あらためて東日本大震災

2015/02/06 追記
2013/05/05


二年間行けなかった東北の被災地
 何やかやとした理由で今まで行けなかった東北の被災地。
今年のゴールデンウィーク、五月の連休を利用して行ってきました。
原発で避難を余儀なくされている福島県広野町や楢葉町。津波被害で壊滅的な牡鹿半島の数多くの漁港。
見てきました。

茨城県北部
 その前に茨城県でも最大の被害を受けた北茨城市。
大津港と平潟港に先ず行きました。
大津港には20年以上前に一度行った記憶がありましたが、今回行ってみて別な場所に行ったような景色でした。
港の岸壁の近くにあったはずの民家がすっかり無くなっていました。友人の実家は港のすぐ傍にあったのですが、その辺りには民家は全くないのです。「津波で家は流されなかったが、水浸しになったので移転した」と彼から聞いたけれども、近所もすべて無くなっていました。
今回はお遍路の七つ道具を持参しました。
被災地で灯明を上げ、線香を立てて、般若心経を唱えるつもりで家を出たのです。
被災地でそれは出来ませんでした。
お座なりのそのような儀式は似合わないのです。心が咎めました。
目礼をして、静かに般若心経を唱えるのがやっとでした。

両港を後に福島県に入りました。平潟港のすぐ隣はもう福島県。

原発被災地
 いわき市街地は国道六号のバイパスで迂回。
道の駅よつくらで丁度昼食時間。
海鮮丼のチケットを自動販売機で購入し、番号札の呼び出されるのを待つ。
これが中々出てこない!!
30分位待ってやっと昼食にありつけました。

道の駅よつくらの敷地隣は被災時のガレキ置き場(ガレキとは言えませんが壊れた漁船の仮置き場)
何艘あるか分かりませんが、漁船の壊れたものの山です。

よつくら道の駅前の被災船の山

プラスチック製の大小の漁船が山積みされています。
漁業をする人の命の次に大事な船が、無残にも壊れて山積みされているのです。
今日は五月の連休初日。大勢の人々が道の駅にいます。
何処から来られた人達か分かりませんが、この光景は皆見ています。しかし食事をしている人達は、誰もこれを話題にしてはいませんでした。
二年経ってもこの惨状ですから、皆心を痛めていることでしょう。皆さんはあえて口にしていないのだと思いました。
やっと出た海鮮丼を食べて道の駅を後にした。

原発事故地帯
 広野町のJビレッジを右手に見て通り過ぎ、楢葉町役場が右に見えたが、職員が居るのかどうか分からない。人気が無いのです。国道にも役場周辺にも。
(ネットで検索すると、楢葉町はいわき市いわき明星大学内に仮の役場を設置しているそうです。道理で人気が無い訳だ)
役場から1km程行くと、国道6号線が通行止め。
汚染地域へは一般者の立ち入り禁止です。(東電福島第一原発から4kmの距離)
神奈川県警の警戒車が来たので、そのことを確認して迂回路の説明を受けた。
持参した東北地方のロードマップで説明を受けるのだが、説明をする警察官も神奈川県からの派遣者。
要領がイマイチなので、概ねのところの説明を受けて、分からなくなったらその先で再度聞くことにした。

国道6号線から県道35号に乗る。更に県道36号で川内村に入る。道の両側の雑木林に先程から黒い大きな土のう袋が気になっていた。
土のう袋の置いてある周辺の雑木林がやけに綺麗に清掃されている。下草が一本も生えていないのだ。キレイに刈り取られています。
そうか!! 除染だ!! 話には聞いていたがこういう事なのだ。

下草を刈って黒い袋詰め たくさんの黒い袋

民家が近づくと黒い袋はあっちにもこっちにも数え切れないほどあり、黒い袋の山だらけ。
これを誰かが運んで行くのだろうが、毎日増え続けるこの袋の山をどうするのだろうと疑問を感じてしまう。

通行制限道
 国道399号を北上して葛尾村(かつらお)役場を右に見ながら進む。程なく登舘峠(のぼたて)を登りきるとゲートが締まっている。この先へは進めない。此処でどうするか迷っていると、後ろから神奈川県警の護送車の様なパトカーが登ってきた。
聞くと「一般者はここから先へは行けません」という。
更に後ろからトラックも登ってきて警察官と交渉したが駄目のようで、此処で引き返して行った。
護送車は鍵を開けて中へ消えた。

