2000.2.6版

崇神天皇の実年代(内外文献対照年表)

 日本書記の崇神天皇元年は、魏志倭人伝との類似内容からして景初二年(西暦238年)に相当するとの有力な説が従来からありました。これに加えてきわめて有力な新事実として、ホツマ伝の崇神天皇六年「いざ伴神は降ります〜いざ遠し行きの良ろしも大夜すがらも」の記載と、魏志倭人伝の正始四年「倭王はまた使者の大夫伊声耆掖邪狗ら八人を遣わし〜」とが対応しているようです。このため崇神天皇の実年代は従来説で正しそうなことがことが更に裏付けられました。他には該当しそうな年代もなく殆ど決定的と思われます。崇神天皇元年=西暦238年(景初二年)。以下、内外文献の対照年表を作成しました。

参考文献:
『魏志倭人伝他』石原道博編訳、岩波文庫
『日本書記』宇治谷孟、講談社学術文庫
『古語拾遺』斎部広成撰、西宮一民校注、岩波文庫
『全訳秀真伝』吾郷清彦訳解、新国民社


西暦238年=景初2年=崇神元年

【日本書紀】
崇神天皇即位
御間城入彦五十瓊殖天皇は開化天皇の第二子である。母を伊香色謎命という。物部氏の先祖大綜麻杵の女である。天皇は十九歳で皇太子となられた。善悪を識別するカが勝れておられ、早くから大きいはかりごとを好まれた。壮年には心ひろく慎み深く、天神地祇をあがめられた。常に帝王としての大業を治めようと思われる心があった。
元年春一月十三日、皇太子が皇位につかれた。皇后を尊んで皇太后とよばれた。
二月十六日、御間城姫を立てて皇后とされた。これより先、后は活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)・彦五十狭茅命・国方姫命・千千衝倭姫命・倭彦命・五十日鶴彦命を生まれた。またの妃、紀伊国の荒河戸畔の女、遠津年魚眼眼妙媛は、豊域入彦命・豊鰍入姫命を生んだ。次の妃、尾張大海媛は八坂入彦命・渟名城入姫命・十市瓊入姫命を生んだ。この年、太歳甲申。


西暦239年=景初3年=崇神2年

【魏志倭人伝】(ここでは景初三年が正しいとの通説に従います)
景初二年六月、倭の女王が大夫難升米らを遣わし郡に詣り、天子に詣って朝献するよう求めた。太守劉夏は役人を遣わし、京都まで送らせた。
その年十二月、詔書で、倭の女王に報じていうには、親魏倭王卑弥呼に勅を下す。帯方の大守劉夏が、使を遣わし、あなたの大夫難升米・次使都市牛利を送り、あなたが献じた男生口四人・女生口六人・班布三匹二丈を奉って到来した。あなたの在所ははるかに遠いが、そこで使を遣わして貢献した。これはあなたの忠孝であり、わたしは甚だあなたをいとしく思う。いまあなたを親魏倭王となし、金印紫綬を仮りに与え、装封して帯方の太守に付し仮りに授けさせる。あなたは、種人を安んじいたわり、勉めて孝順をせよ。あなたの来使難升米・牛利は、遠路はるばるまことにご苦労であった。いま、難升米を率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮りに与え、引見労賜し遣わし還す。いま絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹をもって、あなたが献じた貢物の直に答える。また、特にあなたに紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹おのおの五十斤を賜い、みな装封して難升米・牛利にわたす。還り到着したら目録どおり受けとり、ことごとくあなたの国中の人に示し、国家(魏)があなたをいとしく思っていることを知らせよ。故に鄭重にあなたに好物を賜うのである。と。


西暦240年=正始元年=崇神3年

【魏志倭人伝】
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁らを遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国にゆき、倭王に拝仮して詔をもたらし、金帛・刀・鏡・采物を賜わった。倭王は、使に因って上表文をたてまつり、詔恩を答謝した。
【ホツマ伝】
ホ33028 ミホナヅキ シギミヅカキに 三年九月 磯城瑞籬に
ホ33029 ニイミヤコ         新都
【日本書紀】
 三年秋九月、都を磯城に移した。これを瑞籬宮(奈良県桜井市金屋付近)という。


