自己紹介記事 その1

この文章は作者が勤務していた財団法人 工業所有権協力センターの所内誌に2001年に掲載したものです

私と技術開発
自動変速機の設計ひとすじ
                      
機械B部門 一般機械  山田洋二

    1. はじめに
 「エンジニアリングの目的は人々の生活をカンファタブルcomfortableにすることである。」
この言葉は母校の機械工学科熱力学講座の森康夫先生が授業の合間に語られたものである。卒業後本田技研に入社し30年近く設計技術者として研究開発に携わってきた中で、常に自分の判断基準になってきたように思う。振り返ってみても、一つの言葉にこれほど影響されたものは他にない。
研究所の設計課に配属されて最初に入ったのが自動変速機(以下AT)のグループであり、そこはイージードライブ、すなわちカンファタブルな運転をめざすトランスミッションを設計するところであり、大変幸運であったと言ってよい。

2. AT開発の黎明期
昭和40年代の初め軽乗用車N360を開発した際に、将来の日本のカーライフにATは欠かせないとの判断から搭載を検討した。当初は技術開発能力から自前開発ではなくボルグワーナーなどに依頼しようとしたが、米車に比べあまりにも小さい排気量の軽自動車用は技術的に無理と判明した。仕方なく自前開発の方針をとり、二輪車用変速機の軸配置に類似した平行2軸式3ATが開発された。私が入社したのはちょうどこのATの生産を開始した昭和43年春であった。
しかし当時のATの比率はわずかで、マニュアル車1日1000台に対して、20台ほどの生産台数であった。

3. 特許とのかかわり
ATの自前開発を実現したとはいえ、関連する特許をクリアするにはかなりの時間を要した。主要な関連特許の多くはGM、フォード、クライスラー、ベンツなどが所有しており、特許特有の表現と見慣れぬ技術用語の文献には、研究社のNEW ENGLISH-JAPANESE DICTIONARYが必携であった。生産開始後にも抵触の可能性が判明した項目については、その都度設計変更するために代替技術の開発を急いだ。特にN600は米国輸出を予定していたので、2年間ほどはその対応が私の仕事の主要な部分をしめた。
この間に取り組んだ新技術の開発は後年のATの発展を支える基礎技術の習得と、独自技術開発を重視する理念の形成に役立った。対応技術の一例として、シフトバルブにライン圧を作用させて変速特性のヒステリシスを作り出すフォードの特許を回避するために考え出した鋼球とバネによるメカニカル式は、今でも油圧制御ATで採用しており、今思えば出願しておけばよかった。
前述の平行軸式ATは現在、日米で年間180万台ほど生産しているが、そこに使われているメカニズムの基本技術の多くは1980年代の初期に確立された。それらの中で技術的にもっとも価値の高いのが、フィードパイプ方式クラッチ圧供給装置(特開昭54-103958,55-51160)および遠心ウェイト付きクラッチチェックバルブ(特開昭54-103940)で、伝達効率と耐久性の向上、特にFF車に必須の全長短縮、高回転化などに役立った。
フィードパイプ方式については、GMサターンが86モデルアコード4ATに倣った平行軸ATに採用し特許係争になった。私がここIPCC(工業所有権協力センター:特許審査のための先行技術調査が主業務)へ来る前の最後の海外出張はデトロイトのGM本社での訴訟交渉で、発明者および基本設計担当者として、当案件(USP 42520311)以外にも基本構造、寸法(軸間距離、クラッチ径まで)、25項目にも上る個別技術などにコピー箇所が多々あることを説明するためで、結果的に当方の主張が認められた。今から4年前のことである。

