衡の領地を清衡と家衡に分与した。ところが家衡はこの裁定を不満として1086年清衡の館を攻撃し、妻子一族を殺害してしまった。
戦いが続く中で、家衡軍は沼柵から堅城な金沢柵に移った。これが結果として兵糧攻めに遭い、敗れ後三年の役は終了したのである。

こうして奥羽、陸奥を清衡が手中に収めたのでした。
清原清衡は陸奥に移り、陸奥と奥羽を支配し、藤原経清の子であったので父の性の藤原を名乗り、平泉に中尊寺などを建立して浄土造りに励んだというのです。
以来三代が陸奥の国を治め、源頼朝によって滅びるまで奥州藤原氏が栄えたのです。

私はこの度横手市に旅をするまで、金沢柵が横手市にあるということを知りませんでした。不勉強でした。
これまでは前九年の役も後三年の役も良く理解していませんでした。
今回横手市の後三年合戦金沢資料館を見学して、今まで霧の中であったこの役について、霧が晴れるように見えてきた気がします。
何はともあれ切っ掛けを掴めた感です。
これから折に触れて資料を勉強していきたいと思います。
今回の旅で特に印象に残った施設が二つありますが、一つ目は常呂の遺跡の館。二つ目はこの後三年合戦金沢資料館です。
8日の夜は横手市十文字町の道の駅「十文字」で寝た。
広い駐車場の片隅の草地にテントを張り、ゆっくりした気分で寝る事が出来た。明日は山形県入りだ。
舗装の駐車場では、キャンピングカーで水戸市常澄町から来たという夫婦に会った。
私の元職場の同僚のKさんの親戚だという。しばし雑談。