西暦241年=正始2年=崇神4年
【ホツマ伝】
ホ33029       ヨホメスエミカ 四年十月ニ十三日
ホ33030 ミコトのり ミオヤのさづく 勅宣り 御祖の授く
ホ33031 ミグサモノ クニトコタチは 三種神宝 国常立尊は
ホ33032 カンオシテ アマテルカミは 神璽 天照大御神は
ホ33033 ヤタカガミ ヲヲクニタマは 八咫鏡 大国魂神は
ホ33034 ヤヱガキと つねにまつりて 八重垣剣と 常に斉祭て
ホ33035 ミトカミと キはとほからず 三太神と 神気は遠からず
ホ33036 トノユカも ウツハもともに 殿床も 神器も共に
ホ33037 すみきたる やゝイヅをそれ 澄みきたる 愈稜威恐れ
ホ33038 やすからず アマテルカミは 安からず 天照大御神は
ホ33039 カサヌヒに トヨスキヒメに 笠縫邑に 豊鍬姫命に
ホ33040 まつらしむ ヲヲクニタマは 祭らしむ 大国魂神は
ホ33041 ヌナギヒメ ヤヤへのサトに 渟名城姫命 山辺の里に
ホ33042 まつらしむ イシコリドメの 祭らしむ 石凝留命の
ホ33043 マゴカガミ アメヒトカミの 孫に鏡 天目箇神の
ホ33044 マコツルギ さらにつくらせ 孫に剣 新に造らせ
ホ33045 アマテラス カミのオシテと 天照 太神の御璽と
ホ33046 このミグサ アマツヒツギの この三種 天津日嗣の
ホ33047 カンタカラ         神宝
【古語拾遺】
崇神天皇
磯城の瑞垣の朝に至りて、漸に神の威を畏りて、殿を同くしたまふに安からず。故、更に斎部氏をして石凝姥神が裔・天目一箇神が裔の二氏を率て、更に鏡を鋳、剣を造らしめて、護の御璽と為す。是、今践祚す日に、献る神璽の鏡・剣なり。仍りて、倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神籬を立てて、天照大神及草薙剣を遷し奉りて、皇女豊鍬入姫命をして斎ひ奉らしむ。

【日本書紀】
四年冬十月ニ十三日、詔をして、「わが皇祖の諸天皇たちが、その位に臨まれたのはただ一身のためではない。神や人を整え天下を治めるためである。だから代々良い政治をひろめ徳を布かれた。いま自分は大業を承って、国民をめぐみ養うこととなった。どのようにして皇祖の跡をつぎ、無窮の位を保とうか。群卿百僚たちよ、汝らの忠貞の心をつくして共に天下を安ずることは、また良いことではないか」といわれた。


西暦242年=正始3年=崇神5年
【ホツマ伝】
ホ33047       ヰトシゑやみす 五年疫病す
ホ33048 ナカバかる         大半かる
【日本書紀】
大物主大神を祀る
五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。


西暦243年=正始4年=崇神6年

【魏志倭人伝】
正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声耆掖邪狗ら八人を遣わし、生口・倭錦・絳青[糸兼]・綿衣・帛布・丹・木フ・短弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。
【ホツマ伝】
ホ33048       ムトシタミちる 六年民離散る
ホ33049 コトのりに たしがたしかれ 勅宣りに 治し難し 故
ホ33050 ツトにをき ツミカミにこふ 夙に起き 罪神に請ふ
ホ33051 フタミヤを さらにつくらせ 両宮を 新に造らせ
ホ33052 ムトセアキ ヲヲクニタマノ 六年秋 大国魂ノ
ホ33053 カミうつし ナツキソムカヨ 神遷し 九月十六日夜
ホ33054 アスのヨハ アマテルカミの 翌の夜半 天照太神の
ホ33055 ミヤうつし トヨノアカリの 宮遷し 豊ノ明の
ホ33056 イロもよし いざトモカミは 色も良し いざ伴神は
ホ33057 くだります イロのツズウタ 降ります 色の十九歌
ホ33058 いざとほし ゆきのよろしも いざ遠し 行きの良ろしも
ホ33059 をほよすがらも       大夜すがらも
「大夜すがらも」の解釈:大夜こわくて巣から出られない。(遠路航海の苦難)
【古語拾遺】
其の遷し祭れる夕、宮人皆参りて、終夜宴楽す。歌ひて曰はく、
 宮人の 大寄すがらに いさとほし 行きの宜しも 大寄すがらに
〔今の俗の歌に曰はく「宮人の凡衣膝通し裄の宜しも凡衣」といふは詞の転れるなり〕
又、八十万の群神を祭る。仍りて、天社・国社及神地・神戸を定む。

