伊 座 利(徳島県美波町)

2015/4/15


23番札所 薬王寺
 2015年4月7日に三度めの薬王寺を訪ねる。
1,2度目はお遍路で。今回3度目は美波町の春の風に吹かれたくて出かけた。
1,2度目のお遍路でお世話になった日和佐のTさんと花見がしたくて出かけた。
今年の四月は例年にない天候不順。7日朝に日和佐駅、道の駅に到着した。が、あいにくの冷たい雨降り。
見上げると薬王寺のサクラも盛りを過ぎているが、いつ見ても薬王寺の山上の瑜祇塔(ゆぎとう)はすばらしい。瑜祇塔の屋根に立っている5本の相輪は他では見たことが無い。
薬王寺のHPにこのお堂の解説がありますので、興味のある方はご覧ください(http://yakuouji.net/meguri/meguri25.html)

Tさんと薬王寺での花見はこの冷たい雨で中止にして、夜軽く一杯やりましょうということで、私は電車で更に南の海陽町に向かう。
海陽町阿波海南文化村の「町立博物館」を訪ねる。目的は海部刀見学

海部刀
 海部刀は戦国時代から江戸時代の初めに活躍したという刀です。大坂夏の陣では蜂須賀軍がこの海部刀を振るい大活躍したそうです。
この刀の特徴の一つに、棟の側に鋸刃が付いている物が有るということです。
どうしてこのように鋸を刀と一体にしたのでしょうか。解説書にはいろいろな使い方が書かれています。
瀬戸内水軍が、水中で碇綱などを切るのには鋸刃の方が便利だったとか。
何はともあれ現物を見たくて海陽町博物館を訪ねました。博物館のHPを(http://www.nmt.ne.jp/~bunka/)ご覧ください。海部刀で検索すると沢山の画像も出てきます。
数十振りの海部刀が展示されています。そして鋸刃付の海部刀も展示されていました。身幅が少し広いように見受けました。それに全体的に中型(脇差)の刀が主体です。小回りが利いて使い勝手が良かったとも。
館内は平日ということもあるのか、拝観者は私一人であったので、ゆっくりと見る事が出来ました。
蛇足ですが、昼に駅前の食堂で食べた生姜焼き定食は味が私にはイマイチでした。店は統一地方選挙関係の人達でいっぱいでした。
私の住んでいる地域では、統一選挙には無縁であったので、ここ海陽町に来て「そうかこの12日日曜日は各地で選挙か」と感じた次第です。

津波常襲地帯の警鐘碑
 東海、東南海、南海地震。
今一番心配されている地震の一つがこの地域です。歴史的にも定期的に被災に遭っている地域のひとつに四国太平洋沿岸があります。
ここは皆さんご承知の相模トラフという地殻の沈み込による海溝地帯を震源とする地震です。
プレートテクトニクス論のフィリッピン海プレートがユーラシヤプレートに沈み込み、相模トラフが造られて、この相模トラフが地震の震源域と言われています。

康安の地震と近年の地震 (震源域は東海、東南海、南海に区分)
 ・1361年7月26日(正平16年(康安元年)6月24日)(東南海、南海連動) M8,4(南北朝時代)(由岐ナビの神社、寺院、遺跡をクリック)
 ・1707年10月28日(宝永4年10月4日)宝永地震 (東海、東南海、南海連動) M8,6
 ・1854年12月23日(嘉永7年11月4日)安政東海地震 (東海、東南海連動) M8,4
 ・1854年12月24日(嘉永7年11月5日)安政南海地震 (南海地震) M8,4
 ・1944年(昭和19年)12月7日昭和東南海地震 (東南海地震) M7,9
 ・1946年(昭和21年)12月21日昭和南海地震 (南海地震) M8,0

 私が今回美波町で是非見てみたいと思っていたのが津波警鐘碑です。
10年前の歩き遍路の折、旧由岐町の木岐海岸で何気なく見たのが安政津波の警鐘碑でした。(石灯籠の脚に彫ってある)
その時の印象では、此処はかねてより地震、津波被害の常襲地帯であるから、このような津波の碑が有るのだろうなぁと見て通過したのでした。
2011・3・11の東日本大震災の折、東北の各地でも津波警鐘碑が話題になりました。昔の人達が「津波はここまで来たのだよ〜」と後の人々に警鐘のため建てた碑です。

