苫小牧上陸
旅の第一歩は苫小牧港から。
前夜大洗港を出港して6月24日午後2時ごろ上陸しました。
夕食を娘宅でするのだが、時間が早いので市立博物館に入る。前回もこの博物館を見学したのだが、まだ見足らない思いであったので入館したのです。
以前から北海道の誕生には興味を持っているのですが、今回この博物館に誕生に至る解説が丁寧に展示されていました。
大まかにいうと宗谷岬と襟裳岬を結んだ線から東側と西側は別々の島でしたが、地球のプレート移動(プレートテクトニクス)で合体したそうです。
「苫小牧市美術博物館 http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/hakubutsukan/」
その衝突運動のエネルギーで日高山脈が出来たとも。(インドがアジア大陸に衝突してヒマラヤ山脈が盛り上がった理屈)
後日襟裳岬でその日高山脈南端が太平洋に没しているのを見て実感、納得しました。
博物館終了時間ぎりぎりまで此処で北海道を見学する。アイヌ文化と江戸時代に本土からの北海道開拓事業?との関わりとかも。
夜は娘や孫達と食卓を囲む。船旅でゆっくり寝たつもりでも、アルコールが入ったら眠くなり就寝。
夕張市
しあわせの黄色いハンカチ | 石炭博物館 | 敷地内の石炭露頭 |
まず夕張市を目指し車を走らせる。
財政再建団体という汚名を着けられて随分になりますが、その後の実態を目で見てみたいというのが目的の一つ。
苫小牧市博物館の延長で石炭博物館も是非見学したい。
市入り口辺り、国道274号沿いにある道の駅「夕張メロード」
メロンの看板が目につく。駐車場も程ほどの入り。中も賑わっている。
旅の始まりで買い物には熱が入らないがブラブラして、車中の口寂しさを補うような物を少々購入。
2002年サッカーワールドカップ日本、韓国共同開催の前年に前職時代に「道の駅いたこ」建設に関わっていました。
そのせいかどうか? 各地の道の駅に行くと産直店、全体の設計、トイレの数と奇麗度、利用者(入込み)数などが気になってしまいます。
市内は閑散としている。古い映画だが夕張が舞台だという「幸せの黄色いハンカチ」の炭住跡を見たいと思い向かう。
炭住というのは元々炭鉱の近くだから山の中は当たり前。道路から見ると小高い丘陵地帯にそれはあった。数台の車が駐車しているが閑散とした感じ。
生憎の雨もあり、周辺風景をカメラに収め次に向かう。
目的の石炭博物館に着くと駐車場には2台ほど車があるだけ。今日は土曜日なのだからもう少し賑やかでも良さそうなのにと思いつつ。
案内板に導かれ坂道を上ると「石炭博物館」のレンガ作り風の赤茶色の大きな建物。傍には石炭を地下深くから引き上げるタワーも建っている。
しかし、閑散として人気が無い。今日は土曜日だというのに閉館していました。
私としては夕張市の教育、観光の目玉施設だろうと考えていたのですが、見学することはできませんでした。
敷地内に石炭の大露頭があり、その前の「採炭救国夫の像」等を見てここを後にしました。
東京都から執行した後、市長になられた市長のご苦労振りを思いながら夕張を後にした。
石狩川
道の駅隣り三日月湖水生公園 | 石狩川悲歌を熱唱 | 漁船出港の河口港 |
今回の旅行の目的の一つに石狩川の蛇行を見ることがあります。
高校生の頃の地理の授業で「石狩川は蛇行の多い川で三日月湖も多い」と学び、一度見てみたいと心のどこかにありました。それを今回思い出し、計画を立てるときからこれを組み込みました。そして昭和36〜37年ころ流行していた歌謡曲「石狩川悲歌」を大きな声で土手で歌いたいとも。
岩見沢市を抜け月形町を目指す。
道道6号の月形大橋を渡ると月形温泉ゆりかごがある。
道道1121号を南下。新篠津村の日帰り温泉と宿泊施設が併設されている「道の駅しんしのつ」。地続きでかつての石狩川の三日月湖が公園として整備されている。
道の駅の地続きがキャンプ場だが、雨降りなので今夜は車中泊と決める。この様なためにという訳ではないが、後部座席を外し、畳敷にした我が車。
早速温泉に入り、道の駅で食材を購入して先ずはビールで喉を潤す。そしてお酒に渡り、軽い食事をして就寝。
翌朝は又雨。ゆっくり起床して身支度。昨夜は結構多くのキャンピングカーや車中泊者がいたが、早朝にそれぞれの目的地に向かったようで、私が起きた時点では20台くらい有ったであろうか。
朝食は昨日出発する時に娘からもらった食パン。チーズとベーコンが入り、ガスで少し炙るととろける様なチーズ風味。自家製の梅ジャムを添えると複雑な味で、酸味が効いて飲み過ぎた翌日の朝食にはさっぱりして良いもんだ。
食事を済ませ、隣の三日月湖の公園を見学して河口を目指す。
なるべく石狩川の堤防沿いの道を走る。農道でも結構整備されていて走り易い。
石狩川と農道の関係は、30度の三角定規の斜辺が川で、他の2辺が農道の様な関係で、川に沿って進んでもジグザグ走行。
石狩川の右岸堤防沿いに農道を走り、適当な所で堤防に上がってみた。河原は一面の草原。高水敷(河原)が広く草木に隠れて川面は見えない。
しかし石狩川河畔に立っているのだ。石狩川悲歌」を声高々に歌おう!!!