護送車は扉を開けて中へ 古戦場?の枝垂れ桜

 私もUターンして一旦役場まで戻り、県道50号を西に進む。国道459号の沿道に「合戦場のしだれ桜」という名木があった。
帰宅後ネットで検索すると、源義家(八幡太郎義家)と阿部貞任・阿部宗任兄弟が戦をした場所との故事からきているそうです。
更に国道459号で二本松市に出て、国道4号に乗った。
東北自動車道と国道4号は少し離れているので、福島市を過ぎるまで国道を走ろうと考えた。混雑するようであれば高速道に変更すれば良いと下道を走る。
良い塩梅に国道の流れは良く、国見まで国道を走り、今回の旅で初めて高速道路に乗った。
一路牡鹿半島へ。

牡鹿半島
 高速道路を大和(たいわ)で降り、県道3号から9号へ走り、途中の「道の駅おおさと」で仮眠しようと車を降りる。
しかし連休のせいかキャンピングカーその他が多数駐車しており、騒々しい雰囲気を嫌い更に車で走る。
とうとう石巻港まで来てしまった。
夜で景色は分からないが、海の傍に居る雰囲気。
ファミリーマートがあったので中に入り「日和山公園」への道を訪ねる。店長が「夜道で分かりずらいが、夜どうして公園に行くのか?」尋ねたので「牡鹿半島まで行くのだが、夜になってしまったので公園の駐車場で仮眠するつもりです」と答えると「それじゃ此処の駐車場が広いので、ここで休みなさい」と言ってくれたので甘えることにした。
ちょっと贅沢なエビスビールをゲットして、一人車内(畳の間 走るホテル)で晩酌をする。麦焼酎も少しいただく。

 翌朝目を覚ますと良い天気。昨夜は星空が見事であったが今日は良い旅ができる。
そう言えば大震災の夜も満天の星空であった。余震が続く中、庭で薪ストーブを炊き夜食を作り、孫達と寒い思いをした事がよぎる。
朝飯を購入して先ずは石巻港の状況を見ようと走り出す。
道は直ぐに岸壁に行きあたり、左折すると右側が海。
此処の岸壁に車を止めて朝食。外の空気が吸いたくなり車を降りると異臭がする。周りを見渡すと大きな製紙会社がある。此処の廃液の匂いか? 震災時の海の汚れの匂いか判別はつかないが、波が寄せる度に臭い。
早々にして先を急ぐ。県道2号線で半島の先端目指して走る。目的地は表浜。

今回の目的地にした表浜(小網倉浜、大原浜、給分浜、小渕浜)をいつの間にか過ぎてしまい、広い空地の浜で車を止める。
走り過ぎてしまった理由は、何処の浜(集落)を見ても津波で流されてしまって、建っていたはずの家が一軒も無いのに目が奪われて、地図で地名を確認しないまま、あれよあれよと走っていたのです。
停車した所は十八成浜(くぐなり)。停留所の時刻表でこの字を目にしたのだが、何と読むのか分からなかったが、停留所の先の松林の小さな公園の看板にルビが付いていて読めた。
海沿いの平地に家は一軒も無い!!!
山裾にわずかに残る数軒の家。

海沿いの街が山裾まで皆流された カメラの後ろは岸壁 社の鳥居は愛知ボランティアセンターからの寄贈

山の端に真新しい赤い鳥居が目についた。早速神社にお参り。此処は民家のあった所より少し高台にあるので、津波の被害は無かったようだ。
お参りして戻ろうとすると一人の小父さんが神社に来られた。
全く人気のない所に来られた人なので、神社で何をされるのか気になって見ていた。
社の戸を開けて中に入った。中で何かゴソゴソ音を立てている。出てきたので見るとビニールの袋に硬貨が二握りくらい入っている。

お聞きすると昨日はこの神社(白山神社)の祭。どうやらそのお賽銭のようである。
社の中に立派なお神輿が鎮座している。昨日の祭りでは海の中に渡行したのだそうだ。
聞きそびれたが、震災後初めてのお祭りをされたのかもしれない。担ぎ手は集まったのだろうか?
あまりにも人気が無いのでいらぬ心配をしてしまった。

鳥居前の立て札には「奉納の記 この鳥居は平成23年3月11日の東日本大震災に伴う大津波により倒壊した鳥居に代わるものとして 愛知ボランティアセンター(代表 久田光政氏)より寄せられた災害復興支援金にて 製作建立し奉納したものである。平成24年4月  十八成区」とありました。
地区の産土神の鳥居。遠く愛知県の人々のご厚意によって、地区の人達の心の拠り所のランドマークとして鳥居を建てたという事のようです。

