下北・津軽自転車旅

2010/5/8


2010年4月29日(木)
 青森駅に着いた時は薄日が差していた。
ヤマト便で前もって送った自転車を営業所で受領。営業所は青森駅の直ぐ近く。
営業所の前には駅前の公園。
公園なのでゆっくり支度ができる。藤棚のバーゴラ下で早速前輪を取り付ける。

サイドバックにそれぞれ装備品を詰め込み装着する。今回は小型の衣装箱を
後ろの荷台に着ける。ガサバッテイル荷物はザックに詰め込んで衣装箱の
上に括り付けた。
準備完了である。(右の写真)

ロードマップを前の鞄に差し込んで、取り合えず青函連絡船を拝見しに港へ。
薄日射しているのに何故か頬にポツリポツリと冷たい雫が。いやな予感。

下北半島編

 観光物産館に入り青森の基礎勉強。入り口でイカを焼いていたので短冊に切ったのを一杯購入。何気なく買ったこのイカが、この後大変
役に立つとを後で知る。
この物産館を出る頃には雨が本格的に降る予感がしてきた。朝の天気に未練があり、合羽を着ずにスタート。しかしまもなく本降りになり、
コンビニのローソンの軒下を借りて合羽を着る。雷も鳴り暫らくは自転車に乗れず、ローソンで食べ物を買い(義理買い)30分は雨宿りをさせていただいた。

浅虫温泉の道の駅に着いた頃は多少小降りになった。
道の駅(ゆ〜さ浅虫)に入り少し早い昼飯。此処は5階建て。いろいろあるが3階がレストラン。カキフライ定食800円也。
隣の棟が産直市場。まだスタート直後なので此処はパス。
いよいよ本格的にペダルを踏まねばならない。風も強くなってきたが幸いにも西風で陸奥湾から吹きつける風。野辺地町方面は真東方向。
尻に帆を掛けてまっしぐら。
野辺地町の手前は平内町。昔水戸の独身寮で青森出身の平内さんという人がいたが、彼は若しかしてこの平内町出身であったのかも、などと昔に思いを廻らす。この町の境界に藩政時代の津軽と陸奥の境があり「境の一里塚」なる物が現存する。そのいわれを説明する立て看板もある。

野辺地の港周辺の道を走り国道279号に乗る。県道8号線に乗換えて一路小川原湖を目指す。
道の駅おがわら湖には15時過ぎに到着する。道の駅で食材を購入するが刺身が無い。聞けばかみきたちょう駅近くのスーパーに行けばあるという。
キャンプ場は湖畔。場所を確認して最寄の玉勝温泉へ。髭も剃りさっぱりしてスーパーで刺身を購入する。
キャンプ場につくとバイクでツーリングしている若者が2張り既に張って食事の支度中。
私も近くに場所を選定して張る。雨は既に止んでいるのは有り難い。

初日から雨で難渋したが、明日からは天気が回復するようだ。
ビールと焼酎を刺身を肴にグビリグビリ。美味い。久し振りの野宿で気持ちは晴々。風はひどく強い。フライシートがバリバリ音がする。ペグをしっかり打ち込んだので心配は無いと思うが、子守唄にはボリュームが大きい。外に出てみると星もチラホラ見える。明日は大丈夫だろう。
湖面は風上なので波も無い。酔いがまわり早めの就寝。(一晩中風の音が子守唄代わりであった)

4月30日
 風があるものの薄日が射している。小川原湖の朝である。5時起床。今日一日の無事を念じてテントを撤収する。
まずは寺山修司記念館を目指す。それに明治維新のときに、会津から下北へ移封された斗南藩に関わる施設も見たい。
スタート時は後ろからの追い風。小川原湖の東側に回った途端に強い横風。樹木が切れて見晴らしの良い所は強い風の吹き抜ける所。
それでも松林などもありホッとする所があり、程なく斗南藩記念館と寺山修司記念館に着く。
記念館の手前に小川原湖畔キャンプ場という広いキャンプ場がある。一部を覗いて四阿で休息する。
記念館は9時前で(開館は10時から)まだ開いていない。周辺を眺め回し再度ペダルを踏む。

道の平坦度は実に心地良い。つまり坂道がほとんど無いのだ。出発前に調べた限りでは、下北半島も津軽半島も第四紀の地層。つまり180万年位前からの比較的新しい大地。これは関東地方の平地と同じ時代でかつての海底とか沼地に堆積した洪積層や沖積層などで出来ていて平地が多い地帯。
走ってみると正にその通りで、霞ヶ浦周辺の地形に極似ている。特に仏沼と小川原湖に挟まれた県道170号線は利根川河口地帯とそっくりだ。
道の駅みさわは斗南藩記念観光村と併合してしる。日本の酪農発祥の地の一つのようだ。明治に入り全国で酪農が盛んになり、牛や羊が飼われたようである。此処でヨーグルト4本と赤カブの漬物1袋を購入した。

むつ小川原港に寄る。
此処は大規模開発が第一次オイルショックなどで挫折して、目的を変更して現在に至っているかつての新産業都市の中核港である。
現在この地域は原子力や核燃料貯蔵施設など核関連施設が目立つ。
西風が強く、砂塵が直接吹き付ける岸壁に座り、ジュースを口にしながら鹿島港の建設時代をラップさせながら感慨に浸る。
私の青春時代は鹿島臨海工業地帯建設にドップリ漬かっていた。砂丘の中のスイカ畑が大工業地帯に変身しのだから、そのエネルギーはすさまじかった。(回顧)
六ヶ所村役場の近くで昼食をとる。尾鮫橋を渡り県道24号線に左折した所の食堂でカツ定食。

昼飯を食べてからひたすら北上。
国道338号線は泊漁港を過ぎると、海岸線が様相を変え断崖絶壁の続く起伏の多い道になる。
物見崎灯台がチラチラ見える辺りが最たるもの。一旦白糠漁港に下り、港町の細い旧道を走る。ジグザグで狭い道は、私のような外来者が通過するのは決して良いことではないが、迷い込んだ私には珍しい景色が目に飛び込んで楽しいものだ。
バイパスが出来たら(工事中)このような者は少なくなるだろう。

東通村に入っても原子力関係の施設が目に付く。村興しのため、やむに止めない苦しい選択なのかもしれない。
道はすこぶる良い。改良が進んで道幅も広く平坦度が良く、舗装の品質が良い。茨城県道よりもずっと良い。
自転車で走ると、まるで自転車専用道路かと見間違うほどの走り易さである。
潤沢な原子力関係の交付金などのためかもしれない。難しいなぁ。村興しは。