♪ 君と歩いた 石狩の
流れの岸の 幾曲がり
思い出ばかり 心に浮かぶ
あゝ 初恋の 遠い日よ
ひとり仰げば ただわびし
木立の丘の 黄昏(ひぐれ)雲
くろかみ清く 瞼に消えぬ
あゝ初恋の 面影よ
君を思えば 身にしみる
石狩川の 夕風よ
二度とは逢えぬ この道なれば
あゝ初恋の 日が恋し
三橋美智也になった気分で、気持ち良く3番まで声を張り上げ長年の思いを達する。
そして河口に到着。
河口には小さな漁港があり「毎日朝市」の看板があり、プレハブ作りの小さな魚屋さんがある。
見ると未だピクピク動いているヒラメ。
40cm位のを購入して今夜の肴とする。朝早くからお客さんが次々に来店。新鮮な魚は人気の様である。
苫前町
開拓家屋と羆 | 内部の土間と座敷 | 三渓神社境内に建つ慰霊碑 |
大正4年12月に羆の襲来で開拓集落が崩壊したという、三毛別六線沢近くの開拓当時の家を復元した場所に行く。細い林道のような道を約30km。(途中までは広い町道)
ゲートがあり、数台止まれる駐車場がある。
此処に開拓当時の9尺2間(奥行2.7m×間口3.6m)位の草葺、草壁の小屋がある。傍には羆の模型。小屋よりも大きいのではないかと見間違うほど。小屋の中には土間があり、炉があり鉄瓶がかかっていた。座敷も狭く、此処に家族全員が生活したと思うと、入植当初はフロンティア精神で、土地に噛り付いて生きていたことを想起させてくれる。良く出来たジオラマである。
吉村 昭の「羆嵐」の舞台である。
記録では大正4年12月9,10日に10名の婦女子が被害に逢ったという。
この家は草壁と言っても熊にとっては何の抵抗もなく家の中に入れる構造。蓆を壁にしたような作りだから。
私が到着した時には車が2台。私は小1時間居たと思うが、その間にも車は次々に来る。絶えず2〜3台は駐車していた。
この様な山中で、しかも町から離れている所なのに、これほど人が訪れるのはどういう訳か?
小説の影響か? 北海道でも有名な所なのか?
私が話をした人は埼玉県から小説を読んで来られたとのこと。
かくいう私も羆嵐を読んで訪ねたのです。
今年(平成28年)は秋田県で既にクマに襲われて4名程亡くなっているから、余計に羆の被害地に訪れる人があるのかもしれないが。
小屋の傍の小さな沢でポリタンクに水を汲んで街に出た。
道の駅「風Wとままえの」温泉ふわっとで湯に浸かり、朝購入のヒラメの刺身で今夜は良い気持ちになったところで就寝。
後証
私は吉村昭の羆嵐を読んで現地を見学したのだが、三渓神社の慰霊碑を見ると男名も見受けて、羆は最初に食した女性の肉味に執着したという記述に疑問を持ち調べてみた。
慰霊碑に死亡者の名前が記録されている。
慰霊碑のある三渓神社 | 慰霊碑表文 | 慰霊碑裏文 |
死亡者
阿部マユ (34)(慰霊碑では太田マユ)
太田家でクマに襲われ、連れ去られる。翌日遺体で発見される。
蓮見幹雄 (6)
太田家でクマに襲われる。発見時には既に死亡していた。
明景金蔵 (3)
明景家でクマに撲殺される。
斉藤春義 (3)
明景家でクマに撲殺される。
斉藤巌 (6)
明景家でクマに襲われ瀕死の重傷。その日のうちに死亡。
斉藤タケ (34)
明景家でクマに食われ死亡。
斉藤タケの胎児
明景家でタケの体内から引き摺り出される。発見時は息があったがしばらくして死亡。
重傷者
明景ヤヨ (34)
明景家でクマに齧られるが、クマがオドに気を取られたため一命を取り留める。
明景梅吉 (1)
明景家でクマに齧られるが、クマがオドに気を取られたため一命を取り留めるも、後に齧られた後遺症で死亡。
長松要吉(オド) (59)
明景家でクマに肉を抉られるが、クマが女子供に標的を変更したため一命を取り留める。
*出典:三毛別羆事件(サンケベツヒグマジケン)とは「単語事典」−ニコニコ大百科
碑文からも上記記事内容からも死亡した大人は女性であるが、幼子は男の子が多かったようです。
また、この慰霊碑を建立した大川春義氏(1909−1985)は事件当時の村長の7歳の息子だそうです。
幼心にこの事件が心に残り、成人後神社に願をかけ「犠牲者1人につき羆10頭を仕留める」と誓い、生涯102頭を仕留めたという記録があるようです。
更に春義氏の息子(大川高義)も現在羆打ちマタギとして活躍中とのこと。
ネットで「苫前町羆事件」で検索すると多数の資料が出てきますので、関心のある方はそちらをご覧ください。
北海太郎 | 苫前町熊撃ち猟師 大川高義氏 |
追記2021/11/3
今日は休日でパソコンを眺めていたら、大川高義氏の名前を苫前町郷土資料館の北海太郎(剥製)を仕留めた猟師の一人が大川高義氏と、剥製の説明板に記載されていました(2018/8/30山さん撮影)
サロベツ原野
金比羅岬の気持ち良いキャンプ場 | エゾカンゾウ群生と利尻富士 | 鉾田の小父さん |
昔何かで読んだような記憶。日本最大の原野はサロベツ原野だと。
今日はサロベツ原野を走ろう。
R232号は日本海沿いに北上。
初山別村のみさき台公園。此処は灯台脇に天文台が併設されているユニークなキャンプ場。此処も一度はキャンプをしたくなるロケーション。海の青と芝生の緑が実にマッチしている。
天塩町で国道と分かれ道道106号でいよいよサロベツ原野に入る。
多少靄っているので地平線と水平線がはっきりしないが、それらが交わる北の方角が稚内のノシャップ岬(野寒布岬)。
原野に入ると間もなく天塩川に架かる橋がある。
橋の手前に今朝から気になっていた真っ黄色のド派手な三輪バイク(トライク?)が停車していた。
昨日どこかで見かけたが、今朝道の駅で水戸ナンバーであることを確認以来気になっていたのです。
慌てて傍に駐車。話しかけてみた。彼も同じように私の車が気になっていたようである。屋根にスノコを積んでいる車はありませんから。
話してみたら意外に近い存在であった。鉾田市の住人で、私の元職仲間のご近所。元職とは年齢も近く良く御存じだという。
彼は農業をしていたのだが、息子に代を譲りご隠居さん。リッチでハレーダビットソンという輸入車だそうだ。日本100岬めぐりというのあり、それをもう半分以上制覇したようである。山登りがしている日本100名山のバイク版か。バイクの他には長年 ウルトラ ライト プレーンというエンジン付グライダーの愛好者でもあるそうな。農業はいつしていたのだろうか? 世の中には趣味人が沢山いることに改めて驚く。
彼とはこの後、ノシャップ岬で食事をして別れた。
原野は広い!!