【日本書紀】
六年、百姓の流離するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。それで朝夕天神地祇にお祈りをした。これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬を造った。また日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りすることができなかった。


西暦244年=正始5年=崇神7年

【日本書紀】
七年春二月十五日、詔して「昔、わが皇祖が大業を開き、その後歴代の御徳は高く王風は盛んであった。ところが思いがけず、今わが世になってしばしば災害にあった。朝廷に善政なく、神が咎を与えておられるのではないかと恐れる。占によって災いの起こるわけを究めよう」といわれた。
天皇はそこで神浅茅原にお出ましになって、八十万の神々をお招きして占いをされた。このときに神明は倭迹迹日百襲姫命に神憑りしていわれるのに、「天皇はどうして国の治まらないことを憂えるのか。もしよく吾を敬い祀れば、きっと自然に平らぐだろう」と。天皇は問うて「このようにおっしゃるのはどちらの神ですか」と。答えていわれる。「我は倭国の域の内にいる神で、名を大物主神という」と。この神のお告げを得て、教えのままにお祀りしたけれどもなお験がなかった。天皇はそこで斎戒沐浴して、殿内を浄めてお祈りしていわれるのに、「私の神を敬うことがまだ不充分なのでしょうか、どうしてそんなに受け入れて頂けないのでしよう。どうかまた夢の中で教えて、神恩をお垂れ下さい」と。この夜の夢に一人の貴人が現われ殿舎に向って、自ら大物主神と名乗って、「天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意によるものだ。もしわが子大田田根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう」とつげた。
八月七日、倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣の先祖大水口宿禰・伊勢麻績君の三人が、共に同じ夢をみて申し上げていわれるのに、「昨夜夢をみましたが、一人の貴人があって、教えていわれるのに、『大田田根子命を、大物主神を祀る祭主とし、また市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、必ず天下は平らぐだろう』といわれました」という。天皇は夢の言葉を得て、ますます心に歓ばれた。あまねく天下に告げて大田田根子を求められた。茅渟県の陶邑に、大田田根子が見つかりおつれした。天皇は自ら神浅茅原におでましになり、多くの王卿や各種の伴の首長を召集めて、大田田根子に尋ねていわれるのに、「お前は一体誰の子か」と。答えて「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます。陶津耳の女です」と。−−また別に「奇日方天日方武茅渟祇の女」ともいわれている。天皇は「ああ、私はきっと栄えるだろう」といわれた。そこで物部連の先祖の伊香色雄を、神班物者としようと占うと吉と出て、またついでに他神を祭ろうと占うと吉からずと出た。
十一月十三日、伊香色雄に命じて、沢山の平瓮を祭神の供物とさせた。大田田根子を、大物主大神を祀る祭主とした。また長尾市を倭の大国魂神を祀る祭主とした。それから他神を祀ろうと占うと吉と出た。そこで別に八十万の群神を祀った。よって天社・国つ社・神地・神戸をきめた。ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく稔って百姓は賑わった。


西暦245年=正始6年=崇神8年

【魏志倭人伝】
正始六年、詔して倭の難升米に黄幡を賜い、郡に付して仮りに授けた。

【日本書紀】
八年夏四月十六日、高橋邑の活日を、大物主神にたてまつる酒を掌る人とした。 冬十二月二十日、天皇は大田田根子に大物主神を祀らせた。この日、活日は御酒を天皇にたてまつり、歌を詠んでいうのに、
 コノミキハ、ワガミキナラズ、ヤマトナス、オホモノヌシノ、カミシミキ、イクヒサ、イクヒサ。
 この神酒は私の造った神酒ではありません。倭の国をお造りになった大物主神が醸成された神酒です。幾世までも久しく栄えよ、栄えよ。
このように歌って神の宮で宴を催された。宴が終り諸大夫が歌った。
 ウマザケ、ミワノトノノ、アサトニモ、イデテユカナ、ミワノトノドヲ。
 一晩中酒宴をして、三輪の社殿の朝開く戸ロを通って帰って行こう。
天皇も歌っていわれた。
 ウマザケ、ミワノトノノ、アサトニモ、オシヒラカネ、ミワノトノドヲ。
 一晩中酒宴をして、三輪の社殿の朝の戸をおし開こう。三輪の戸を。
そして神の宮の戸を開いてお出ましになった。この大田田根子は今の三輪君らの先祖である。