1361年の津波被害については、美波町由岐地区に康暦(こうりゃく)の碑というのがあります。この時代は南北朝で年号が複雑ですので年号解説は省略します。が、康暦年間にこの津波で亡くなった人々の供養塔を建てたようです。日本で一番古い津波記念碑だそうです。由岐ナビにリンクしてありますのでご覧ください。碑は風化が激しく解読は難儀だそうですが、過去に研究者が拓本に採ったりして報告書が出ています。興味のある方は、美波町に問い合わせれば「康暦の碑(板碑)について(上・中・下)森本嘉訓」があります。
なお太平記にもこの津波被害の事が書かれているそうですので、都でも一大事だったのでしょうね。
道の駅日和佐」には亀太郎、亀次郎、亀三郎とう有名人?が居ります。その亀太郎さんが私が道の駅に着いた時に居られて、いろいろな情報をいただいた中にこの報告書があります。わざわざ由岐支所に行き、報告書をいただき私に渡して下さったのです。亀ちゃんに感謝!!
そうそう、今回の美波町行に際して「由岐ナビ」で事前勉強をしました。この「由岐ナビ」は由岐地区に住んでいる人が製作したもので、大変役立たせていただきました。戎井さんありがとうございました。

嘉永地震津波
 嘉永7年11月4・5日の二日に亘り大地震が連続したようです。美波町では11月5日の津波で大被害を受けたという。
木岐地区の「王子神社」境内にこの時の津波警鐘碑があります。
幕府はこのころあまりにも悪い事件が続くので、嘉永から安政に年号を変えたのだそうです。
しかし年号を改めても幕末期のこの時期、ペリー来航や安政の大獄、桜田門外の変など、問題が次から次へと発生したのは歴史の示すところです。

     
 王子神社の安政の碑  碑文の拓本 木岐市街地の津波到達碑 

この灯籠の左側面に「津波にはよくよく注意するように」という碑文があります。碑はそのままでは読みずらいので拓本にしました。
当日は天気がイマイチで、風も強く碑に和紙を張り付けるのに苦労しました。条件が良ければもう少しきれいに採れるのですが。(腕の悪いのを天気のせいに転嫁)
この碑のある所から由岐市街地に向かって海岸線を歩きました。
木岐の街中にも由岐の街中にも、昭和21年の津波到達位置に石柱や石の階段にその表示がありました。
やはり此処は津波常襲地帯!!

伊座利へアクセス

 伊座利は徳島県美波町の海岸線の東端。紀伊水道に簪のように阿南市の蒲生田岬が突き出た半島の付け根辺りに位置しています。
伊座利は山ばかりで平地は全くありません。伊座利へ行くにも山また山を越えなければ行けません。開いているのは太平洋の大海原だけ。入り江ともいえないような小さな窪地に伊座利漁港が有るのです。今は防波堤も岸壁もある港ですが、以前はちょっとした砂浜に小舟を引き上げていたという静かな、小さな漁村だったそうです。

伊座利へはバス便だけです。1日3便。
お昼の便で由岐駅前からバスに乗り、伊座利キャンプ場へは14時前に到着しました。ちなみに乗客は私を含めて3名でした。
生憎天気が芳しくなく、いつ雨が降るか分からない様な状態。テントを張っても管理棟に避難しても利用料金は1000円/泊。初日は管理棟に避難させていただきました。(結局管理棟に3泊)
荷物を降ろし、とりあえず伊座利漁港に出かけました。徒歩20分余りの所。
船溜まりに小舟が10艘あまり係留しています。人影は見当たりません。防波堤や岸壁の辺りをブラブラ。
今回伊座利まで来た理由は、過疎対策として小学校の生徒を絶やさないことで地域の活性化を図る活動を見てみたい。(地域の存続をかけた運動)
ネットHP「いざり人」に活動内容は書かれているのですが、実際にこの目で伊座利を見てみたいというのが目的ですので、何方かに会って話も聞きたいと思いながらブラブラしていたのです。