真っ直ぐ北に向かい走るのだが、走っても走っても原野は続く。
エゾカンゾウやハマナスが群生している中を走る。途中何度かビューポイントで写真を撮りながら。利尻富士も時々顔を出し、すかさずパチリ。
一気にノシャップ岬まで走る。
岬では少し遅い昼食を彼ととった。これが久し振りに私の口には合わないカレーライスであった。
稚内市
稚内市のキャンプ場 | 間宮林蔵カラフトへ | 日本最北端に立つ |
明日は礼文島に渡ろうとフェリーターミナルに行く。
船の時刻表と島の交通事情を調べる。テントを持参して皆既日食観測地周辺で一夜を過ごすつもり。
礼文島の皆既日食は昭和23年5月9日にたった1秒間の金環日食であったそうです。(ネット情報)
私は昭和26年小学校入学なのですが、高学年の教科書にこの日食の事があり、何故か覚えていたのです。
どの様な内容か忘れましたが、その時に北海道に礼文島という島があることも覚えました。隣り島の利尻島は山登りをするようになってから知ったように思います。
島はいつも風が強いという情報。天気がイマイチの予報。テントで北緯45度の星空を見ながらが良いが…。
茨城県を立つ前に稚内市役所でお聞きした駐車場に車を入れ、気象、海象条件を考慮して、暫く考えたのですが結局今回は断念しました。
急遽キャンプ場探し。マップを見ると今居る所のすぐ近くの高台に市営の稚内森林公園キャンプ場がありました。
早速移動。急な坂道を登り、奥まった所にありました。先客の方は香川県からキャンピングカーで来られたリピータでした。
受付場所をお聞きすると「ここは無料で受け付けはありません」との話。
私は驚きましたが適当な場所を選び、取り敢えず場所を確保。そして市内のスーパーへ買い出し。
夕方になり一杯やっていると、受付の件をお聞きした先輩が来られました。私のキャンプの仕方に興味を持ったご様子。
桐板のスノコ、七輪でたき火、まな板で調理など。
風が出てきたのでブルーシートを風上に広げて風除けにしたのも珍しいご様子。そんな訳で話が弾み、9時過ぎまで話したような記憶です。
私も四国は歩き野宿遍路、自転車野宿遍路で2度行っているので、話は噛み合うのです。白峰寺や屋島寺などなど。
此処のキャンプ場は整備が行き届き、芝生の刈りこみは勿論、トイレの清掃、ゴミの分別回収場所も整い、毎日のように整備員が常駐しているようです。
この後オホーツク海沿岸を東進したのですが、この様なキャンプ場が数多くありました。これには驚きました。関東近県では1泊数千円はするようなのが無料なのです。
稚内市民の皆さんありがとうございました。
間宮林蔵カラフト探検
江戸時代にカラフトを探検してカラフト(サハリン)が島であり、大陸との間には海峡がることを証明した探検家間宮林蔵は我が郷土茨城県の偉人。
つくばみらい市(旧伊奈町)で育ち、小貝川の堤防工事(河川維持管理工事)を幼い時から見て育ったのが、やがて探検家になる素養になったと生家の解説にあったように記憶しています。
余談ですが世界地図に日本人の名前が着いた所は「間宮海峡」だけだそうです。
宗谷岬に近い砂浜から一行が文化5年4月13日(1808/5/8)船出した所に石碑が建っています。
先ずその石碑を見たくて砂浜に行きました。確かに砂浜ですが、海を見ると岩畳のように水中には岩がゴロゴロしているところ。
どの様な船で出港したのか分かりませんが、沖合に大船(帆船)がいて小舟(櫓・櫂の通船)で浜を離れたのでしょう。メンバーにはアイヌの人達も居たようですので、その人達が水先案内人を務めたのでしょう。
此処で記念撮影をして宗谷岬に向かう。
宗谷岬には間宮林蔵の銅像が建っていた。キッと北方を見つめている像である。今日は見えないが、目線の彼方にはカラフトが有るのでしょう。天気が良ければ島影が見えるそうですが、今日は多少靄っているので見えません。せっかく精度の良い双眼鏡を持参したのですが残念。それでも双眼鏡で沖を見ると、漁船が多数白波を立てていました。
宗谷岬を回ればオホーツク海。
オホーツク海沿岸を東進
R238号を進む。
海岸線にはいたる所に原生花園がある。黄色い花や赤い花が咲き、名前の分からない花々が次々に歓迎して、見送ってくれる。
猿払村(さるふつ)、枝幸町(えさし)と進み「マリーンアイランド岡島」という道の駅に入る。見晴らしのいい海を臨む幌別川傍の小高い丘にある。
地続きでキャンプ場。トイレも水もあるれっきとしたキャンプ場。此処もゴミの分別コーナがあり大変ありがたい。此処も無料である。
早速私は上下二段に分かれている広いキャンプサイトを一回りして、道の駅と同じ段の広々としたキャンプサイトの水場に近い所にテントを張る。今日は大型テントをまず張り、中に寝室用の小さいテントを張った。これは虫除けに良いのである。
上の段にテントを張ったのは私の1張。数台の車は車中泊。此処の駐車場は大型トラックが駐車しないので夜も静かであった。
翌朝下の段の方へ行ってみるとキャンピングカーが何台もいた。その人達は久しぶりの晴れ間に、皆さん洗濯物を干している。
夜中に近くから動物? 獣? 鳥?とも区分が付かない鳴き声で目を覚ます。テント近くの林辺りから聞こえてくる。
今までも梟や鹿の鳴き声を聞いていたが、今夜のは何なのか分らない。少し不気味。
朝になってその方を見ると水鳥が幌別川湿原に居たようである。この鳴き声はその後別のキャンプ場でも耳にして、鶴の仲間であることが分かった。