鮎川港
 鮎川港へは8時前に到着した。
漁港でいう所の荷捌き所の砂利敷きのところで、ビニールシートを敷いて寝たような集団が起き出すところであった。何故か皆大きなザックを背負っている。
フェリーボートの切符売り場(仮設建物)に人だかり。売り子ならぬ小母さんが何やら言っている。
聞いてみると定時船と臨時船の切符を売っていて、臨時船は500円高だが定員が集まればすぐ出港するし、船足が速いという。
昨日から金華山神社のお祭りで、フェリーボートも昨日から運転し始めたので、乗って欲しいという。
定期便は9時出発とのこと。未だ間がある。

復旧中の岸壁を見てみることにした。
地震で岸壁が沈下してしまい、1.5m位嵩上げをした消波タイプの岸壁の一部を供用開始して、その一角にフェリー乗り場がある。

嵩上げ岸壁(カモメの嘴の右下人だかりが乗り場) 古い岸壁と新しい岸壁 すぐ横では取り壊し中のビル
港近くには仮設のれん街も2棟出来た 鮎川港のバス時刻表と運転手募集

新しい岸壁を使用しているのは、金華山方面と連絡しているフェリー船。その他にはホエールウォッチング?様の船が数隻係留しているだけのようです。
ザックの中身が何か聞きませんでしたが、大きなザックに長方形の様な荷物(マットレス?)を背負った一団が乗り込む船が気になった。(パラグライダーかもしれないなぁとも思いながら)

バス停の時刻表に「運転手募集 普通免許でOKです」というのがあった。
バスの運転手は大型2種でないと乗れないものと思っていた私には理解できない募集広告。
港のすぐ近くに仮設の商店街(棟)が2棟あった。A棟は日用品や一寸した土産物店が8店舗。B棟には飲食店が同じく8店。
B棟は早朝のため一軒も開いていなかった。開いていれば朝定食を食べたいと覗いたのでした。
A棟の開いていた雑貨店の小母さんが熱心な売り子で、ついつい何点かを購入しました。
クジラの缶詰が何種類かあり購入しましたので、仲間と飲むときの肴にしようと思っています。

いよいよ表浜
 鮎川港を9時前に立って今回の目的地「表浜」に戻ります。
岬と入江(漁港)が交互になっているリヤス式半島。鮎川港の次は十八成港。
次が表浜4港の中の小渕浜、そして給分浜。

給分浜
 給分浜の入口には十一面観音の案内標識がある。県道を左折してゆるい下り坂を港に下りていく。
荷捌き所一面に瓦礫の山、山。種別ごとに別々の山があります。それらをパチリ。
港には数隻の漁船が係留してありました。岸壁も真新しく、未だ供用開始して間もないようです。
仙台から来たという年配のご夫婦がその光景を眺めていました。
足元を見ると沈下してしまった元の岸壁が所処に残っています。段差は1m弱。ワカメ漁をする様な小舟は見当たりませんでした。

 
震災瓦礫を周辺から集めた山 漁網の手入れ 十一面観音堂 11面観音様 

 給分浜漁港を見下ろす小高い丘に十一面観音堂があります。
堂への階段口に案内板がありました。下記の様な内容が記載されています。
解説文は「牡鹿半島癒しの旅委員会」のHP 牡鹿半島の伝説 から拝借しました。(メールにて委員会様より了解を得ました)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~osika/regend.htm

「給分浜の観音堂には、国指定の重要文化財「十一面観音」があります。
この観音像は、鎌倉時代に奥州藤原氏の守り本尊だったものが、源頼朝に攻められたときに四代泰衡が衣川に流し、それが北上川を下って田代島に流れついたが、「縁起が悪い」として再び海に流し、最後に対岸の給分浜に流れ着いた、という話が残されています。」



追記.2(2015/2/6)
 東京上野の国立博物館(トーハク)にて2015/1/14〜4/5の会期で「みちのくの仏像」展が開催中です。
みちのくの国宝や重要文化財その他貴重な仏様が展示されています。この中に給分浜の11面観音様も鎮座しています。
早速私も2月6日に上野に行き拝顔しました。その時のパンフレットから転用して今回載せさせていただきました。身の丈3m近い一木造りの見事な仏様です。
これでやっと観音堂に魂が入りました。