 夕方、津軽海峡を眼前にする。県道6号線に出て岩屋地区に入る。
そろそろ夕飯の心配をしなくてはならない。酒屋の看板が目に入りビールをゲット。
食料品店や新鮮な魚を売っている店を訪ねる。が、しかしこの岩屋地区から尻屋崎までの間に店は無いという。
今日は強風で尻屋崎にはテントは張れない。
酒屋で手に入る食材? を購入して、来た道を1km程西に戻り「ゆとりの路側帯」(ロードパーク)にテンとを張る。
ここは西側に松林があり強風を防げる。
水洗トイレも水道もあり、もってこいのテントサイトだ。テンとを張っていると先程の酒屋のご主人が車で来た。
「軍手を忘れたので届けに来ました」と言いながらニコニコ。あり難い!!。 何と親切なことだろう。感謝感謝である。
今日は110km以上の走行距離だ。ビールをゲットした嬉しさで、手袋を忘れてしまった。(何時も何処か抜けている私)
見晴台から異様な空模様の津軽海峡の日没を写真に撮る。

津軽海峡の不気味な夕暮れ 尻屋崎灯台と寒立馬 道路脇の松林の中の藪にカモシカが


今夜は米を出し飯を炊く。食堂や弁当の手配が出来なかったから。非常食用に四国遍路でも持参した米。今回はその必要は無いと思いながらも持参した米。
やっぱりこのような野宿旅には、米の持参は必要であることを再認識した。
美味い飯が炊けた。おかずは昨日青森の観光物産館で何気なく購入した焼いたイカを、醤油と砂糖で甘辛煮を作った。自画自賛だが美味く炊けた。今夜も風を肴に、呑んで、美味い飯を食べ就寝する。

5月1日
 天気は晴れ。
5時過ぎに起床。コーヒーを沸かし、朝食前に一杯。テントの外に出てラジオ体操。今日も風は強く、海上に白ウサギが跳んでいる。
7時過ぎに装備を確認して出発。まずは尻屋崎へ。追い風で快調。途中に三菱マテリアルの砕石工場のようなプラントがある。
セメント工場だという。道路脇で露出している岩の白っぽいのは石灰岩か。茨城県の日立セメントの石と比べかなり白い気がする。

尻屋崎の白亜の灯台。周辺の草地には寒立馬(カンダチメ)が放牧されている。サラブレットなどの競走馬とは異なり、農耕馬でガッチリしている。
北海道へ通うフェリーボートから眺めた灯台だ。早朝のせいか寒風が強いせいか観光客はまばら。
写真をとり終え灯台を後にする。

まるでの向かい風。三菱マテリアル工場を過ぎ、岩屋漁港に近づいた時に突風が吹いた。よろけた瞬間に前輪の空気がプシューと抜けてしまった。 パンクだ!!  漁港の倉庫のような建物の影に入り、急ぎパンク修理。前輪を外し、チューブを抜き取り点検。
タイヤもチューブも異常はなさそう。取り合えず空気を入れ、携帯用ビニールバケツに水を汲み、チューブを浸すがプクプク泡が出ない。
ムシが悪いのかと思いバルブ(中空ゴム)を取り替えて修理(整備)完了。
竜飛岬に近づいた時に同様の空気抜けをするまで、この原因が分からなかった。(パンクでは無かったのである)

両側は大きな松林。前面の海岸は野牛浜。白砂青松100選の名所。風が無ければ渚を見たいが心を残し走る。
遠くで道路を横切る大型動物をちらっと目撃。何だろう???  双眼鏡を取り出しそーと覗いて見る。若しかしたらカモシカかも。
近づいて松林の中を見ると、正しくカモシカ。最初は遠くから望遠レンズで撮影していたが、近づいても逃げずにいるので数メートルまで近寄りパチリ。上の写真である。松林にもカモシカがいるとは思いも寄らなかったが、下北半島には最北のニホンザルがいるといつかテレビで見た記憶を思い出し、カモシカも最北かと一人納得する。
東通村レストハウスに立ち寄り早い昼食。かけそば350円、肉鍋200円、赤カブの漬物、その他を少々購入。
食堂等の施設が中々無いので、時間を多少無視してでも、気に入った処があれば食べる事としている。

出発する時に気になっていた事を点検した。荷物が振れる感じがしたのは風のせいだけだろうか?
よく見ると荷台を車体に止めるネジが1本外れて無いのだ。これは大変だ!!! どうしよう?  持ち合わせの針金で応急手当をした。
次にホームセンターか自転車屋があったらビスを購入し整備しなくては大変な事になるなぁ。(焦る気持ち)

大畑町は漁港町。生きの良い魚をゲットすべく町の魚屋に行くが、海がずっと時化ていて生魚は無いと言う。がっかりだ。
せっかく立派な俎板と包丁を持参したのに。やむを得ずカレイのような干物を1尾と水タコの足を1本購入。(情けない)
これを持って薬研温泉を目指す。スーパーで食材とビールはゲット。
薬研温泉までの道は勾配が緩く、何とか私の脚でも登れる。
国営薬研温泉キャンプ場に使用許可を得る。一人1泊500円なり。テンとを張り、早速奥薬研温泉に向かう。

駐車場に自転車を止め、温泉入り口の坂道で、下から2人湯上りのタオルを下げて登って来た。「大勢入っていますか?」と尋ねると「若い夫婦が二人だけ」と言う。 チョッと気も引けるが、日没も迫っているので勇気を出し坂道を下る。
脱衣場に着くと先行の奥さんが湯船に入る寸前の所。旦那さんが私の目を遮る様な格好で立ち塞がる。
悪いことをしているような気になってしまった。

この様なオープンスペースに来る人は(この明るい状況で)多少見つめられる事は織り込み済みだろうと、深くは考えない事にした。
まもなく何人かが加わり、賑やかになってきた頃お二人はいそいそ出て行った。
それからは私も気兼ねなく、湯船から出て体を洗う。
頭も洗い、髭も剃りサッパリする。
湯上り気分でゆっくり自転車を踏んで再度キャンプ場に戻り、干物を焼き、タコブツでグビリグビリ。風はまだ止まぬが、いつしか寝袋に入る。
お休みなさい。

5月2日
 薬研温泉を7時50分出発。5km程は何とか私の脚でも走れる。ところが5km〜8kmまでは縦断勾配10%前後が続く。
15kgの荷物を積んで、車体重量15kgの自転車を、私は乗って走ることが出来ない。私の体重と合わせれば100kgある訳だ。
あえぎあえぎ自転車を押し登る。
峠を過ぎると一転して急な下りの坂道。
恐山霊場まではひたすら下る。スピードがつき過ぎるのでブレーキレバーを握りっぱなし。途中で2度ほど休んで握力の回復を待つ。

10時に恐山着。約2時間の押上げ自転車。500円の入山料。お参りを済ませ早速温泉に漬かる。
境内にはいくつもの風呂がある。奥薬研温泉とは異なり当然男女別。
外に出て茶店に入る。おしるこ600円也。私はメニューを見て珍しく「おしるこ」を注文した。
店でおしるこを注文したのは、生まれて初めてかもしれない。2度目かな?

