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2001年4月から酒田市民になりました。それまでは京都市民でした。その前は名古屋市民でした。2009年2月22日(日本時間23日)第81回アカデミー賞外国語映画賞を「おくりびと」が受賞! そこで裏話(2月25日記す)
撮影した時は正直言って、アカデミー賞なんて想像もしていませんでした。ほんの軽い気持ちでの参加でした。
控室場面のロケをしたのは2007年5月4日でした。
4月頃だったでしょうか、酒フィルに、「都合のつく人は楽器持参でエキストラに参加してください、特製Tシャツとロケ弁がもらえます」というお誘いがありました。もし撮影が長引いたら夕食のロケ弁も出ると言います。ミーハー気分で、映画作りの現場を見る良いチャンスだと思って参加しました。
チェロの奏者が郷里で納棺の仕事に就くなんていうあらすじを聞いても、なんだか訳が分からない。でもエキストラは、訳が分からなくてもよいのです。酒田市希望ホールで演奏場面(これはプロの山形交響楽団)と控室場面(こちらは酒フィル)を撮影するけれど、主人公の所属するオーケストラは東京のプロオケだという話です。つまり、私たちは(庄内なまりの仲間も多いのですが)東京のプロの演奏者たちの役なのです。
当日は希望ホール小ホール8時15分集合。男性はレンタルの衣装に着替えるけれど、女性はいつもの酒フィルスタイル、黒づくめの自前衣装です。昼過ぎで終わったので、昼飯ロケ弁とペットボトル茶(もちろん「伊右衛門」)をいただき、Tシャツをもらってお開きとなりました。
以下は、ロケ経験者による回想断片です。記憶間違いがあったら、ぜひご指摘ください。
映画撮影には本当にたくさんのスタッフと機材が必要のようです。たぶんどの映画もそうなのでしょう。完成した映画にそのかけらさえ映らないのが不思議なほどです。
監督さんはど〜んと構えて座っている。監督さんの指示をいちいち聞かずに(たぶん十分な打合せが事前になされているのでしょう)、監督の簡単な指示に従って、大勢のスタッフがクルクルと動きまわる。監督というのは凄い存在なのだと思いました。
一つの、ほんの数秒間の場面でも、撮る角度が違えば、撮影機材は撮る方向に移動しなければなりません。たぶん周到に練られた計画表に従っているのでしょう。こちらから撮ったら、カメラ台(高い位置から撮る場合もあります)を含む機材を能率良くあっちへ移動する。その間、エキストラさんの立ち位置についても指示を与える。大勢のスタッフさんが一致協力して働いている姿を知ることができました。
撮影が始まる頃、同年配のYさんと一緒に楽器を持って突っ立っていた私は、撮影スタッフの方から「そこのお嬢さん二人、こちらへ来てください」と言われました。50歳代に「お嬢さん」とはこれ如何に? 撮影専門用語なのかもしれません。「指示を出したら、ここからあの辺りまで歩いてください」、「あの人とこういう風にすれ違ってください」、「二人でお喋りしながら歩いてください」等々、ともかく言われるままに、何度も何度もいろいろなバージョンでやってみて、そしてカメラに収めました。
主人公は楽団が解散になるなんて思っていない、でも周囲の楽団員は皆それを予想している、だから石田太郎さんが「解散します」と言うと、本木さんは吃驚し、私たち(他の人たち)は「やっぱりね、そう来ると思っていたよ」と、とっとと部屋を出て行く。そんな雰囲気を出すのがエキストラの役割だったようです。ため息をついたり、楽器のケースをバタンと閉じたりするのも雰囲気づくりの一環です。音を後で入れるという段取りも意外でした。
そう言えば、石田さんの「解散します」の台詞と、それに驚く本木さんの表情、短い場面ですが、監督のOKは簡単に出ないんです。しかも、先ほど書いた通り、前から後ろからの撮影です。控室場面だけで何時間もかかりました。
酒田の人にとっては、控室場面だけでなく、ステージ場面、商店街場面、バスの場面、あちこちに知った顔がいっぱいという映画です。DVDが出たら、いちいち画面を静止してチェックしてみるのも楽しいかもしれません。
私は、たぶん一生に一度限りの出演映画を世界中で見てもらえるという幸運な人間なのでしょうね。
山形交響楽団のらびおさんのブログには、第九演奏場面に関わる裏話があります。こちらをクリック→(3月16日追加)
「おくりびとロケ地マップ」もあります。こちらをクリック→(3月16日追加)