追記.1
 後日委員会様から下記の様なメールをいただきましたので紹介します。

内容につきましては、使っていただいてかまいません。
かえって、有難く存じます。

震災という地獄の思いをしたあの日から今現在になる
まで、本当に言葉にあらわすことができません。
今までの生活・思い出の物が一瞬にして無くなってし
まいました。
事務所も全壊で、資料として残っているものは、ござ
いません。
何とか牡鹿半島癒しの旅委員会は、どんな形でも良い
から残さないとという気持ちからHPは残しておきま
した。
仮設の店舗に入り、以前のようにはいかない部分が多々
ございますが、少しずつリニューアルしていきます。

これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

牡鹿半島癒しの旅委員会事務局




十一面観音様は階段を登りきったところに鎮座しております。
堂の扉が閉まっているので、観音像は拝む事は出来ませんでしたが落ち着いた建物です。
白木作りで飾り気は無いのですが、風景に溶け込んでいます。

観音堂から階段を下りてきた所の民家の庭先で、漁網の手入れ(新調のようだ)をする人達を見つけました。
港も応急復旧が済んだ様子なので、これから漁業を再開する準備でしょうか。打ちのめされても立ち上がる姿を目の当たりにして、目頭が熱くなりました。
明日へ向けて、新たな一歩を踏み出すために漁網作りをしているんでしょう。
頑張って下さい

大原浜
 県道2号線と県道41号のT字交差点の左側の海に係船柱が水没しているのに気が付く。
慌てて交差点であるが交通量も少ないので、左側に駐車して写真を撮る。
写真を撮り終わり良く見ると其処へ行ける取り付け道がある事に気がつき入ってみる。
漁港でいうところの斜路(漁船を海から引き揚げたり下ろしたりする斜めの岸壁)であった。
再度アングルを決めて撮影する。

その斜路に1トン位のプラスチックの小型船の塗装をしている人がいた。その人としゃがんで話をしている人が2人。
斜路の周辺を商売気を出して点検。(漁港建設をした経験が私は有りますので)
そのうちその中の一人が立ち上がり私と挨拶を交わす。
当り障りのない四方山話をした後、津波震災の話に自然になった。

名前を聞きそびれたが、
・彼は55歳で子供達は都会に出て独立している。
・津波の時は船に乗って避難。沖合で一晩過ごした。
・石巻港や市街地が流れ出した油の火で大火災。何もする事が出来ずに一晩中眺めていた。
・震災前は定置網漁をしていたのだが、網は津波ですべて流された。
・わずかに残った漁具は友人にあげた。
・これから莫大な借金をして定置網をする元気は湧かないので漁は止めた。
・これからは女房と自分達年寄りの(未だまだ若いがなぁ…)生活が出来れば良いと考えている。
この様な内容の話をされて苦笑いをした。
横顔は決して笑っていない。寂し気な顔であった。
私は話を聞いただけで何も言えずに、ただただ相槌を打っただけであった。

小網倉浜
 小網倉浜には民家が全く見えない!!
漁港の岸壁の復旧が出来ていない。なので、津波被害から逃れたと思われる漁船は沖合に停泊しているようだ。横一列に10隻くらい停泊しているのが見える。
昔むかし港に船が接岸できる岸壁が整備されない時代、船の係留風景はこのようであったのであろうか。

係船柱が水没している大原浜防波堤と岸壁 此処のバス停にも標識には運転手募集が 沖合に停泊している漁船

山が海まで迫り、平地の少ない小網倉浜地区。
ようく見ると山裾で重機が動き復旧工事中。
住民は何処かの仮設住宅で暮らしていることでしょう。
津波に流されずに残った神社らしき建物が見える。周りの崖が赤茶けて見えるので、神社のすぐ傍まで津波が来た事がうかがえる。

目の前のパラペット(波返し)の陸閘(切り欠き部)に「開けたらすぐに閉める」という注意看板が何故かむなしく見える。
なにしろこのパラペットをはるかに超える大津波が押し寄せたのですから。
他所の浜では港の入口にある水門の様な大扉を、消防団員が閉鎖作業中に津波が押し寄せ、多くの消防団員が犠牲になったと報道されています。

パラペットの切り欠き部 中腹に津波から助かった社 奥松島希望のあかり祭り

小網倉浜で表浜再生プロジェクト関係者と会えたら、現状をお聞きしようと思っていたのでしたが会えませんでした。人気が無いのです。
小網倉浜を後に帰ることにしました。
被害の多かった北東側の港街には行く元気が出ませんでした。
これでもか!! という程に、十分津波被害状況を見せていただきました。

