2000.8.6版

ホツマ伝(ホツマツタヱ)真書の証明−−−中国古文献と符合

 さんざん嘘をついてもたった1つの証拠によって真犯人だった、というのはTVのドラマ等でよくある筋書です。

 古代の天皇の年齢をさんざん引き延ばして実年代を偽ったがたった1つの歴史上の記録によってホツマ伝は真書だった、というのが上と似た証明方法です。以下の説明で用いるホツマ伝は吾郷清彦訳解『全訳秀真伝(新国民社)』を参考にします。

【1】 古代の天皇の年齢をさんざん引き延ばして実年代を偽った。

 古代の天皇(神)の在位年数は、天照大御神(約24万年)、天忍穂耳尊(約37万年)、仁々気根尊(約28万年)、火々出見尊(約41万年)、鵜葺草葺不合尊(約49万年)であり、在位期間の五朝合計は約179万年です。

 後続する神武以下10代の在位年数は、神武(76年)、綏靖(36年)、安寧(38年)、懿徳(34年)、孝昭(83年)、孝安(102年)、孝霊(76年)、孝元(57年)、開化(60年)、崇神(68年)となり、在位期間の10代合計は630年です。

 古代の天皇(神)の在位年数は大幅誇張であり、西暦300年頃からさか上って実年代を求めることは不可能です。

【2】 たった1つの証拠となる歴史上の記録とは。

1.ホツマ伝の記録:

 西王母(ウケステメ、ニシノハハカミ)が来て、菊桐姫(天照大御神の父イザナギ尊の姉か妹、又はイザナギ尊の親の世代のもよう)と会って「神仙の秘法」を授けたら喜んで帰った。また西王母は少なくとももう1回来て、仁々気根尊に山巡りでも斜めにならない輿を奉ったので、お返しに三千実(ミチミ)の桃を賜ったら国苞(クニツト、みやげ)にして持ち帰った。

2.驚嘆!中国の古文献と符合。

 中国の古文献の幾つか(補足2参照)には、西王母が前漢の武帝(在位BC140-BC87)にたいして三千年にいちど実が成る桃をあげたとあります。西王母は一般には支那伝説中の仮想的人物とされていますが、1.ホツマ伝の記録とは対応しています。

【3】 ホツマ伝は真書だった。

 私は天照大御神の実年代をBC90-AD10年頃ではないかと考えています。これは現代の考古学の成果を基にしてホツマ伝(または記紀)記載の年を修正して得たものです。またホツマ伝の該当個所に「シナ(支那)」の語が見えるので秦の時代以降です。そのほかの主な年代のポイントは崇神天皇(在世220-260)、孝元天皇(在世170-210、纒向石塚古墳)、神武紀元(AD57後漢朝見後の辛酉の年AD61)などです。

 ホツマ伝の記載内容からは、天照大御神の実年代が前漢武帝の頃と対応していると考えられます。日中両国の今までは分からなかった驚くべき古記録の符合です。

 このようなホツマ記載内容は後世の偽作としたならば【1】のとおり年代が自己矛盾しあり得ないことです。また偽作者が上記した中国古文献を知りえたか、知ったとしてなぜ正しい年代(現代の考古学によらなければ把握不可能)の天照大御神の頃にしたか、話の内容が不自然でないのはなぜか、後世の偽作とするならば疑問点はいくらでも出てきます。むしろ、ホツマ伝は真書であり本物の記録ということになるでしょう。

 ただし日中間の対応関係の細部(天照大御神ころの誰がいつ中国側とどのように対応しているのか)は読み切れておらず今後の課題とします。もし上記【2】−1において、西王母が最初の来日時に三千実の桃を持ち帰り武帝にあげたとしたら私の年代観でよいと思います。しかし三千実の桃は仁々気根尊に初めてもらったとなると、私の年代観をもっと古い方に数十年はずらす必要がありそうです。