店を出て大湊へ。ところがいきなり登り勾配12%。
こんな急勾配はとても踏めない。
押し上げるのもやっとである。ひたすら押し上げる。
キャンプ場から湯坂まで、登りの高低差だけでも500m
位あるだろうか? 
兎に角暑つさと登りの辛さで参った。
恐山の山門 境内の温泉

やっと下りの坂道。 しかしこの下りが叉大変。
ずーと下るのだ。握力低下を招き、二度も休む。11時過ぎに恐山を出発して、大湊には12時30分に下りきる。
脇野沢まではもう少しと思いきや、残り38kmもあるのだ。15時30分発のフェリーに乗らなけりゃ、明日の午後まで脇野沢で待たねばならない。
おまけに風は向かい風。国道338号線は海沿いの道で風除けは無い。
急に心に余裕がなくなり、ローソンでいなり寿司とカルピスを買って前籠に積む。昼前に恐山の茶店でお汁粉を食べておいて本当に良かった。
(つくづくそう思った)

途中で2度小休止をとる。その際にいなり寿司をほお張り、カルピスで流し込んで叉走る。
脇野沢フェリー乗り場には15時25分着。切符売り場に行くとオジサンが「自転車はもう遅いので切符は売らない」という。
「まだ自動車を積んでいる最中でしょう」と抗議すると「自転車は最初に積むのでもう遅い」と言う。
粘っているとオジサンが船と携帯電話で連絡をしてくれる。何かやり取りしていたが「急いで下さい!!」と切符を売ってくれた。
車の横の狭いスペースに船員が押し込んでくれ、ロープを掛け転倒防止をする。「やれやれ」。まずは一安心。後は船上の人となる。


                            下北・津軽半島走行一覧

 月  日                  地     名 日走行距離           適         用
4月28日 八重洲2130
4月29日 850青森 浅虫 小湊漁港 野辺地漁港 小川原湖公園 74.3
4月30日 小川原湖公園 市営放牧場 R338高瀬橋 尾鮫橋 尻屋崎 112.5 大湊斗南藩庁跡他
5月1日 尻屋崎 大畑漁港 薬研温泉 60.1 陸奥湾フェリー0174-22-3020
5月2日 薬研温泉 恐山 大湊 脇野沢1530 1630蟹田 72.8 かっぱの湯(露天,無料)、薬研野営場
下北半島計 319.7
5月3日 蟹田k12・R339 今別 竜飛崎 54.4 十三湖ブリッジパーク(キャンプ場)
5月4日 竜飛崎 つがる市 58.6 亀ヶ岡石器時代遺跡、金木歴史民俗資料館、
5月5日 つがる市 五所川原市 67.7 イカと大根の煮つけ、立佞武多の館、五所川原歴史民俗資料館
5月6日 五所川原市 k37・R3391板柳町 k37・k41 弘前 50.3 弘前公園の桜、ねぶた村
5月7日 予備日 弘前2200 新寺町寺院街、最勝院五重塔、石場家その他
津軽半島計 231
5月8日 800八重洲
下北・津軽計 550.7



津軽半島編

 陸奥湾をフェリーで渡り、蟹田には16時半に着く。
早速「蟹田のカニを食べに行かねば」と思い、フェリーの切符売り場の女性に尋ねると「シロウオとカニ祭りは午後5時まで、もう終わりです」と言うではないか。
「それはないよ〜」太宰治も蟹田でトゲクリガニをたらふく食べたというではないか。わざわざ蟹田まで来たのにそれはないよ〜。
駅の観光案内所に行けば分かるかもしれないと言うので駅に急ぐ。もう日暮れは近い。

駅に着き中に入るが観光案内所などは無い。仕方なく駅舎を出ると、タクシーが客待ちをしていたので、カニを食べさせてくれる店を尋ねると、携帯電話で聞いて下さった。
「まるはち食堂が蟹田川の向こう側にあるが、其処でトゲクリガニを食べれる」と教えてくれる。その店であれば先ほどその前を通過して来たので承知。
今夜の宿を設営するため、再度フェリー乗り場まで戻る。隣の海水浴場のキャンプ場にテンとを張り準備完了。これで酔払い運転の心配は無い。
早速ウキウキして丸八食堂へ歩いて行く。これは○に八の字で丸八食堂。早速カニを注文。シロウオを尋ねると今日は無いと言うので刺身定食も頼む。まずは生ビール。そして熱燗を2本。飯も食べ外へ。
蟹田川の橋のたもとの民宿のような旅館(佐々木旅館)の入り口に[しろうおかき揚げ定食1000円]の幟がはためいている。
中に入り「幟に誘われて来たのだが、シロウオだけを食べさせて下さい」と頼むと「昼食だけなので、夜は無い」と言われシブシブ外へ。

蟹田川ではそのシロウオ漁らしき人々が作業中。夕暮れの中で写真撮影。
近づいて漁の話を聞く。そして間近で魚の写真をとらせてもらう。雑談をして帰ろうとすると、おばさんが獲ったばかりのシロウオを下さるという。タナボタで嬉しさ百倍。
テントに帰り、生きているシロウオに、田子(タッコ)にんにくを摩り下ろし、醤油をたらし寝酒をいただく。躍り食いというのは味はあまり感じないが、雰囲気で食べるものか。でもおばさんの親切に感謝感謝である。
この様な「オドリ」はもう随分昔、昭和38年に霞が浦でシラウオを食べたことが懐かしい。(水が汚れ、今では霞ヶ浦でオドリは食えないのかなぁ?)