4.ATの発展・拡大からCVTへ
80年代に入り、より一層の動力性能、静粛性、燃費の向上をめざして自動変速機も多段化の方向へ研究が進み、83年アコードから4ATの採用を始めた。その効能が明らかになるといろいろな車種から適用が要望された。
 開発のやり方が他社と異なり、車種ごとのプロジェクト制のため、毎年のように新しいATが必要になり、基本設計の専任担当であった私にとっては最も商売繁盛の時代であった。中期以降はATに電子制御の導入が始まり、変速特性、変速ショック低減、トルコンのロックアップ制御など広範囲に適用されるようになった。しかしこの頃から機械屋の私の出番は次第に少なくなり、私の手書きの基本設計図は91モデルのレジェンド4ATが最後になった。
90年頃より無段式変速機(CVT)に興味を持つようになった。なにせATの開発は、経験された方はよくご存知のとおり、いつも変速ショックとギヤノイズとの闘いであったので、この二つの課題のない変速機を作ってみたかった。
しかし自ら設計することはなく、私なりのやり方、パートタイム4駆方式でバックアップすることにした。それは開発がスムーズに進んでいるときは開発責任者が前輪駆動車のエンジンとしてチームを牽引しているので2輪駆動の状態で、プロジェクトが困難に遭遇した時や、開発の直進性が怪しくなった時には後輪も駆動して4輪駆動にしてやるわけで、私はその後輪の駆動源となった。
フルタイム4輪駆動がいつもよいとは思っていなかったので。

5. 設計技術者の知恵
私が長い間の研究開発の経験から得たリスク回避の方法の中に「変更は30%以内に」がある。
ATの機構の中にはさまざまな機械要素が含まれており、進歩と改良のために研究開発を行うのではあるが、技術内容のすべてを解って設計しているわけではない。予想外のファクターで好ましくない結果がでることもある。
変更を30%以内にしておけばその影響度も事後処理可能な範疇に留められるということだ。変速機の機構の作動原理の多くは一次関数または二次関数で表されるので、変数の変化量に対する関数の変化を予測することはさほどむずかしくはないと思う。一度の開発で30%の改善しか得られなくとも、n回では(1+0.3)n乗の複利計算が期待できるわけだから、なにも欲張って危険を冒すことはない。
一見消極的に見える発想だが、自動車の変速機という重要保安部品の設計および品質保証を担う者が身につけた知恵の一つである。
勤続20年ほどたった40代半ば、栃木研究所勤務のために宇都宮郊外に単身赴任したが、週末は所沢の自宅に帰っていたので毎週4泊5日の出張のようなものだった。食事や健康には十分気を遣っていたつもりだが、5年目に病気で3ヶ月休むことになってしまった。
その前から少しずつ手がけていたAT設計の教科書を復帰後最優先で書き上げ「オートマチックトランスミッション設計手順書」として社内出版してもらい、後日アメリカにある研究所の現地人技術者用に英訳された。余談ながら、前述の出張の際に受け取ったA4サイズ200頁を越える英訳版が、図表も含めてデータ圧縮することでたった5枚のフロッピーディスクに収まっていたのには感心した。
私の設計技術者としての仕事は、基本設計、すなわちレイアウト図を画くことが主体であったので、道具は0.5ミリHBのシャープペンシルと1m100円程度のセクションペーパー(ハーキュレン樹脂フィルム)、それにドラフター(定規付き製図板)があればよく、きわめて少ない設備投資ですんだ。新機種の設計を始めるときは、数千円の用紙を数十~数百億円の売り上げにつなげる錬金術師みたいなことをやっているという意識でドラフターに向かっていた。