【4】 影響

 ホツマ伝が真書の影響は測り知れず。

 卑近な所では、私の年代観で合っており、邪馬台国=大和朝廷そのもの説が正しいと考えられます。また考古学の編年全般について、現状よりも古い方へのシフトが正しいと考えられます。

【5】 ホツマ伝の研究が広がることを願望します。




補足1:

第15章(ミケヨロツナリソメノアヤ、御饌萬成初章)
−−−
ホ15164        クスヒよくきけ         楠日尊良く聞け
ホ15165  ココリヒメ かたれるコトは  菊理姫    語れる事は
ホ15166  トコタチの ヤモをめくりて  国常立尊の  八方を巡りて
ホ15167  ニシのクニ クロソノツミテ  西の国    玄圃積国
ホ15168  カにあたる ナもアカカタの  カ国に当る  名も赤県州の
ホ15169  トヨクンヌ ヨヨおさむれと  豊斟停尊   世々治むれど
ホ15170  トシをへて ミチつきぬるを  年を経て   道尽きぬるを
ホ15171  ウケステメ ネのクニにきて  善知承渕台女 根の国に来て
ホ15172  タマキネに よくつかふれば  玉気根尊に  良く仕ふれば
ホ15173  ミにこたえ ココリのイモと  身に応え   菊桐姫の妹と
ホ15174  むすばせて ヤマのミチノク  結ばせて   山の道奥
ホ15175  さづけます よろこびかえる  授けます   喜び帰る
ホ15176  ウケステメ コロヒンキミと  善知承渕台女 崑崙王と
ホ15177  ちなみあひ クロソノツモル  契みあひ   玄圃積
ホ15178  ミコうみて ニシノハハカミ  王子生みて  西王母
ホ15179  またきたり コロヤマモトは  また来たり  崑崙山人は
ホ15180  をろかにて シシアヂたしみ  愚味にて   肉味嗜み
ホ15181  はやかれし モモやフモモぞ  早枯死し   百歳や二百歳ぞ
ホ15182  たまゆらに チヨロあれとも  稀に     千万歳あれども
ホ15183  ヒヒのシシ シナキミいでて  日々の肉食  支那王出でて
ホ15184  チヨミグサ たつぬとなげく  千代見草   探ぬと嘆く
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 「ホ15183 シナキミ(支那王)いでて」に着目!!
 ここはアマテル神の発言内容であって、「シナ(支那)」の用語が見えますの
で、時代は秦の国(BC246−BC206)よりも新しいことが明らかです。


第24章(コヱクニハラミヤマノアヤ、扶桑国蓬莱山章)
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ホ24083        コヱのネノクニ         扶桑の根の国
ホ24084  アチハセが ミネコシさゝぐ  天智駛が   峰輿捧ぐ
ホ24085  これにめし シラヤマミネを  これに召し  白山峰を
ホ24086  みめくるに なゝめにならす  御巡るに   斜めにならず
ホ24087  このコシは タがつくれると  この輿は   誰が作れると
ホ24088  のたまえは ココリメいわく  宣まえば   菊理姫曰く
ホ24089  マコがなす イトウケステメ  真子が作す  善知承渕台女
ホ24090  アカガクニ クロソノツミと  赤県州    玄圃積王と
ホ24091  うむミコを コロビツクニの  生む御子を  崑崙国の
ホ24092  キミとなす クロソノむめる  君となす   玄圃積王子生める
ホ24093  キミのハハ けわしきミネを  君の母    険しき峰を
ホ24094  こすときに ミネコシつくり  越す時に   峰輿作り
ホ24095  コをそたつ いまココにきて  子を育つ   今此処に来て
ホ24096  まみゑなす ミマコよろこび  真見得なす  皇孫喜び
ホ24097  クニはコシ ヤマはミネコシ  国は輿    山は峰輿
ホ24098  そのカエに ミチミのモモを  その代替に  三千実の桃を
ホ24099  たまわれば ハナミのモモは  賜われば   花実の桃は
ホ24100  まれなりと クニツトになす  稀なりと   国苞になす
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花実の桃の木
第2章(アメナナヨトコミキノアヤ、天七代床酒章)
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ホ02028        そのモトヲリは         その本縁りは
ホ02029  コシクニの ヒナルノダケの  越国の    日成るの岳の
ホ02030  カンミヤに キのミをもちて  神宮に    木の実を持ちて
ホ02031  あれませは ニワにうゑをく  生れませば  庭に植ゑをく
ホ02032  ミトセのち ヤヨヰのミカに  三年のち   弥生の三日に
ホ02033  ハナもミも モモなるゆえに  花も実も   百なる故に
ホ02034  モモのハナ フタカミのナも  桃の花    二神の名も
ホ02035  モモヒナギ モモヒナミなり  桃雛木    桃雛実なり
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補足2(1999年10月追加):