支倉常長銅像
 「月ノ浦」を見下ろす台地に支倉常長が、慶長18年9月15日(1613年10月28日)此処から遣欧使節として出港したという解説文と銅像が立っている。
銅像が立っている場所は、数台の駐車場と銅像前に小さな広場がある。
その小さな広場に仮設住宅と思しき建物が1棟建っていて、広場は全く使えない状況。
この様な所にも仮設住宅を建てるという事は、この地域においては高台の広場がいかに少ないかを如実にもの語っている。
この状況を写真に撮る事ははばかれ、写真は撮れませんでした。(誰かのブログには掲載されていたのを見たけど…)

申すまでも無く支倉常長は江戸時代初期、鎖国政策が始まろうとしていた時に、伊達政宗の命を受けヨーロッパへ遣欧使節団長として行った偉人。(中学の教科書で習った?)
1609(慶長14)前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がスペイン領メキシコへの帰途に台風に遭い、上総国岩田村(御宿町)の海岸で座礁・難破した。
地元民に救助された一行に、徳川家康がガレオン船サン・ブエナ・ベントウーラ号を贈りメキシコへ送還した。この事をきっかけに、日本とスペインとの交流が始まった。

参照
◎ ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E5%80%89%E5%B8%B8%E9%95%B7
慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現・石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。

◎ 千葉県のホームページ
http://www.pref.chiba.lg.jp/kokusai/kokusaikouryuu/exchange/mexico/
「日墨交易400年の夢」(千葉県文書館作成)から
1 それは千葉県御宿から始まった


奥松島
 帰り道は海沿いの県道を走りました。此処まで来たので帰り道、瑞巌寺をお参りして帰ろうと考えたのです。
途中で「奥松島 希望のあかり」というイベント会場がありました。
寄らせていただきました。カラオケ大会の様でもあり、セミプロの実演(古いか!! 今風ではライブ )の様でもあります。

イカを焼いたり、ホタテを焼いたり、その他諸々の食材が並んでいます。老若男女、地域の面々が皆出ているようなイベントです。中学生も高校生も一生懸命お手伝いをしていました。
私は昼時でもあったので、まぜご飯の弁当とホタテ焼きやその他適当に頼んでとりあえず昼食。
弁当を食べていると豚汁の様な汁物の差し入れもあり、ゴッツアンです。
被災地では何とかして地域を輿したいと一生懸命努力しています。

瑞巌寺に近づくと車が動かないのです。大渋滞です。連休の二日目で、多くの人々がこの地域に来ているんです。
一旦は渋滞の列に並んだのですが、しびれを切らして大きく北側に迂回して、高速道路に乗って帰宅しました。
茨城県に入っても渋滞は3か所ほどありましたが、茨城の地理は詳しいので、迂回・迂回を重ねて20時頃に帰宅できました。
体も心も疲れました。


この度の被災地行を振り返って

福島第1原発爆破事故
 気には掛けていたのですが、行ってみて被害の大きさにあらためてビックリしています。
原発被災地はすさまじいです。
未だ帰宅できない人達の街は、原発事故以前そのままのようなたたずまい。
目に見えない放射能汚染で、帰宅困難区域や制限区域。
便利に使用している電気が、原発で起こされていた事を忘れていた私達。
便利さの裏に事故が起きた時の最悪被害を、どれだけの人々が日頃心配しているでしょうか?
かく言う私も日頃は全く考えていませんでした。電気はひねるとパッ。
これが一度事故となると、かくも酷い事になるとは!!!


原発推進者には国民に理解できる懇切丁寧な説明と、その上で大多数の同意を得てほしいと願います。
特に断層の真上や中央構造線上や東海沖地震の予想震源地のすぐ目の前の原発をどう説明するのでしょうか。
原発の必要性を説く時に、地域経済を質に取るやり方は納得できません。
原発を止めるも、続けるも重い課題です。


津波被害
 TVの動画で津波が次々寄せ来る、切羽詰まった映像を何度も目にしていました。
その津波が猛威をふるった後が、この様に何にも無い邑になっているのです。
被災に遭った人達に、何と言えば良いのでしょうか。言えるでしょうか。
この2年の間、現地に足を運ぶ事すら出来なかった私ですが。

 時の経過とともに被災しなかった地に住んでいる人は、津波被害の事を忘れがちですが、この被災状況を一目見たら決してそうはいきません。
自分の住んでいた集落が全く消失してしまっているのですから。
日頃の生活の中で出来る事は有る程度限られてしまいますが、誰にでも出来ることとして
「津波被害を忘れない!!」ことではないでしょうか。
スーパーで東北3県の名前が入った商品を目にしたら、手にとって買い物篭に入れましょう。