5月3日
 天気は上々だが風は相変わらず強い。
高野崎を回ればまともに西風に吹かれるであろう。気は重いが今日は津軽半島の突端竜飛岬に着く日だ。
昨夜隣でテンとを張ったライダーはまだお休みのようである。

7時に蟹田を出発。
国道280号線は松前街道と地図に載っている。西側が陸地(小高い山もある)で西風を避けてくれるので快適な自転車。
しばらく進むと平舘(タイラダテ)という所に着いた。灯台があり土堤の上には立派な松並木。なにやら大きな案内板がある。幕末の頃、かの吉田松陰が日本防備の実情調査のためにこの地を訪れたとの事。そして松前藩は此処に砲台を構え、外国(ロシヤ)の侵入に備えたそうである。
現在は史跡として保存されている。隣は道の駅たいらだて「oh!だいば」。この後吉田松陰の立ち寄ったという所を何度か通過した。
現在放送中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」でも、龍馬が萩に松蔭を尋ねたら、東北地方へ視察に出張中で、留守という場面があった記憶がする。
道の駅では、私が行ってから蕎麦をこねて茹でたてがとても美味しかった。

今別町市街の手前に高野崎という所がある。此処の手前山陰は上り坂できついが西風を防いでくれる。坂道の頂点に出た瞬間に突風にあおられた。
よろよろしていると瞬間的に前輪の空気が叉抜けた。押して道路向かい側の休憩所「いさりび」に避難する。
考えた。これで2度目だ。観察すると空気を入れるムシの止めネジが緩んでいるではないか。原因は何だ。前回も風であおられた時に空気が抜けた。
その辺に原因があるはず。サイドバックが原因ではないか? 風であおられると鞄が振れて角がタイヤを擦り、その際にネジを緩めるのではないかと想像する。
そこで紐で鞄を4点止めにした。そしてタイヤに空気を入れた。これでおそらく大丈夫だろうと。(以後は事故は発生しなかった)
荷台のネジも心配だ。自転車屋は今まで無かった。

今別町市街地に入って食堂と自転車屋を探しながら走った。自転車屋が目に入った。早速入って声を掛けるが返事が無い。しばらく声掛けをしていると体の少し不自由なお婆さんがイザリながら出てきた。家の者をさかんに呼ぶのだが返事が無いと言う。店の中を見渡すと、小さな空き缶に古いネジ類が一杯入っているのが目に付いた。ガチャガチャ探していると荷台に合いそうな物が出てきた。
丁度その時、外から奥さんとその娘らしい二人が帰ってきた。
訳を話すと、ただであげると言うので有り難く拝領する。今夜キャンプ場に着いたら修理ができる。

ネジを下さったカワムラ自転車屋さん 竜飛漁港のアズマヤの隣で風を避け 階段国道下り口案内標

三厩の市街地を過ぎると義経伝説の「義経寺」というのがある。かなり立派な案内板や駐車場がある。此処は素通りして先に進む。
沿道食堂によりホタテ定食を食べる。沖は白波が立ちかなり強い西風が吹いている。竜飛岬のキャンプ場は絶望的だ。キャンプ場は風陰のない高台にあるからだ。風除けのあるところを探さなければならないだろう。漁港の周辺を探そう。

竜飛岬
 竜飛岬に到着すると案の定の強風。岬の灯台の下、漁港の最奥を物色。パラペット(波除け防波堤)の陰にアズマヤがある。その隣の広場が絶好場所。写真のように早速テンとを張る。
曇り空だが見通しは利くので、階段国道を登り灯台のある台地に行く。大勢の観光客が来ている。私も早速写真を撮る。気を抜くと風に飛ばされそう。
♪ご覧あれが竜飛岬 北の外れと〜 」懐かしい演歌が聞こえる。大きな記念碑にメロディーが付いているのだ。
寒さを感じてきたので階段国道を漁港側に下る。夕食の支度中に大きな拡声機で演歌が聞こえてきた。移動スーパーのようだ。山形の田舎でも馴染みのものだ。
今夜の肴は少し少なめなので覗きに行く。浜が時化なのでここにも生きの良い魚は無い。仕方なくサツマアゲを1袋購入する。
風も強いし寒さも感じるので、支度が出来たら食事だ。酒だけはタップリある。今夜のキャンプ場 ? は私一人。波と風の音が仲間で、相槌を打ってくれる。

5月4日
 夜が明け、テントの外を見ると霧。かなり濃い霧だ。寒い。雨は今の所降ってはいないようだ。
コーヒーを飲み支度をする。とりあえず岬台地の「道の駅みんまや」に登ってみよう。
階段国道とは別の急傾斜の上り坂を自転車を押して登る。
濃霧で何も見えない。昨日の夕方に写真を撮ったのは大正解だ。今日は五里夢中状態。何も見えない。道の駅でトイレに入り、早々に小泊を目指し先を急ぐ。
霧で道路のセンターラインが2本しか見えない。センターラインは5m刻みなので15m先がやっと見える状態だ。
道は急勾配。乗っては走れない。風と霧は敵だ。今日も押上げ押上げ先を目指す。道の駅の付近の道路の標高が70m位。国道339号線のピークは500mを越える。漁港からは高低差が500m。
道の駅から少し押し進んだ急勾配の山肌に黄色い花が霧の中にボンヤリ見える。目を凝らすとよくもまぁ、こんな急斜面に作ったものだと感心する小さな段々畑。かなり重労働をしないと作れない小さな段々畑なのに、なんと花を栽培しているのにはびっくり。仏様に備える物なのか。耕作している人の心根が伝わる。頭が下がる。

こんな小さな畑なのに花が栽培 峠の展望台標柱が霧で(写真補正してあり)

あえぎあえぎやっとの思いで展望台に到着した。霧で展望台案内の標柱が霞んでよく見えない。距離数メートルで撮影した写真も、明るさやコントラスト調整しないと掲載出来ないほどの霧。ほんの一息ついて下りにかかる。10%を越える下り道。スピードが出ないように必死でブレーキレバーに力を込める。
萱部の海岸線に下るまでに3度も休憩を取った。海岸に下ると視界は利く。霧は山の上だけで海岸から100m程までに下ると霧は切れていた。
七滝は横目で見ながら通過。寒いので竜泊温泉に入りたい。自転車を止めて旅館兼温泉の建物に入るが人気が無い。
大きな声を出しているとやっとオジサンが来た。何と温泉は休んでいるとの事。がっかりして先へ進む。
小泊集落の入り口に道の駅こどまりがある。時計を見ると10時15分。竜飛漁港から3時間掛ったことになる。