6. 海外とのお付き合い
時代は前後するが、80年代の初めごろから、企業の海外展開と国際協調の推進に呼応して、研究開発部門もいろいろな面で国内外の事業所、海外を含めた多くのメーカーや研究機関とのつながりを持つようになった。
それらの中で私が最も長い期間お付き合いしたのがイギリスのローバー(Austin Rover Group)で、10年以上にわたった。こちらが変速機の供給元(supplyer)の立場で、先方の厳しいテスト要件をクリアするのに大変苦労した。その中にはロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)のパトカー要件である、高速旋回連続走行(デファレンシャルギヤに厳しい)や、後進1マイル連続走行なども含まれていた。
次々に発生する問題を解決するまでは頻繁な情報交換が続き、おかげで技術者同士の直接交流が重なり、生きた英語を学ぶことができた。もっとも、10年もたつと大分忘れてしまったが。
また、問題の解析と対策など1日の仕事の結果をまとめて、夜10時ごろ帰りがけにファックスを送信しておくと、翌朝には返事が届いているという、まさに時差を有効に使った24時間操業であった。 このようにいくつもの課題、難問にぶつかったが、結果的には多くのものを得ることができた。その中で、技術者はモノの本質を重んじ、自分の考えをしっかり持って、いつも本音で話し合うことの大切さを学んだ。
自動車メーカーの中では、貿易摩擦の問題発生の前から現地化方針に沿って海外進出し、国際化が最も進んでいるという見方をされた企業にいたが、企業レベルではなく個人レベルで国際化を考えてみると、「国際化とは多様な価値観を備え、自ら考え行動できる能力を身につけることである。」と思う。しかし企業人という背景なしにこの能力を身につけるのはなかなか難しい。
海外勤務の経験や語学力はそれに役には立つが求める本質ではなく、交流する相手の国、人、文化などできるだけ多くのものを理解する努力と、その機会を作ることが効果的だと思う。ビジネスのみでとんぼ返りの海外出張ほど勿体無いものはないので、人に勧めないようにしてきた。
 出張での体験をいくつか。
 ニューヨーク州中央部のイサカ市(コーネル大大学都市)のボーグワーナー社を訪れた際、送り迎えをしてくれた社用機の、元ベトナム戦争で活躍したパイロットは、安定飛行に入ると宙返りをやってみようかと言ってくれたが、心臓への負担が大きそうだからと断った。JFケネディ空港へ近づくと、一足先に着陸態勢に入った真っ白く優美な姿のコンコルドをはるか下方に見つけ教えてくれた。
着陸後は社用機の駐機場からはかなり離れたサテライトに着いたばかりのコンコルドのそばまで見に連れて行ってくれた。そのとき、飛行中は空気との摩擦熱で機体が1フィートも伸びるのだと説明してくれ、まだ熱そうなコンコルドの写真を撮るのを待っていてくれた。アメリカ人の親切さをあらためて深く感じる思いだった。コンコルドについては非常に細い胴体が印象的だった。
 夏至の直後にオランダへの出張の際スウェーデンのボルボへ寄り道した時のこと、スウェーデンでは予想外に英語が通じるので(イタリアではトリノ市内で道に迷い往生したのに比べ)、理由を尋ねると、こういう返事だった。
「スウェーデンの人々が日常触れる文化・娯楽はテレビにしろ、映画、出版物にしろ、その80%ぐらいはイギリスやアメリカなど英語圏からのものである。
それを翻訳なしで楽しむには小さいときから英語を身につけることが不可欠なので、自然に身についてしまうのだ。」
ボルボ社のあるイェーテボリ(Göteborg)市内の運河から港を巡る遊覧ボートのガイドは、マイク片手に3ヶ国語で案内をくり返す、まだあどけなさの残る少年だった。
私は風景写真を趣味としているが、出張先でも仕事の合間に撮影する機会はある程度はあった。日中の仕事時間中よりも朝夕の光をうまく捉えて写したものの中に、気に入ったのが多く、後日の楽しみとしている。

7.おわりに
97年2月末、長年勤務した研究所を離れ有給休暇を取ってから新たな職場でスタートしようと思ったら、3月初めからの任用研修が必須と言われ、関連企業などへの挨拶回りなどで、結局休暇を一日も取らずにIPCC(工業所有権協力センター:特許審査のための先行技術調査が主業務)へ来てしまった。
 それまでの研究開発を担当するエンジニアの役割とは大きく異なり、特許に関するサービスエンジニアが自分の役目とこころえ、また一方では検索レポート(調査報告書)を大切な商品と思って付加価値を高めるように心掛けてきた。
 しかし冒頭に紹介した言葉の精神は決して忘れることはなく、良好な職場環境の確保のため、身の回りからの音など、エミッション(放射・放出)の少ない人間であるよう心している。

職場のある虎ノ門三井ビル近くの特許庁前にて2007.3