中国の古文献の該当個所

 ホツマ伝には、アマテル神の頃の時代に西王母が来て、三千実の桃をみやげとして持帰ったとあります。一方、中国の幾つかの古文献には、前漢の武帝(BC156-87)が西王母から三千年に一度実が成る桃を貰ったとあります。わたしは以上2つの記事が対応しているものと考えております。そして、(1)ホツマ伝真書の証明、(2)実年代の基準、を得ることが出来ると考えております。袁珂(著)鈴木博(訳)『中国神話伝説大辞典』大修館書店(1999.4.1発行)の中に興味深い個所が幾つもあります。

【漢武故事(かんぶこじ)】

 後漢代の班固(はんこ、32-92)の著と伝えるが、南北朝時代の人の偽作か。

 西王母の地上への降臨に関する記事がある。

【漢武帝内伝(かんぶていないでん)】

 同じく班固の著と伝えるが、南北朝時代の人の偽作か。

 武帝が西王母に会ったことを記す。西王母が七月七日に下界に降って、武帝に仙桃を四個与えた。武帝はそれを食べ、種を採って植えようと思ったが、西王母に「この桃は三千年に一回しか実がなりません。中国は地力がないので、種を植えても成長しません」と言われたので、植えるのをやめた。

【神異経(しんいきょう)】

 前漢代の東方朔(とうぼうさく、BC154-92)の著。しかし南北朝時代の著作か。

 崑崙の山に希有(けう)という大きな鳥がいて、西王母は1年に1回これに乗って東王公と会う。

 東王父と西王母が会った話は、漢代の石刻画像にも描かれており、拠りどころがあったことが分かる。

【蟠桃(はんとう)】

 仙桃。

 西王母は黄中季が蟠桃よりもすぐれていることを残念がっている。「蟠桃」という言葉はかなり早くから記録されていた。

【古小説鉤沈(こしょうせつこうちん)】

 魯迅(1881-1936)の編。古小説の逸文を集めた書籍。すでに散逸している秦代以前から隋代までの小説を36篇収録し校訂を施す。神話伝説の重要な研究資料。

 古小説鉤沈に所収の漢武故事では、前漢武帝の前で短人が東方朔(とうぼうさく)を指さして「西王母が植えた桃は3千年に1回しか実がなりません。この人は悪人で3回も実を盗んで王母の怒りにふれました〜」と言った、このようにあります。

【列仙伝(れっせんでん)】

 古代の神仙の伝記集。前漢代の劉向(りゅうきょう、BC77?-BC6)の著と伝える。71人の仙人について記す。後漢代初期の応劭(おうしょう)の『漢書音義』にすでに引用されていて、著者が誰であるにせよそのころに著わされたものである。

 前漢武帝に仕えた東方朔(とうぼうさく、BC154-93)についての記載がある。

【書名不詳(列仙全伝−西王母?)】

 漢元封元年降武帝、進蟠桃七枚於帝、自食其二、帝欲留核、母曰比桃非世間所有、三千年一実耳云々。



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