道の駅の入り口が一緒だったチャリダーと暫らく自転車談義。彼は名古屋から秋田まで輪行して来たそうだ。日本一周を目指しているという。
四国遍路で言う所の区切り打ちだ。何度かに分けて一周をするそうです。
2階のレストランは11時開店。未だ暫らく開かない。ぶらぶらしながら店内を回り何か無いかと物色。自転車に戻ると竜飛から車で下りてきたというオジサンが言うには下り道で自転車が転倒して怪我をしているようだったとの事。スピードと霧と風で転倒したのかもしれない。たいした事ガ無いと良いのだが心配だ。
11時を待ってレストランへ。メニューで目に付いたのが「いかカレー」。注文して食べるとウマ〜い。味はハマグリカレーに似ている。
早速我が家にメールにて報告。味も満腹度も満足。

多少のアップダウンを繰り返しながら一路十三湖へ。
十三湖の入り口駐車場辺りには「シジミ汁やシジミラーメン」の店が並ぶ。木橋のたもとに自転車を止め中島の歴史民族資料館へ。
十三湖と海岸(日本海)の間の鳥嘴状三角州の様な砂地に、かつて十三湊という港湾があり、安藤一族が栄華を誇っていたという。それは中世13〜15世紀の頃が絶頂期か。
発掘した資料などが解説付きで展示してある。

十三湖を後にする。かつての湊の導水路ともいうべき海岸線と平行に流れる十三湖の河口を見に行く事にした。海岸が砂浜や砂丘の場合、河口の向きが潮流その他の影響で、最短距離で海に出ず、海岸線に平行に流れる事は良くある事である。ここの場合は4km程南下してから海に出ていたようである。現在は砂に埋もれ、草や木が生えて河口そのものは判然としないが、かつての河口近くに浜明神という立派な社がある。

浜明神は湊の守り神であったかも 七里長浜の海岸砂丘崖 メロンロードに立つ道案内版

浜明神までも砂丘に植えた松林の中を走ったが、この砂丘と松林は何処までも続く。
途中から東に方向を変え、県道12号線に出る。田園地帯である。
しばらく進むと左側に変わった施設が目に入る。円形の建物。むらおこし施設フラットという。
一見道の駅と思える建物。中は物産館のようだ。食堂もあるのでメニューから麦トロを注文。
食事を済ませ店内で食材を購入する。押寿司のようなものとコゴミを購入する。今夜の肴と主食。

南下していくと車力町の車力温泉に着いた。町役場の隣で町の施設が沢山ある。
温泉に入る前に携帯電話の充電をしないと赤ランプ。温泉料金を払いコンセントを拝借する。町営温泉だが中々の設備である。
ゆっくり温泉に浸かり髭も剃った。
湯上り気分で自転車を踏み、また南下。

そろそろテント場を探さねば。ロードマップで狙いをつける。キャンプ場は見当たらない。基本的には何処でも良いのだが、静かな所を探そう。
チェスポロー号記念碑、高山稲荷神社というのが海岸近くにあるようだ。その周辺なら「テントを張る所があるだろうと」思い七里長浜海岸に狙いをつける。
県道12号線を右折し、西に進むとまもなく大きな赤い鳥居がある。更に進むと件の神社に到着。信者の宿泊施設のような大きな建物だ。人と気はほとんどしないので、駐車場を一回りして脇の細い道を海岸に向かう。すぐに行き止まり。テントの張れそうな草地があり通行止めの柵がある。
そこへ早速テントを張る。直ぐ向こうは海岸だが、強風は松林で防げるので絶好の場所だ。今夜も静かな夜を過ごせるだろう。
木の葉ズクの声が聞こえる。


5月5日
 朝海岸を歩いてみる。砂丘は粘性土と砂の互層で切り立った崖である。粘性土は不透水層になっており、湧き水が噴出している。
ここから少し南に行くと最終氷期埋没林という天然記念物の地層がある。生成年代は此処と同じで、その際に樹木を抱き込んだ部分が天然記念物地層となっている事だろう。

朝食を済ませ今日は亀ヶ岡遺跡に行く日だ。心が騒ぐ。
メロンロードを南下。全くの直線道路。平滝沼の傍に桜が満開の所がある。運動公園のようだが墓地の様でもある。
案内板がある。見ると江戸時代には此処に平滝村というのがあり、十三湊街道の宿場町であったそうだ。
飛砂との戦いで、30軒ほどの住民は享保10年全戸移転になったという悲しい歴史の地のようだ。
末裔は現在つがる市平滝地区に居られるそうです。末裔の人々が供養をしされているのか、墓所(記念碑と供養塔)は綺麗に手入れされ、周囲が桜の花の見事なこの公園になっているのは嬉しい限りだ。先祖を敬い、この後もこの地はこの状態でが続くことでしょう。

亀ヶ岡遺跡
 メロンロードを左折して亀ヶ岡に向かう。2〜3km走り遺跡に着いた。

遮光器土偶モニュメント 亀ヶ岡遺跡遠望 親切な佐藤さん

今年(2010)東京上野の国立博物館で、全国の貴重な土偶を一堂に集めた「土偶展」が催されました。
国宝が3点。重要文化財多数。その中に此処亀ヶ岡遺跡から出土の「遮光器土偶」も展示されました。遮光器というのは現代でいうゴーグルです。積雪の中で目を擁護するサングラスです。何故この様な目をしているのか謎です。古代人も北国では目を防護するために、何らかの防護器を着けたのでしょうかねぇ。

遺跡は小さな公園のような感じです。トイレと写真のモニュメントが有るだけのシンプルな遺跡です。
駐車場もほとんど無い状態です。手付かずの遺跡という感じですが、江戸時代から周辺は掘られていますので、どの程度の保存状態かは私には分かりません。
それに大々的にPRしていませんので、静かに古代人と会話が出来る気がしました。
私の見学姿勢が変わり者と見えたのでしょうか? 敷地内にお住まいの佐藤さんが出てきて、農作業などで遺跡周辺から出土する遺物のことなどを詳しく説明して下さった上に自販機からジュースを1本接待してくださった。
もう少ししっかりした遺跡公園のようなものが出来る事を希望しているようでした。
ジックリ見学した後近くにある「木造亀ヶ岡考古資料館」に移動する。