西暦246年=正始7年=崇神9年
【ホツマ伝】
ホ33133 コホヤヨヒ モチのヨユメに 九年三月 十五日の夜夢に
ホ33134 カミのツゲ カシキホコタテ 神の告げ 赤白黄黒矛楯
ホ33135 カミまつれ ウダスミサカも 神祭れ 宇陀墨坂神も
ホ33136 ヲヲサカも カワセサカミヲ 大阪神も 河瀬神・坂之御尾神
ホ33137 のこりなく これツミヒトの 残りなく これ罪人の
ホ33138 シイとゝむ ヱヤミなすゆえ 魄止む 疫病なす故
ホ33139 ウスエフカ オトミカシマと 四月二十二日 大臣大暁島命と
ホ33140 タタネコと タマカエシノリ 大直根子命と 魂返法
ホ33141 まつらしむ かれにあかるき 祭らしむ 故に明るき
【日本書紀】
九年春三月十五日、天皇の夢の中に、神人があらわれて教えていわれた。「赤の楯を八枚、赤の矛を八本で、墨坂の神を祀りなさい。また黒の楯を八枚、黒の矛を八本で、大坂の神を祀りなさい」と。
四月十六日、夢の教えのままに、墨坂神・大坂神をお祀りになった。


西暦247年=正始8年=崇神10年

【魏志倭人伝】
正始八年、太守王[斤頁]が官にやってきた。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と素から不和である。倭載斯烏越らを遣わして郡にゆき、たがいに攻撃する状況を説明した。塞曹掾史張政らを遣わして、詔書・黄幡をもたらし、難升米に仮りに授けて、檄をつくってこれを告喩した。

【日本書紀】
十年秋七月二十四日、多くの卿に詔りして、「民を導く根本は教化にある。今、神々をお祀りして、災害はすベてなくなった。けれども遠国の人々は、まだ王化に預かっていない。そこで卿等を四方に遣わして、わが教化をひろめたい」といわれた。
四道将軍
九月九日、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。詔りして「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」といわれた。それぞれ印絞を授かって将軍となった。 二十七日、大彦命は和珥の坂についた。ときに少女がいて歌っていた。
 ミマキイリビコハヤ、オノガヲヲ、シセムト、ヌスマクシラニ、ヒメナソビスモ。
 御間城入彦よ。あなたの命を殺そうと、時をうかがっていることを知らないで、若い娘と遊んでいるよ。
そこで大彦命は怪しんで少女に尋ねた。「お前が言っていることは何のことか」と。答えて「言っているのではなく、ただ歌っているのです」と。重ねて先の歌を歌って急に姿が見えなくなった。大彦は引返して、仔細に有様を報告した。
天皇の姑、倭迹迹日百襲姫命は聡明で、よく物事を予知された。その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇にいわれるのに、「これは武埴安彦が謀反を企てているしるしであろう。聞くところによると、武埴安彦の妻吾田媛がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾(女性が襟から肩にかけたきれ)のはしに包んで呪言をして、『これは倭の国のかわりの土』といって帰ったという。これでことが分った。速やかに備えなくてはきっと遅れをとるだろう」と。そこで諸将を集めて議せられた。幾時もせぬ中に、武埴安彦と妻の吾田媛が、軍を率いてやってきた。それぞれ道を分けて、夫は山背より、妻は大坂からともに京を襲おうとした。そのとき天皇は五十狭芹彦命を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。大坂で迎えて大いに破った。吾田媛を殺してその軍卒をことごとく斬った。また大彦と和珥氏の先祖、彦国葺を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。その時忌瓮を和珥の武スキ坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。そのとき官軍が多数集まって草木を踏みならした。それでその山を名づけて奈良山とよんだ。また奈良山を去って輪韓河に至り、埴安彦と河をはさんで陣取りいどみ合った。それでときの人は改めて、その河を挑河とよんだ。今、泉河というのはなまったものである。埴安彦は彦国葺に尋ねて、「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」と。答えて「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから義兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命令だ」と。そこでそれぞれ先に射ることを争った。武埴安彦がまず彦国葺を射たが当らなかった。ついで彦国葺が埴安彦を射た。胸に当って殺された。その部下たちはおびえて逃げた。それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。屍が溢れた。そこを名づけて羽振苑(今の祝園)という。またその兵たちが恐れ逃げるとき、屎が褌より漏れた。それで甲をぬぎ捨てて逃げた。のがれられないことを知って、地に頭をつけて「我君」(わが君お許し下さい)といった。ときの人はその甲を脱いだところを伽和羅という。褌から屎が落ちたところを屎褌という。今、樟棄というのはなまったものである。また地に頭をつけて「我君」といったところを「我君」(和伎の地)という。
冬十月一日、群臣に詔して「今は、反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐに出発せよ」と。ニ十ニ日、将軍たちは共に出発した。