興部町(おこっぺ)の道の駅でちょうど昼時。
名物牛乳ウインナーランチをいただく。更に余りに暑いのでソフトクリームも。
紋別港ではかの有名な? 初代砕氷船ガリンコ号を見学。
R238号は湧別町と上湧別町の境辺りで2度直角曲りをする。一回目を曲り間もなく左折するところを、道の良さに気を取られうっかり直進してしまう失態。本来はサロマ湖に沿って走るのをR243号を山奥に向かってしまった。
遠軽町まで行ってしまい、あとは勘を頼りにサロマ湖に遠回りして戻る。20kmは遠回りしたであろうか。とんだ失態である。
そのような訳でサロマ湖には夕方到着。
サロマ湖の東端の海際に2か所のキャンプ場がマップにあるのでそこに向かう。近くにワッカ原生花園とネイチャーセンターがある。
探してもキャンプ場が無い!! 聞いてみると閉鎖したそうな。残念。
やむなく今夜は駐車場に泊まろうと腹を決めてネイチャーセンターを訪ねる。明日ゆっくり見て回るつもりで下見です。
ボランティア風の人に概要を訪ね、明朝再訪することにした。
駐車場に戻ると16時を回っている。どうしようか迷ったのだが、明日ゆっくり見学することとして、遺跡の館を覗いてみようと駐車場隣の館に入ってみる。
史跡常呂遺跡
知床方面からの日の出 | 常呂 海岸のゴミ拾いの女性 |
私は小学生のころから考古学に興味を持ち、子供の頃から考古学少年であった。
だから今でも機会ある毎にこの種の資料館には自然に足が向くのです。
今日も明日の下見のつもりでこの遺跡の館に入館したのです。
受付で「遅いので明日の方が宜しいでしょうか?」と問うと「少し遅くまで仕事をする者がいますので、時間を気にしないで、どうぞごゆっくりご覧ください」との回答。
そう仰っていただいても、取り急ぎ見て回ろうと中に入る。
私の子供頃(昭和30年頃)の考古学界では、北海道には縄文文化は無かったと言われていたように記憶しています。
それが時代が進むにしたがって北海道各地で発掘が進み、縄文文化は元より北方文化との関わりもあるという遺物や遺跡が続出。
それらの発信元ともいうべき遺跡の一つが、ここ常呂町であったのです。北海道のこの種のニュースは見ていたのですが、地域や場所が私の地図には無かったのです。北海道の地名は私の頭の中では全くの白図状態でした。もっと深く確認しておくべきでした。
私は時間を忘れて見入りました。
そのせいかどうか「時間を気にしないで、どうぞゆっくりご覧ください」と再度女性館員が言いに来て下さったのです。
恐縮しながらも嬉しく思い、更に熱が入り、見学したのです。
車の中に博物館用の双眼鏡を置いてきたのが悔やまれました。老眼なので、あの双眼鏡を使用すると50cmまで近寄っても見えて、手に取って見ているようによく見えるのです。だから博物館に入る時はいつも双眼鏡を携帯するのですが、下見のつもりで入ったので……。
施設はそれほど大きくはありませんが、内容が濃く1時間以上居たように思います。
お礼を言って館を出たのは閉館の5時をとうに過ぎていました。
館員の皆さん、本当にありがとうございました。
この項に興味のある方は北見市常呂遺跡で検索してご覧ください。
私の今回の旅で最も心に残った施設が二つあります。そのひとつがここ常呂の遺跡の館です。
車に戻り今宵の宿をこの駐車場にしようと思っていたのだが、ホテルと民宿の前なので騒々しいのではないかと考え別な所を探すことにした。
ビールを購入しようと遺跡の館で酒店をお聞きすると「この辺には酒屋は有りません。前のホテルで分けてもらえると思いますが…」との情報で、ホテルで缶ビールを分けていただきました。」
暫く走ると海水浴場のトイレが目につく。既に自転車の若者が食事の支度中。私も歩道状の所にスノコを敷きテントを張る。
水とトイレがあり目の前が階段護岸の海水浴場。日没時でオホーツク海に太陽が沈んでいく。
この夜は自転車の若者とそれぞれの食事を持ち寄り一緒に飲む。
彼は長年勤めた会社を辞し、自分探しの自転車旅を続けているとのこと。
この辺りが気に入り、この辺で職を探してみる気になっているところらしい。
翌朝は漁船のエンジン音と日の出の光で目が覚めた。
同じ場所なのに東の水平線から真っ赤な太陽が出たのです。思わずパチリ。
写真を撮ってからまた暫くうたた寝。
朝食を済ませコーヒーを飲みながら海を見ていると、ビニール袋を持ったお婆さんが砂浜でビニール屑などを拾っているのが目についた。
何気なく暫く見ていると、お婆さんは仕事を終えたらしく、階段護岸になっている私の前の砂浜からこちらに登ってくる。
私は思わず「ご苦労様です」と声をかけた。すると「これをしていてご苦労様と言ってもらうのは初めてです」との答え。
私はコーヒーで接待する。そしてしばし歓談。若者も加わり三人で雑談を続けた。
接待」の響きで四国遍路を思い起こす。10年前、四国歩き遍路では、あっちこっちでお接待を受けたことを。
元職時代、鹿島灘の海岸管理も担当していて、海岸清掃をサーフィンをするイルカ若者集団が、月一回くらいの頻度でしていたことを思い出す。
彼らの清掃行為を海岸清掃功労者として表彰しようと調べた。が、組織が特定できず、何となく誰かから声がかかり何となくやっているとのことで、結局表彰には至らなかったことを。
サーフィンをする人たちは何かと日頃鼻つまみの感のある彼らが、自分たちのフィールドを黙々と奇麗に清掃していたのです。