大溜池という灌がい池の傍のレンガ色の建物。展示部屋の広さは5×10m位の小さなものです。
中には土器や石器類。漆の塗られている遺物も多数。所有者や寄贈者の名前がそれぞれに表示しているのは珍しい。
その人達はほとんどが近くの農家の人のように思われる。農作業中に出土する物で、原形を留めているような物を保管していたようである。
お腹も空いたので何処かで食事をしたいと思うが、それらしい施設が目に付かない。
取りあえず木造駅前に行ってみよう。

旧木造町(つがる市)
 駅前に行ってびっくりした。過疎化が進んでいるのだ。駅前の一等地は空き地。その隣に立派な家があるがぺんぺん草が生えている歯医者さんの空き家。
通りもシャッターばかり。駅前にはたった一軒の食堂。其処で野菜炒め定食を食べる。
市役所やその他公の建物はかなり立派だ。街中の空洞化と比較するとかなりかけ離れた感じをするのは私だけだろうか。
合併特例の起債を活用したのだろうか。起債は返済しなければならないのに。

縄文住居展示資料館カルコ
 つがる市役所隣に縄文資料館カルコというのがある。此処は現代的な資料館の雰囲気だ。リアルな人形を使い縄文時代を演出している。
此処にも亀ヶ岡遺跡出土の遺物が多数展示しているが、それ以外の遺跡の物もかなりあり、津軽の古代を知るには良い施設である。

カルコを後にして県道115号線、43号線、151号線、2号線を踏んで旧金木町へ。太宰治記念館へ。
記念館前の駐車場は満杯状態。二輪車用の駐輪場もある。
料金を払い、記念館へ。作品の展示や年表がありしばらく見学する。今年は太宰治の人間失格の映画なども上映され、太宰の人気が上がり
かなり混雑している。(比較するものは無いが兎に角混雑)
早々に切り上げ五所川原市街に向かう。大規模農道で一直線で走り易い。

五所川原市街
 水田の中の大規模農道。兎に角一直線だ。時速30km近いスピード。
あっという間に五所川原に着いた。早速立佞武多の館へ。
初めての立倭武多だが、兎に角迫力満点。皆様も一度見てください。夏の夜空の元で是非一度観たい。囃子も良い。
17:30に館を出る時にテンとを張れる場所を尋ねた。市役所の前の通りを行き、運動公園が良いだろうと教えてくれた。
館の隣の生鮮市場で今夜の食材を購入。マグロの中落ちその他沢山購入する。

菊が丘運動公園は桜が満開。トイレ、水道も完備。早速桜の下へテンとを張る。
あっちこっちで花見の宴が張られている。私もささやかに(一人で)グビリグビリ始めた。
長い一日が終わる。

5月6日
 朝は太陽の光で目が覚めた。
支度をして岩木川沿いの国道339号線を上流に向かって自転車を踏む。
板柳町を通過する。この町は大相撲の高見盛関の出身地。また陸上の人気者福祉加代子さんの出身地。
板柳町のHPには板柳町出身者応援サイトがある。ご覧下さい。

斜陽館にて 五所川原の公園にて 佐藤りんご園

弘前には11時ごろ到着した。新岡(ニイオカ)地区の佐藤農園に向かう。地図を見ると簡単に行けそうなのだが途中に小高い
丘がある。これに実はてこずった。りんご園の中の行き止まり道ばかり。やっと新岡温泉前の道を越えて行き着くことが出来た。
板柳町辺りからずっと続くリンゴ畑。何処まで行ってもリンゴ畑。そしてその向こうには岩木山
美空ひばりのリンゴ追分が聞こえてきそうだ。「リンゴーの花びらが〜かぜ〜に散ったよな〜♪ 月夜にー月夜に〜」

佐藤りんご園に電話をして、私の居る所まで迎えに来ていただいた。
お会いしてびっくり。未だ若い青年。ニコニコして車から降りてきた。
朝方私と電話で話をした後直ぐに山火事があったそうです。彼は消防団員でもあるので、その消火作業をして今しがた帰宅したとの事。
農家の人は地域の底力にもなっていて、一人2役、3役の働きだ。ご苦労様です。

早速彼のリンゴ畑へ。スマートな樹形のリンゴです。いろいろその理由があるのだそうですが、まだまだ研究途上とのこと。
この手法で美味くて沢山収穫できて、夜にはご苦労さんの一杯が飲めるように望んでいます。

佐藤農園のこと
 佐藤農園と私の関係は2008年。NHKテレビの「ご近所の底力」で、この年の春に弘前地方は大きな雹が降り、リンゴ農家はリンゴに傷がつき売れずに困っていました。
味は良いのだが、指先ほどの染みが1コにつき一つか二つでき、それで市場に出せないというのです。
その晩の内に弘前にメールを入れました。翌日返信があり「テレビのお陰で私のリンゴは完売できました。だから私のリンゴは送れなくて申し訳有りません。友人のでしたらありますが如何でしょうか」ということでした。

私は同じ様な事で困っている友人というので、送って欲しいとお願いして紹介されたのが佐藤農園です。
そうして送られてきたリンゴはみずみずしく、シャキシャキと歯ざわりもよく、甘酸っぱく、今までスーパーで買って食べていたリンゴ、あれは何んだろうと思うものでした。
それで子供や知人にも照会して、2009年秋も送っていただきました。孫はリンゴジュースが良いと。
皆さんも宜しかったら本物のリンゴを食べてみませんか?  注文すると宅配便で送ってもらえます。
値段は食べてみて評価してください。

農薬はなるべく使わないように努力して(減農薬)、ミツバチによる受粉や肥料のやり方(施肥)もいろいろ工夫をしているそうです。
リンゴの木の下では黄色いタンポポが咲き乱れ、ミツバチがせわしく飛び交っている。
まもなくリンゴの花が咲く。そうしたらミツバチ達の出番。蜜を集める事はすなわち受粉作業。農家の働き手だ。
私には上手く説明できないので、佐藤農園のHPをご覧下さい。彼のリンゴ作りの1年が掲載されています。
ブログもあるので、おりに触れて覗いてください。
農園の写真を撮らせていただき、次の目的地「弘前城」を目指す。