西暦247年=正始8年=崇神10年

【魏志倭人伝】
卑弥呼が死んだ。大きな塚をつくった。直径百余歩、殉死する者は奴婢百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。おたがいに誅殺しあい、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女台与という年十三のものを立てて王とすると、国中がついに平定した。政らは檄をもって台与を告喩した。台与は倭の大夫率善中郎将掖邪狗らニ十人を遣わし、政らの還るのを送らせた。よって台にゆき、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦ニ十匹を貢した。

【北史】
正始中、卑弥呼死す。
(正始は魏の斉王芳の年号240〜248)

【日本書紀】
この後、倭迹迹日百襲姫命は、大物主神の妻となった。けれどもその神は昼は来ないで、夜だけやってきた。倭迹迹日姫命は夫にいった。「あなたはいつも昼はおいでにならぬので、そのお顔を見ることができません。どうかもうしばらく留って下さい。朝になったらうるわしいお姿を見られるでしようから」と。大神は答えて「もっともなことである。あしたの朝あなたの櫛函に入っていよう。どうか私の形に驚かないように」と。倭迹迹日姫命は変に思った。明けるのを待って櫛函を見ると、まことにうるわしい小蛇がはいっていた。その長さ太さは衣紐ほどであった。驚いて叫んだ。すると大神は恥じて、たちまち人の形となった。そして「お前はがまんできなくて、私に恥をかかせた。今度は私がお前にはずかしいめをさせよう」といい、大空を踏んで御諸山(三輪山)に登られた。倭迹迹日姫命は仰ぎみて悔い、どすんと坐りこんだ。そのとき箸で陰部を撞いて死んでしまわれた。それで大市に葬った。ときの人はその墓を名づけて箸墓という。その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。ときの人は歌っていった。
 オホサカニ、ツギノボレル、イシムラヲ、タゴシニコサバ、コシガテムカモ。
 大坂山に人々が並んで登って、沢山の石を手渡しして、渡して行けば渡せるだろうかなあ。


西暦248年=正始9年=崇神11年

【日本書紀】
十一年夏四月二十八日、四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。この年異俗の人達が多勢やってきて、国内は安らかとなった。


西暦249年=嘉平元年=崇神12年

【古語拾遺】
始めて男の弭の調・女の手末の調を貢らしむ。今神祇の祭に、熊の皮・鹿の皮・角・布等を用ゐる、此の縁なり。

【日本書紀】
御肇国天皇の称号
十ニ年春三月十一日、詔して「私は、初めて天位をついで、宗廟を保つことはできたが、光りも届かぬところがある。徳も及ばぬところがある。このため陰陽が狂って、寒さ暑さが乱れている。疫病が起こり、百姓は災いをこうむっている。それをいま罪を祓い、過ちを改めて敦く神祇を敬い、また教えを垂れて荒ぶる人どもを和らげ、兵を挙げて服しない者を討った。だから官に廃れた事なく、下に隠遁者もない。教化は行き渡って、庶民は生活をたのしんでいる。異俗の人々もやってきて、周囲の人までも帰化している。このときに当って戸口のことを調ベ、長幼の序、課役の先後のことを知らせるベきである」と。
秋九月十六日、始めて人民の戸口を調ベ、課役を仰せつけられた。これが男の弭調・女の手末調である。これによって天神地祇ともに和やかに、風雨も時を得て百穀もよく実り、家々には人や物が充足され、天下は平穏になった。そこで天皇を誉めたたえて「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」という。


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