時として彼らは問題を起こし、ニュースネタになりますが、根は優しい若者たちが多いのです。
そのような思い出などを話しながら彼女の話もお聞きしました。
何かと苦労の多かった人生のようですが、今は故郷常呂で穏やかに暮らしているとのこと。
私よりは二歳位若いというので、冒頭にお婆さんと書いたのは、自分自身お爺さんとは思ってはいないので失礼しました。
網走番外地
高倉健主演の網走番外地は昭和40年代何本か観た。
その頃は死刑囚が収監される刑務所というイメージでした。
北海道中央道というのが札幌ー旭川ー網走を走っている。現道のR12、R39に相当か。
明治中期に北海道開拓と国防道路として政府が突貫工事で建設したそうです。
そのうち北見峠ー網走間は囚人道路と呼ばれているそうです。
網走刑務所(釧路集治監網走分監)の囚人たちを動員して163kmを8カ月で完成させたとのこと。この工事で囚人230人以上、看守6人が死亡。遺骸は道路際に埋められ今も見つかっていない人があるとのことです。
この時作られた外役宿舎(仮監)が後にタコ部屋の起源になったということです。一度入ったら死ぬまで出られないと恐れられたタコ部屋。
網走市内には明治時代の刑務所施設が移築され、博物館 網走監獄 としてオープンしています。
入り口には「鏡橋」といわれる橋があり、川面にわが身を写し襟を正すという意味の橋名という解説がある。小生も渡ったが、水蓮の葉で覆われ身も心も映りませんでした。
知床半島
オホーツク海に沈む太陽(峠にて) | 峠には北方四島のパネルが… |
知床半島はウトロから観光船 おーろら で巡りました。
ガイドの説明を聞きながら絶景を船上から眺めてきました。カムイワッカの滝の傍の岩崖に羆が1頭居ました。草を食んでいるのでしょうか。
船が近づくと傍の草むらに移動してしまいました。カメラはデジカメ。ズームで撮ったのですが黒い点位でした。
帰港後知床峠を超えて羅臼町の道の駅へ移動。峠では日没時。立派な望遠レンズでオホーツク海に沈む夕日を撮影している人が二人。
私も隣でデジカメでパチリ1枚。
崖際の防護柵の所に北方四島返還の願いを込めたパネルが埋め込まれている。ソビエトに略取されてしまった四島。還る日はいつになるのでしょう。この日はうっすらと島影がこの峠から見えました。近いのです。
駐車場で山形ナンバーのバンが駐車しました。声を掛けると仕事で来ているとのこと。写真が趣味で100名山も終えたと言い、彼の写真集を頂いた。
羅臼の道の駅の駐車場は狭く、キャンピングカーやマイカーの車中泊者が既にいっぱい駐車していた。
私は車の後ろが芝地の空きスペースにテントを張り、潮騒を枕に就寝。
太平洋岸を南下
四島返還への叫び | 四島返還の願いを込めて繋ぐ橋 | 石舞台を思い出させる墓碑 |
羅臼町から海岸線を南下。別海町の野付湾に面して北方展望台がある。駐車場には家族と思われる人々が四島に向かって叫んでいる3人のブロンズ像。身に迫る情景である。
館の中には北方四島に関する資料が展示されていて、1945年に当時のソビエト連邦に奪い去られる以前の生活ぶりや、その後の返還運動歴などが見て取れる。併設されている食堂でホッキカレーを食べた。
根室市納沙布岬は霧の中
北方館に四島返還にかかる資料が展示してある。海に臨む四島返還の思いを込めた大きな橋をイメージしたモニュメントも。
崖の上の柵の傍に墓石のような石塔がある。解説板には「寛政の蜂起 和人殉職墓碑」とあり説明書きが付いている。
今これを見ても和人(幕府側)の目線が感じられる文面である。
事件は松前藩と御用商人の搾取に苦しむアイヌが蜂起して、1789年に和人71名を殺害。松前藩から役人が赴き、アイヌの犯人を特定して37名を処刑というものであった。
1812年にこの供養墓碑が作られ、何処かに建立したのかもしれない。しかしアイヌの人達から見れば和人側が被害事件として記され、大いに不満であったことでしょう。そこで奈良の石舞台ではないですが、アイヌの人達はこの碑を海に捨てたのかもしれません。
1912年(明治45)これが納沙布岬近くの砂浜で発見され、1968年に現在地に安置されたようです。
明日香村の石舞台は古墳で、蘇我馬子の墓という説が有力とされています。蘇我氏は権力を笠に横柄な態度であったと言われ、それが権力の低下と共に住民に(反権力者かも)反感され、墓の盛り土が剥ぎ取られたとされています。
松前藩はアイヌの人達から毛皮や鮭やその他を搾取したと言われ、その搾取者の供養塔に対してアイヌの人達が反感をもち、供養塔を海に捨てたという説はうなずけます。
根室から根室本線に沿う形で南下。
霧多布岬は霧の中。何にも見えない!!
キャンプ場の管理人らしき人も霧の中。今日は此処のキャンプ場ではキャンプは出来ない!!寒くて凍えそう。
移動して霧多布岬の日帰り温泉「ゆうゆ」で一風呂浴びる。
夜は厚岸町の花火大会があるということで、湾を望む丘の上の道の駅「厚岸グルメパーク」は駐車場が満杯。
崖際の芝生の傍に車を止め、食事を済ませ花火に備えたが、濃霧のため来週に延期とのこと。誠に残念である。
高校野球の予選で、釧路地方(道東)では霧ヒットというのがあると聞いたが、これではボールが全然見えないだろう。
翌朝は摩周湖を目指す。
霧の摩周湖」と言われ、此処も霧の日が多いと聞く。
果たして今日はどうか?