岸壁から一段高くなった駐車場のような所に戻ると数人の子供と2人の青年が小川の向こうからこちらに向かって飛び石をケンケンするように渡ってきました。
一輪車で河畔から土砂を運んでいる小父さんと彼らが立ち話。遠くて何を話しているか分からないが親しげな様子。(後で判ったことですが、伊座利校の先生と生徒でした)
やがてその小父さんが漁協の敷地に戻ってきた。
私は何気なく話しかける。天候が今年は良くない話とか、由岐駅からバスで山道を1時間近く走ってきたこととかを。
この方はHPの表紙を飾っている鉢巻きTシャツの小父さんだと直ぐにピンときた。が、名前は分からない。しばらくの間よもやま話をする。
話が進み留学生徒や親御さんたちの話に至る。せっかく移住してきても長続きせずに帰る家族もあるようだ。小父さん曰く「親が変わらなければだめだ」。
明日の昼はイザリCafeで食事を楽しもう。そう思い店を覗く。漁港の隣に瀟洒な建物。何でも昼時には行列ができるという繁盛している店だという。

     
 漁港入り口に浮かべたイケス イザリCafe 開店前からお待ちのお客様  船溜まりから漁協・イザリCafe


4月10日
 生憎昨夜からの雨。
雨音を聞きながら朝寝坊をむさぼる。遅い起床で先ずコーヒー。ありあわせの物を口にして11時を待つ。イザリCafeは11時開店である。
10時半を回った頃にキャンプ場を出発。イザリCafeに来てみると既に10名位が外で待っている。この雨の中、地区外から来たお客のようだ。阿南市とか遠く徳島市からも来るという。リピーターも多いと聞く。私も遠路茨城県からだが。
朝、漁港に水揚げされたばかりの魚を使った料理だ。メニューは当日にならないと分からないともいう。
店が程なく開いたので私も店の中に入る。中はほぼ満員。まだ11時を過ぎたところだというのに。街中の食堂でもこれほど早くからお客が押しかける店はそう多くはないだろう。
私はエビと魚の天ぷら定食を注文する。周りを見渡すとイザリ御膳を注文する人が多くいるようだ。ややあって定食が出る。天ぷらたっぷりの定食だ。
食べ終わって膳を見るとまだ天ぷらが大分残っている。どうしようかと思案したが、後先逆さになってしまったがビールを注文する。
腹いっぱいになり外に出て雨傘をさしてキャンプ場に戻る。途中新田八幡神社に詣でる。なかなか立派な社である。軒周りも立派な枡組(斗供)である。HPによれば階段に使用している石材の緑泥片岩は、遠く吉野川沿岸から運んだそうである。青銅製の神馬も立派だ!!(これも銅像というのかなぁ?)
此処の人達が大原女のように、頭に荷物を載せ商いをして稼いだお金だろうか。いただきさんというらしいが、ここの人達は働き者だ。
キャンプ場に戻り時間が有り余るので、持参した単行本菊池寛の「恩讐の彼方に」を何十年振りかで読む。

4月11日
 薄日が射している。今日は雨の心配はなさそうだ。
10時を回った頃にキャンプ場を出る。漁港に着くと今日は人影が見られる。エビ網らしき物を船に積んでいる漁師さんがいる。軽トラで運んできた網の笊を船に積んでいる。
余計な事だが「手伝いましょうか?」と話しかける。網笊の数は多くない。しばらく話していたが、船を少し移動するからと言って桟橋の方に船を移動した。夕方漁に出るのにその方が勝手が良いのだろう。
再度雑談を始める。話しているうちにこの方はYさんという方で、件の村興しのそもそもの発案者(関係者)の一人のようだ。

平成になって少し経った頃、YさんはPTA会長をしていたそうである。
ある日校長先生から「あと数年経つと生徒が一人もいなくなってしまうので、学校も統合されて伊座利校は閉校かなぁ」と言われたそうである。
村内を見渡せば広くない村なので「あの子が卒業すると確かに続く子供はいないのでしょうがないのかなぁ」と思ったそうです。
それからしばらくして家でTVを見ていると「山村留学」という番組をNHKで放送していたそうです。それを漠然と見ていたのですが、山村留学を漁村留学に置き換えて考えたらどうだろうと思われたそうです。
早速学校に行き校長先生にそのことを話し、伊座利校を何とか存続させる方法は無いだろうかと話し合ったそうです。
しかし、どこでも少子高齢化が進んでいる中で、そう容易くいい方法は見つかりませんでした。
それから何年か村中で何とかして学校を存続できないだろうかと協議を重ね続け、やがて伊座利の未来を考える推進協議会を立ち上げたのでした。
この活動については件のいざり人に詳しく書かれていますのでご覧ください。