県道3号線で程なく弘前城に到着する。
城の周辺も人混みがすごい。サクラ祭りには全国から花見客がいっぱい来る。人でごった返している。

                 
弘前城
 大手門前の堀の中は花びらで全くのピンク。
長いこと一度弘前城の桜を観たいと思っていた。それは老朽化した桜の木の枝をばっさり切り落として活性化したという話を聞いたからだ。
「桜切るバカ梅切らぬバカ」と言って、桜の枝は切らないものと相場が決まっていたのに切ったのです。
弘前市の公園管理関係者が老朽化して花の数が減ってしまったのをどうしようと考えた末の決断で、枝を落としたそうですがそれが見事復活したとの事を報道で知った時から、一度観てみたいと思っていたのです。

弘前城の大手門をくぐると城内は桜、さくら、サクラです。
江戸城の千鳥が淵のサクラも見事ですが、私には比べ物にならないほど弘前城のサクラは見事です。
夕方までには時間があるのでゆっくり、ジックリサクラ三昧。
城内は何処に行ってもサクラなのです。
追手門(大手門)周辺の堀の中は花筏でしたが、城内は未だまだ盛りでした。

初めてのホテル泊
 天気予報では今夜から雷つきの雨予報。
今回も青森を出発してからずっとテント泊。最後に雷雨の中でのテント泊は気が萎えてしまいホテルを探す事にした。
今夜の居酒屋との距離も重要だ。弘前市観光協会からいただいた市内の観光地図。番号を付してあるので位置は一目瞭然。
居酒屋から程近い所にスーパーホテル。水戸でも時々利用しているホテルチェーン。電話すると禁煙部屋が空いている。決めた。
今回の旅では初めての宿泊まり。夜に備えて早めに風呂に入り髭を剃る。

居酒屋「とりこ」で19時集合。
佐藤リンゴさんの小母さんの店。私の方が少し早く着く。まもなく彼も来た。数種類の肴を頼みグビリ、ぐびり。
話はまずリンゴ栽培の苦労や研究(試行錯誤の繰り返し)のことから。この話をしている時の彼は饒舌。
話し方は弘前工業高校出身の元同僚の建築ヤと同じ訛り。津軽弁というのは柔らかいねぇ。チョッと重い感じだが。
リンゴを買ってくれる人で、農園まで来たのは私が初めてだという。
10時過ぎに奥さんが迎えに来たので再会を約し彼と別れた。
外に出ると雨はまだ降っていない。千鳥足でホテルに戻り獏睡。

5月7日
 目を覚ますと雷雨。また眠る。
9時ごろ身支度をする。朝食を済ませ、荷造り。ゴミを処分してパッキング。
ヤマト便の営業所は市の郊外。未だ雨が止まないが、取りあえず最勝院の五重塔を拝見に行く。
国道7号線沿いの営業所に行き、輪行袋に入れて発送する。
直ぐ近くに「さくら野」という大きなスーパーや映画館などがある(映画館がるのは後で知る)。
其処から取りあえず弘前駅前に出てみた。

昼飯を食べて22時のバスまでは時間があるので、映画を見て時間調整をしようとして映画館の場所を聞いてびっくり。
先程の「さくら野」の一角に有るという。バス(100円)でさくら野に戻り映画館に入る。3Dのディズニー映画。
アリス・イン・ワンダーランドというものだ。暇つぶしにはまぁ良いとした。
3Dの感想としては疲れる。50年以上昔に見たときはびっくりしたが、現在映画やテレビで騒がれるほど感動は感じなかった。
テレビもパソコンもこれからは3Dになるというが、それはどうだろう? メーカー側の買い替え作戦かもしれない。

映画を観終えてバス停でジュースを買って駅に戻ろうとして、財布を捜すが何故か無い。そんなはずは無いはず。
映画館で財布からお金を出したのだから。でも、何度探してもポケットには何も無い。
考えた結果映画館以外は考えられない。青くなって映画館に戻り半券(たまたまポケットにあった)を示し
私の座ったイスの点検を依頼する。
入り口にいた職員がニコニコしながら戻ってきた。イスの間に挟まって有ったそうだ。イヤァー助かった
カードも、東京までの切符も入っていたので、一時はびっくりしたし大いに心配した。(未だついている)

駅前の「魚民」で財布が戻った喜びで飲み過ぎた。
仕上げは近くのインド料理店でカレーとナンを食べて「夜行バス」に乗り今回の青森の旅は終息した。


北のはずれへ(準備編)

2010/2/27

津軽半島

本州の北のはずれ
 あれが竜飛岬 北のはずれと〜♪見知らぬ人が指を指す〜
この春に竜飛岬へ「自転車のんびり旅」を計画している。
昨年、一昨年と四国を自転車で廻り、いささか足に自信めいたのを感じ、津軽・下北半島自転車旅を計画した。

亀ヶ岡遺跡
 まず行きたい処は亀ヶ岡。
この遺跡は縄文時代の遺跡で、江戸時代に既に発見、発掘(正確には盗掘)され、日本国中は勿論、外国にもその遺物が取引されたという遺跡である。
私が小学校、中学校の頃は今ほど考古学が日の目を見ない時代であった。ごく一部の好き者だけのような世界であった。
昭和30年ごろは東京大学構内の弥生時代の遺跡から出土した弥生式土器。或いは静岡の登呂遺跡などが有名だった。
その頃既に亀ヶ岡遺跡は有名であった。
亀ヶ岡出土の土器などには大変特徴があった。その頃は東北地方の特異性なのかなぁと漠然と思っていたことを思い出した。
少年期、縄文土器の縄目模様もさることながら、火焔型土器のあの不気味さが凄いと感じていたものである。

 上野の国立博物館で全国から出土した土偶の展示会があった(2009年12月15日(火)〜2月21日(日) )。
。此処にも亀ヶ岡遺跡出土の土偶 「重要文化財 遮光器土偶 縄文時代晩期・前1000〜前400年 青森県亀ヶ岡遺跡出土」 というトンボ眼鏡をかけた様な特徴ある土偶が展示された。
私もいたたまれずに見学に行った。
国宝 縄文のビーナス長野県棚畑遺跡出土縄文時代中期(前3000〜前2000)
国宝 合掌土偶青森県八戸市風張1遺跡出土縄文時代後期(前2000〜前1000)
国宝 中空土偶北海道函館市著保内野遺跡出土縄文時代後期(前2000〜前1000)
・発生期の土偶 茨城県利根町花輪台貝塚出土縄文時代早期・前7000〜前4000年
発生期の土偶として茨城県出土と紹介された、ごく小さな土偶には親しみを感じた。こんない小さな土偶を、発掘時に見落とさないでよくぞ見つけてくれたものだ。