霧が無い!! そんな摩周湖で記念撮影。
それから屈斜路湖を経由して阿寒湖に向かう。途中川湯温泉があるが、此処はかの大横綱「大鵬関」の故郷と聞く。
屈斜路湖ではウォーキング大会中でした。
阿寒湖は観光地。そこそこにして写真を撮って釧路湿原へ。
釧路湿原
写真で見ていた釧路湿原というのは、一面の原野の中を釧路川とその支流が網の目状に流れていると思っていた。
湿原に沿って走る道道53号を南下した。鶴居村のビジターセンターに立ち寄る。湿原とは異なり樹林の中。
釧路市湿原展望台に行く。建物には上がらず湿原探訪コースに徒歩で入る。散策道は下り階段が幾つもあり、ずんずん標高を下げていく。
小雨の降る中15分位進んだところも未だ樹林の中。湿原に小枝状に何本もの小尾根があるのです。雨も強くなってきたので此処でUターン。
釧路市内で是非見たい場所がある。それは洪水や津波の時に何時もTVに登場する弊舞橋(ヌサマイ)。これは古くからの橋で現在のは五代目の橋。桁下高が低いせいか、津波や高水の時に桁が水に浸かるような映像が出るのです。
市外側の橋詰の交差点が五差路になっていて、ロータリー形式になっている。駅前などで見受ける形ですね。
翌日丹頂鶴自然公園で鶴のケージ内の何組かの丹頂鶴を見た。子育て中のつがいも。
私がイメージしていた風景は釧路川周辺の景色のようだ。道路のあるのは湿原の周辺で、尾根が幾重にも伸びていて湿原というよりは樹林帯という風景。
釧路湿原を観ると後特に見たいと考えていた場所は無い。昨日は摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖を観てきたので。
R38号を西進する。
マップで次なる目的地を探すが見当たらない。そこで豊頃町のハルニレに行こうと考えた。
1年振りのハルニレは2本ともすっくと立っていた。
十勝川の堤防下のハルニレ散策路の入り口付近を一人で草刈りをしている人がいる。しばらく見ていると今日の仕事を終えたようで、刈り払い機を車に積んだ。話をしてみるともう長年この作業を仲間としているとのこと。
せっかく来訪された人が草丈が伸びていると歩きずらいし、露があればびしょ濡れになるので刈っているそうです。
もう少しすると農家の人が牧草として刈り取るので、そうすればすっきりして良いとのことです。
草をよく見るとなるほど牧草のようです。農家が国交省から高水敷を借りて牧草を育てていたのです。高水敷を農地としているのは全国的なことだと思います。納得です。
再会
どうしようか迷ったのですが、えりも町で昨年来お世話になっているK氏の所にご挨拶をして次に進もうと考え、道道210号を忠類村、大樹町、広尾町を経てえりも町に着く。
1年ぶりの再会に懐かしさを感じる。昨年何の前触れもなく海岸通りで写真を撮らせていただいたのが縁で、今日まで何かとお世話になっている私。
今回は時間もあったので、奥さんを交えて3人でゆっくり四方山話が出来た。日が大分傾いた頃辞して襟裳岬に向かう。
岬手前の百人浜に着くと日中とは異なり風が強い。風陰にテントを張るが風はますます強くなる。テントを撤収して今夜は車の中に寝ることにした。夜雨が降り前線が通過したようである。
昨年は霧でまるで見えず、今年は強風。中々うまくいかない。
地球の胎動
洪水・津波で名高い釧路 幣舞橋 | 襟裳岬で日高山脈は海中へ没する | 日高 昆布干し風景 |
襟裳岬に早朝到着。
今朝は霧も無く快晴。昨年見えなかった岬の海を眺める。
岬の先端から沖合に向かって岩礁が一列に並んで海中に没している。
これは苫小牧博物館で予習した北海道が二つつの島(プレート)が衝突した際に、東の島が西ノ島の上に覆い被さるように合体した。丁度正断層の形。その運動で1300万年前に日高山脈が隆起して、先端が襟裳岬まで延びて海中に没しているようです。
その岩礁が見事な配列で、ばっちり写真に納めました。
この地域はアポイ岳ジオパークもあり、地球の成り立ちを勉強できる貴重な地形地質です。地球の歴史から見れば1300万年はついこの間の様な時間。
襟裳岬を後にして早速アポイ岳ジオパークへ行く。
展示館にはアポイ岳が特異な岩でできていることが詳しく説明してある。
パンフレットより抜粋して説明をします。
地球の内部構造は、中心に核があり、表面に地殻と呼ばれる薄い皮のようなものがあって、それらの中間に地球全体の8割を占めるマントルと呼ばれる物質があります。実はかんらん岩はこのマントルの上部を構成している岩石で、通常は地下数10kmもの深い場所にしか存在せず、本来地表にあるはずのない岩石です。それがなぜ露出しているかというと、日高山脈の形成と深い関係があります。つまり、東側のプレートが西側のプレートにのし上がった際、その下にあったマントルの一部がつき上げられるように地表に出てきたと考えられています。
火山などから噴き出すマグマ(溶けた岩石)は、上部マントル、すなわちかんらん岩の中からしみ出すように分離して出来上がることが分かっています。そしてアポイ岳を形づくる「幌満かんらん岩体」では、マグマ成分がまだたっぷりと残っている部分から、マグマが抜けきった状態の部分、さらにその中間の状態を示す部分など、さまざまな種類のかんらん岩が分布しています。しかも、世界で例がないほど新鮮な状態で地表に露出しているため、マントル内で起こっているできごとを地上でありのままに観察することのできる貴重な場所として地学の分野で国際的に知られています。
