山登りらしいことは、子供のころは学校の遠足で低山に登る程度だったが楽しい行事だった。町内の子供会で名峰:英彦山に登ったことも思い出す。自分で計画して初めて登った山は、鹿児島の大学在学中、下宿先の親友と登った屋久島宮之浦岳だった。今はないトロッコに乗ったことや山小屋で夜、主人の話があったこと、登頂時甘い物がひどく欲しくなり、居合わせた登山者に飴をねだったこと、山旅疲れで帰途は親友と口をきかなかったことなど思い出す。その後も職場の人達との山行などその時々に出合った人と単発的に幾つかの山行があったが、今に至る単独山行を始めたのは24歳ころ。初めての就労先が東京で、馴れない大都会での単身生活。休日は都心まで出て映画を見たり書店に寄ったりしていたが、何か満たされないものを感じていた。数か月過ぎたころ、だれかに誘われた訳でもなく、登山の入門書を読み、登山靴やウエア、ガイドブックを買いそろえ、日帰り山行に出掛けるようになった。都心から放射線状に私鉄電車が山間部まで伸びており、容易に日帰山行ができ、奥武蔵や秩父の山々に登るようになった。そんな山行を始めた25歳の誕生日、イベントとして名峰雲取山へ山小屋泊で出掛けた。11月下旬の凍てつく中、山小屋に着き、入浴時間を尋ねてあきれられた。宿泊者は少なく、コタツを囲んで寝、翌朝遅くに起きると、皆既に出発した後。外に出ると、雲一つない快晴下、はるか遠くまで続く山並みに強い感銘を受け、こんな素晴らしい景色に出遭える山行に一層惹かれるようになった。25歳時、大阪へ転勤、関西の山々に馴染んだ。翌年、神戸へ転勤となり、今は高速利用で無理なく日帰りが可能となった兵庫県最高峰氷ノ山を目指し、電車・バスを乗り継ぎ山麓の民宿泊で登ったことが思い出される。もっぱら日帰りでの低山山行が主の自分にとって、日本アルプスはハードルが高かったが意を決して向かうことに。準備の鍛錬に励み、雨天でも山行したり毎早朝出勤前に近くの六甲山に登ったりした。27歳時、夏山シーズンのピークに緊張の面持ちで上高地バスターミナルに降り立つと、大勢の人ごみ。パニックになり、どちらへ行けばよいのか混乱したが何とか無事槍ヶ岳下の大山荘に到着。すし詰めの寝床ですぐ横の若者と小声でおしゃべりするなど落ち着きを取り戻していた。翌日、日の出前に槍ヶ岳登頂。朝日に輝く穂高連峰を望み、いつか歩んでみたいと願ったことが61歳時に実現した。普段の日帰り山行では体験できない大スケールの展望にインパクトを受け、これを皮切りに夏のアルプス山行が毎年の最大のイベントとなり、剱岳、白馬岳と名峰から順に登って行った。その後、30歳で結婚し家族ができたことや、カメラ、ジョギング、サイクリングなど他の趣味に熱中したしたことで山行熱が冷め、山行回数が減っていた。山行熱が再燃したのは48歳ころ日本300名山登頂を目指す職場OBのN氏に刺激されたことが大きい。車を持たないN氏に頼まれ何度か300名山行に同行しているうち、自分も300名山登頂を目指すようになった。N氏は65歳までに全登頂を目指し実現されたが、自分は75歳位までとのんびり構えていたところ心身の衰えが予想以上で考えが甘かった。仕事柄、転勤が多く、北は札幌から南は大分まで10か所位の土地で生活。平均2年間位の滞在だったが行く先々の住居を起点に山行できたことは幸せだった。60歳で定年退職後は神戸を起点に毎週末天気が良ければ日帰り山行に励み、時々車中泊で遠出したり、年2回ほど3泊程度で300名山行に出掛けている。体力気力の衰えが楽観していた以上に早く、長時間歩くと足がだるくなったり歩く早さも遅くなったりしているが、健康維持に努めできるだけ長く山行を続けたいと思う。⇒トップページへ |