舞の海の故郷
 異色の関取「舞の海」の故郷は鯵ヶ沢。
青森県は相撲どころ。何人もの関取・横綱を輩出している。昔は栃の海。歴代幕内力士出身地 [2009年 第一位 青森県] である。
特に印象に残っているのは舞の海である。誰も予想していない技「八艘とび」。猫ダマシ。など数えればきりの無い技のオンパレード。
ここの風土をこの目で見てみたい。

十三湊
 十三湖周辺にはかつて栄えた港町があったそうである。戦国時代に大坂の堺港と肩を並べる港であったそうだ。それが大津波で一瞬にして消えてしまったそうだ。時間的に多少の心配はあるが、この十三湖の公園でキャンプをして見たい。戦国武将たちがお出で下さるかも知れない。遠い在りし日を偲んでみたい。

風の岬「竜飛岬」
 1977年にヒットした石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」は一世を風靡した。
ご覧あれが竜飛岬北のはずれと〜  この岬は風の通り道。いつも風が強く吹くと聞く。銚子の犬吠崎も風は吹く。岬というのは何処でもそうではないかと思うけど、一度はこの風に吹かれてみたい。
海岸にある集落の道と半島の背骨にある道は高低差が大きくて、階段で接続しているという。俗に言う階段道。これも趣しろそうだ。

蟹田のカニ
 映画で今、太宰治の人間失格が売れている。私には堕落の学生のグータラ生活記としか思えないのだが。
太宰治は昭和19年に故郷津軽を旅して「津軽」を書いている。今回それを読んでみた。やはり付いて廻るのは酒である。
戦時中であるにもかかわらず、貴重な酒を工面してくれる故郷の友人知人。
蟹田ではたらふくカニを食べたと書いてある。
太宰も味わったトゲクリガニを味わえるイベント「蟹としろうお祭り」というのが四月から五月に掛けて催されるようなので楽しみである。

蟹田からはフェリーで脇野沢に渡る。場合によっては逆に脇野沢から蟹田へ渡るかもしれない。


下北半島

下北半島といえば「恐山」
 あの世に逝った人とも会えるという。イタコさんに故人を呼んでもらい、話を聞けるという前時代的な話。
それはとも角、温泉天国だ。何処に行っても温泉温泉である。茹蛸にならないように心掛けよう。
高野山、比叡山と並ぶ日本三代霊場とウィキペディア(Wikipedia)に載っている。

ウィキペディアから一部を引用する。
恐山は、カルデラ湖である宇曽利湖(うそりこ)を中心とした外輪山の総称である。外輪山は釜臥山大尽山小尽山北国山屏風山剣の山地蔵山鶏頭山の八峰。「恐山」という名称の単独峰はない。火山岩に覆われた「地獄」と呼ばれる風景と、美しい宇曽利湖の「極楽浜」との対比が特徴である。
寺名は恐山菩提寺、本坊はむつ市田名部にある曹洞宗円通寺である。本尊は延命地蔵菩薩

薬研温泉
 恐山から大畑町側におよそ15km向かうと薬研温泉がある。名前がいかにも恐山にちなむような気がする。谷間の地形が漢方薬などを粉にする薬研台に似ているという。つまり渓谷の中ということだ。未だ見たことが無いけどV字渓谷の中にあるらしい。春の芽吹き。秋の紅葉はすばらしいことだろう。
渓流を遡れば「かっぱの湯」という露天温泉もあるようだ。似た名前の温泉があるとの事で、此処ではかっぱが有名人のようだ。
キャンプ場もあるので安心だ。キャンプ場の傍に温泉があれば申し分ないのだが、露天温泉までは2kmくらいありそうだ。
渓谷見物しながら手ぬぐい片手に一風呂浴びよう。
大畑漁港は「イカ漁盛ん」とロードマップにあるが春漁はどうなのだろう。

尻屋崎
 竜飛が外れなら尻屋崎も外れだ。西北の外れが竜飛なら、東北の外れは尻屋崎。ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ。の銚子育ちの私も国の外れ者。
いずれも本州の外れだ。尻屋崎灯台を、北海道航路のフェリーから眺めた事は何度かあるが、現地に行くのは初めてだ。岬の突端は郷愁を感じるものだ。
下調べの一環でgoogleの地図・写真版の詳細図を検索するとモザイクが掛り見れない!!!
どうした訳か???  自衛隊の施設があるのだろうか?  田舎は詳細写真の準備が出来ていないのかなぁ。
この下北半島は縄文時代の遺跡が多いのに驚いている。青森は三内丸山や亀ヶ岡が有名だが、県内いたるところに遺跡がある感じ。
かつてはきっと住みやすい気候、地形、自然条件であったのだろうなあ。考古学大好き人間としてはとっても楽しみだ。

戊辰戦争と下北半島
 明治維新に向かう戊辰戦争。戊辰戦争と下北半島は、一見関わりが無いように思うが大有りなのだ。
幕末に会津藩は松平容保候が京都守護職。会津は薩長連合と最後まで戦い、負けて明治維新を迎える。
その後明治になってから会津藩は、会津から下北半島へ斗南藩として国替え再出発となった。会津と下北では気候がまるで違い、そこでの生活は苦難に満ちたものであったという。詳しくはそれにかかわる文献を参照されたい。
大湊には藩庁跡や関係の史跡があるというので、今回それらを見学したい。会津の古老は「先の戦争では…」という時には戊辰戦争なのだと会津出身の友人から聞いた事がある。如何に辛酸をなめたかという証だとも聞いた。




下北・津軽半島サイクリング計画表

月  日 地名 距離 地名 距離 地名 距離 地名 距離 地名 日走行距離
4月28日 八重洲2130
4月29日 850青森 20 浅虫 15 小湊漁港 20 野辺地漁港 30 小川原湖公園 85
4月30日 むつ小川原港 10 市営放牧場 14 R338高瀬橋 15 尾鮫橋 60 尻屋崎 99
5月1日 尻屋崎 35 大畑漁港 30 大間 30 大畑漁港 10 薬研温泉 105
5月2日 薬研温泉 15 恐山 15 大湊 25 脇野沢1530 1630蟹田 55
5月3日 蟹田k12・R339 37 今別 15 竜飛崎 20 道の駅こまどり 14 十三湖 86
5月4日 十三湖 26 金木 17 亀ヶ岡遺跡 22 鯵ヶ沢町 18 木造 83
5月5日 木造 6 五所川原市 6 k37・R3391板柳町 18 k37・k41 4 弘前2200 34
5月6日 800八重洲 547