これらが写真や図解で、さらに標本などで解説されています。
私はかなりな時間をかけて勉強をしてしまいました。
岩石ばかりでなく、動植物も特異な環境に進化して、アポイ岳周辺特異の種に進化したとのこと。
頭がいっぱいになって、ジオパークを後にしました。
松前藩
1万石格の松前城 | 潮待ちして入る水無海浜温泉 |
北海道を旅すると各地域で、江戸時代に松前藩が蝦夷を統治し、アイヌの人々と良くも悪くも関わっていたと説明した資料を目にしました。
1700年代に場所請制度が始まると、アイヌの干し鮭や毛皮などの品物と米や酒などとの交換レートが著しく不均等になり、御用商人の利ザヤが増え、アイヌは困窮し、やがて労働力(過酷な労働環境だったとも)となっていたという説明。困窮したアイヌが1789年蜂起したことは納沙布岬の墓碑で既に書きました。
それ以前にも1669年6月21日アイヌが蜂起した「シャクシャインの戦」というのもあり、ほぼ全道のアイヌと松前藩の争いであったようです。
そうするとそれらの商人に、場所を提供して所場代を摂っている藩には、どれだけ実入りがあったのかを確認したくなるのは心情。
今それを知ろうとすれば何処かの資料館や図書館で丹念に調べれば分かるかもしれない。
が、素人の私は城下町を見ればある程度分かるのではないかという寸法である。
松前藩は寒冷で米が収穫できないので、1万石格という大名であったというので、本州で一万石の大名の城下町と比較しようと考えました。
茨城県内で1万石大名は宍戸藩。水戸藩の子供のような存在ですが、幕末期まで存続したれっきとした藩です。
想像していた通り宍戸藩とは比較にならない街の作りでした。城や家臣の住宅地も立派で、数万石大名よりも上ではないかと思うような印象でした。
ちなみに茨城県で数万石大名は土屋氏の土浦藩が相当します。城構えは松前城が上と感じました。
松前藩に関わりのある方には申し訳ありませんが、これは封建時代の話ですので気を悪くしないでください。
何となく納得して雨の松前町を後にしました。早朝でしたので諸施設は見学せず、城跡周辺を廻り函館に向かったのです。
函館から大間へ
約2週間かけて北海道を一周した。
短いようでもあり、長いようでもあった。
16時30分発のフェリーには時間があるので、函館市内旧椴法華村恵山岬の水無海浜温泉に行き、生憎の雨の中、潮が満ちるまで待ち、湯に浸かった。昆布と一緒の風呂でした。
フェリーは定刻通り出航しました。
さようなら北海道
旅はまだ続く。これから青森、岩手、秋田、山形が終着地。
準備
昨年に続き今年も来週6月23日大洗港からフェリーで苫小牧へ向かいます。
冬の間はネットでルート検索。各市町村の情報収集。などをしたが、ここにきてそれもしなくなった。
その代わりというか、ランクルの座席改良をした。
後ろの座席を撤去して、畳を敷き、運転席の後ろ側の窓際に一列荷物棚を新設した。
棚を付けたランクル後部座席 |
いつも荷物を多く持ち過ぎる傾向にあるので、出発まで荷物を厳選?して必要最小限にまとめましょう。
とは言いながら、北海の海辺や山奥で一人チョロチョロと焚火をしながら一杯も飲みたいし。
そうなると焚火セットも必要だ。最近焚火台の代わりに昔懐かしい七輪を愛用・使用している。
普通の七輪に鉄筋の三脚を被せるように1m位の三脚を作った。これに鍵吊るしの代わりにS字状の針金を吊り具にすると、鍋のような吊り手のあるもの全てOKである。
薪は鋸で15cmくらいにすれば大丈夫。着火時に杉の落ち葉など燃え易い物を一握り。それに小枝か消し炭を載せると着火は大丈夫である。
私は日がなこれでお湯を沸かし、お茶やコーヒーをすすりながら竹細工や木工をしている。
これの北海道版は海辺で海を眺めながら、山奥で山を眺めながら、至福の時を過ごしてみたい。
5月23日〜26日
福島県を皮切りに宮城、岩手、青森県を廻った。
青森県は津軽半島へ。五所川原市で立佞武多館、太宰治の斜陽館。そして竜飛岬を回り、対岸の下北半島へ。
大間〜函館へフェリーで渡り、道南西部から北上して小樽へ。更に苫小牧、襟裳岬、十勝川を遡り、帯広から日勝峠を超えて平取町へ。
平取町ではアイヌの郷の博物館を見学。アイヌの権利を国会で求めた平取町出身参議院議員 故 萱野 茂 氏のアイヌ生活用具蒐集品を展示した、沙流川沿い二風谷にある博物館は圧巻である。
襟裳岬は霧の中、せめて案内板を | えりも町では拾いコンブ漁の最盛期 | 豊頃町幌岡の十勝川河川敷にハルニレの大樹 |
先ずは被災地を見学
宮城県は亘理町のSAで朝を迎える。
知人が震災ボランティアで通っているという荒浜幼稚園周辺を車で走り北に向かう。
牡鹿半島先端の鮎川港まで行き、海岸線を一路宮古市を目指す。
陸前高田市で「奇跡の一本松」を見て、鉄の町釜石市。宮古市では浄土ヶ浜の石灰岩の奇岩を拝し、北上は此処までとして県都盛岡をめざしR106号を西へ。
津軽、下北半島
盛岡市内では当座の食材を購入し東北自動車道で浪岡。浪岡で高速を降り五所川原へ早朝に着く。
五所川原では立佞武多館、斜陽館を見学して、日本海側から竜飛岬に向かう。
道の駅こどまり」でイカの具の海鮮カレーを食べようと寄るが、メニューから消えていた。私は絶品だと前回感じたが人気がイマイチであったのか?