現状についてお話を伺いました。
生徒は20名前後毎年いるのだが、集落の現状は厳しいものがあるようです。第一に高齢化です。小学生は集まっても、住んでいる人達は年々歳を重ねます。
大敷網のメンバーは現在8名程でしているそうです。機械化で少人数でもできるようですが、やはり漁場は人が多くいないと力仕事に力が入りません。
エビ網漁師は一人か二人しかいないようです。
漁業で生計を立てる若い人が居てこそ、漁村は繁栄するのです。都会から少数ではありますが、伊座利で漁師になりたいという人も移り住んでいるようですが、その数が増えないと。
ここ伊座利では漁業しか仕事は無いのだけれど、それに関わる人は少なくて、阿南市の会社などへ通勤している人も結構いるそうです。
気が付けば結構長い時間Yさんと話をしてしまいました。
Yさん長い時間お付き合いいただきありがとうございました。

学校の存続という所期の目的は果たしているようですが、伊座利の将来はこれからが勝負だと感じた次第です。

このあとイザリCafeで少し遅い昼食。その後天気に誘われ県道を伊座利峠まで登り、山の斜面の杉木立の中に人家が点在する小伊座利地区をとおりキャンプ場に戻りました。

県道開通の碑

 
 感謝の碑と知事選ポスター


 伊座利のバス停(バスの終点)に大きな石碑がありました。
中央に感謝 県道開通 右側に此の県道はあなた方の真心によって貫通いたしました 原知事さん森口県議さん浜名町長さんありがとう 左側に昭和三十四年七月二十五日 伊座利地区一同

台座を含めて2メートルもある大きな碑です。それ以前の伊座利への道はどのようになっていたか存じませんが、県道開通がこの地区の人達の長年の悲願であったのでしょう。
調べていませんが、旧由岐町の市街地から海沿いの急斜面の山肌を削り、伊座利を通り、伊座利峠を越えて阿南市方面へ県道が貫通したことへの喜びが伝わる碑です。
海で暮らす人々ですから、何かあれば船を走らせたのでしょう。しかし海はしけの時も多くあります。山越えの歩く道はあったことでしょうが、重病人などが出た時は難渋したはずです。
車が走る山越えの県道が開通したことの喜び・安堵感がこの石碑からよく伝わります。
今でも「陸の孤島」という言葉を目に・耳にするこの地域。
此の県道を走るバスは1日3便ですが、由岐市街と繋がる重要な交通手段です。おそらくバスは赤字経営でしょう。私が乗車した時も、途中の阿部(あぶ)まで病院帰りというお婆さんが二人乗っただけでしたから。
しかしこのバスが有るというだけで、沿線に住んでいる人達はどれだけ安心感を得ることでしょう。赤字とか黒字とかという問題では無いはずです。安倍総理、日本の隅々まで目配り気配りをお願いします。

私も長年土木行政に携わってきた身ですが、道路の完成に対してこの様に住民が自分達の気持ちを直接的に表したものを見たことがありませんでしたので、強く心に響いた碑でした。
碑文の「貫通」という文字が、その気持ちをよく表しています。海沿いは海岸線と平行に連なる山並み。背後は襞のように重なる山々。まさに陸の孤島であったことでしょう。前は海。後ろは山。
何処かの民謡の一節にもこのような下りがありますが、此処は背後(北側)を山々が屏風のように立ち塞ぎ、南は海で、海と陸の間には切り立った海岸崖。由岐市街から一直線に伊座利に向かって道が開け、北の阿南市方面へ貫通した県道。
昭和34年当時は今のような車社会ではありませんでしたが、陸路が開けたことで伊座利の人達が喜び、安堵した様子が目に浮かぶ碑です。
石材は白っぽい御影石で、写真では写りが悪いので、碑文を書き写してきました。