前回自転車で回ったコースを逆回りで、津軽海峡を左に見て青森市に向かう。
自転車の時は西風に立ち向かい苦労したが、今回は車で楽ちんである。
青森港から浅虫温泉の道の駅ゆ〜さ浅虫に立ち寄り、むつ市の恐山で地獄を観て大間港へ。
北海道
函館に26日の夕方到着。
今夜は江差町辺りを宿地と決め、R227号を西進する。
暗くなる頃江差町に着いた。町の入り口の共同浴場で風呂に入り、街中の食堂で夜食をいただく。
江差町というのは道南でも賑やかな街だと思っていたが、夜は閑散という言葉がふさわしい。明かりの点いている店が少ないのである。
やっと開いている食堂も私達の他は1人居ただけ。
食事を済ませ開陽丸の傍の公園にテントを張る。私の車の他は2台駐車していただけ。
江差町から日本海沿いに北上する。
私には馴染みのない市町村を案内板をチラチラ見ながら走る。気が向くと食堂やお店に寄り、景勝地で駐車して海や山並みを眺めて進む。
小樽では裕次郎博物館で時間を費やす。私達年代の青春と重なる人だから。
昔日活映画を見て、映画館を出るときは裕次郎になった気分でいたもんだ。
札幌には寄らずに苫小牧に向かう。
カーナビの無い車だが、ロードマップを見ればそれほど道を違えることは無い。
暗くなったころに孫たちの家に到着。娘の帰宅を待って一杯始める。
孫達もずいぶん大きくなった。長男は高校一年生。長女は中学2年生である。
旅の疲れと酒の酔いが回り早めに就寝。
一人旅
苫小牧で女房殿はギブアップ。
5月29日から先は私一人旅となる。
先ずは襟裳岬をめざし、十勝川を眺めて見たい。十勝川ではハルニレの大樹が有るというのでこれも見てみたい。昔小学校の国語に、北海道開拓時代の文章の中に楡の木が載っていたのを憶えているせいだと思う。
日高地方は牧場が多い。日本の競馬を支えている馬産地である。
サラブレットPA、サラブレット新冠という道の駅もある。
襟裳岬には夕方5時過ぎに着いた。霧で全く視界がきかない。それでも灯台まで行き何枚かの写真を撮る。風が冷たく強い。
ほうほうのていで車に戻り今夜のネグラの場所を探さねば。道道34号を進むと直ぐに百人浜という大きな駐車場が有った。トイレも水もある。今夜は此処にしようと決めた。
翌朝起きると大きな鳥が舞っている。鷺よりも大きい。尻尾が黒いようにも見える。そうするうちに近くの湿原に下りた。双眼鏡でのぞくと丹頂鶴の様である。写真を撮りテント撤収。
右手に海を眺めながら北上する。
R336号に乗り更に進む。黄金道路と言うらしい。
拾いコンブ漁
襟裳岬に近づくころから気になっている車が有る。小型貨物車になぜがドラムが積んである。荷物を吊り上げるドラムかと思いながら眺めていた。
小舟を海から陸に引き揚げるために使用するのだろうと想像していた。
いたる所で漁をして、岸壁のある港だけではなく、自家の近くの浜辺にあのドラムで小舟を引き上げるのだろう思ったのです。
ところが違いました。そのドラムを使用して仕事をしている人達を見たのです。
5月30日早朝のこと、えりも町の北部の道路と浜の間には段差(護岸)が有り壁がありました。
海岸で拾い集めた昆布をこの吊り上げ機で車まで引き上げている最中でした。成る程!! と納得しました。
しばらく眺めていたのですが、写真を撮リたいと思い作業をしている人に了解を得てシャッターを切りました。それが冒頭の写真です。
そうこうしているうちに作業が終わったようですので、お礼を言って先に進もうと思いました。お礼を言ってそうしようとしたら「その前に私の家がすぐそこだから寄っていきなさい。昆布を少し上げるから」と言われるのでした。
その人はご夫婦でこの作業をしていたのです。
家に行くと奥さんがレジ袋いっぱいに乾燥させた昆布を下さいました。恐縮しきりの私でしたが、お礼を言って連絡先をメモして車を走らせました。
これが御縁で現在も季節の便りの交換をしています。新たに親戚が出来たような状況です。これが縁と言うものでしょうか。
十勝川
ナウマン象は関東地方が初発掘で名前が付いたと思っていました。
忠類村は十勝川河口の手前(南側)10kmくらいの村。R336号を走ると原生花園という看板をよく目にする。ロードマップにも幾つもの原生花園が載っている。
そんな看板の中に「ナウマン象発掘地」なる看板。
北海道にもナウマンゾウがいたのか? と思い道を左折。立派なモニュメントも解説板も有りました。
忠類ナウマン象記念館があるようですが、私は先を目指しました。
http://www.town.makubetsu.lg.jp/kyouiku/matikadogallery/naumanzokinenkan/naumanzo.html
十勝川は幕藩時代は北海道への入り口の一つであったようです。
河口の一角にそのような記念碑がありました。十勝発祥の地という石の大きな角柱が立っています。
此処から十勝川を遡ります。
豊頃町幌岡は河口から15kmほど上流。ここの河川敷にハルニレの大樹が2本生えています。
対岸は役場のある茂岩という所。茂岩山自然公園というのがあり、日帰り温泉付きのキャンプ場がありました。温泉に浸かり静かなキャンプを堪能できました。
翌日は池田町のワイン工場を目指しました。
キャンプ場を早出したこともあり、開館前に着いてしまいました。大型バスも到着。乗客は中国人の団体客のようです。日本中どこへ行っても彼らが居ることに改めて驚きました。
ショップの開館を待って中に入り、何か目に留まらないかと物色。
これからどのルートを選ぶか?
帯広市内は特にお目当てが有りませんでしたので素通。
日勝峠越えを選ぶ
R38号を北西に走り、R274に左折して日勝峠へ。生憎の雨模様。
峠に差し掛かるころは小止みになった。視界は利かないし、寒いので記念写真を撮り峠を下る。日高町のから松という小さなキャンプ場の駐車場に車を止める。今夜は此処が宿。
翌日は天気は良い。平取町を目指し沙流川沿いに下る。着いた所はアイヌの郷。
二風谷アイヌ資料館 | 鹿角の椅子三脚 |
この様な施設や地域を見学しながら平取町を後にして苫小牧を目指し、途中でもう1泊して苫小牧に着いた。
そしてフェリーにて大洗港へ。