沖縄−日本、我々の解放のために


〈目 次〉
(1)はじめに
(2)琉球処分
 1・琉球王国解体と第一次琉球処分−日本による沖縄併合
 2・米軍の占領支配と第二次琉球処分・軍政下の沖縄
 3・第三次琉球処分−日帝の再併合と日米共同軍事拠点化
 4・軍事属領・国内植民地支配
(3)若干の結論として



(1)はじめに

 沖縄問題は、当たり前のことだが日本問題である。「沖縄の問題」もやはり「日本の問題」である。一九七〇年前後、あの「復帰運動」の大昂揚期に「反復帰論」を掲げ、果敢な論戦を挑んだ川満信一は「復帰」二五年余を経て、「日本国家の特殊性・ゆがみと近代国家の限界の打開をリンクした形でしか沖縄の自立・独立論は語れないと思うのです。」と改めて述べた。
 「沖縄の幸不幸というのは沖縄の人々によってもたらされたというより、多くの場合、日本本土の政治や経済ひいては教育、文化のありようによって生じたといってよいからです。」(『沖縄 平和の礎』岩波96)という大田昌秀前沖縄県知事の言葉を待つまでもなく、一六〇九年の薩摩(島津藩)による琉球侵略から今日までの歴史を繙けば、「もし沖縄が一方の当事者であれば、もう少しやりようもありますが……」(前掲書)との述懐と併せて、日本(ヤマト)と沖縄との関係は、支配・従属・差別・抑圧の歴史として存在してきた。それゆえに、日本の国家と社会の揺らぎは確実に沖縄からの様々な呼びかけをともない、日本との一体化の「衝動」と、それに対する分離・独立の「希求」を生み出してきた。

 我々は「風をよむ」第三七号(九七年五月一五日号)で、日本の国会において九割に近い国会議員の圧倒的多数で可決された米軍用地特措法改悪を糾弾し、”七二年「返還」=第三次琉球処分から二五年をへて、繰り返された昨年四・一七日米共同宣言、八・二八代理署名訴訟最高裁判決以来の第四次琉球処分を完成するものである。”と指摘した。

 一九九八年稲嶺県政の登場と、沖縄人民の中に分断を持ち込みたかだか一千億(それも十年間の分割支払いという空手形)の補助金で普天間返還と引き替えに、新たな基地建設をごり押しする現在の日本政府と国家のやり方に至る、この間の事態をひっくるめて、我々はあえて「第四次琉球処分」と名付けたが、これに抗する沖縄人民の闘いに連帯するということは、我々自身がこの日本帝国主義を打倒し日本帝国主義国家を解体し、沖縄人民の自立を日帝国家からの分離として明確にすること、すなわち沖縄の自立解放闘争に連帯し、沖縄の自決権を断固として支持することに他ならない。これなくして沖縄人民に対する差別・抑圧と、軍事属領化・国内植民地支配の根源を断つことはできない。これが決定的な前提である。したがってたんなる左翼反対派的スタンス、反権力、反中央一般、いわんやすでに歴史的役割を終えた戦後革新の焼き直しの類いでは全く無力である。そして、この闘いは同時に東アジア・環太平洋圏における新たな人民的連帯秩序を構想するものへと前進しなければならない。

 現在沖縄では、一九九五年来の米軍基地撤去の巨大なうねりを叩きつぶすかのように、米軍基地の再編強化・恒久化が押し進められようとしている。悪辣にも日本政府は「県民による基地建設容認」という形を作り上げることに躍起となっており、稲嶺県政−岸本名護市政を使嗾し、沖縄サミット開催をテコに、沖縄の軍事属領としての政治的経済的依存構造を強め、もって差別分断支配を貫徹せんとしている。だがしかし、九六年九月八日に行われた「地位協定の見直しと基地の整理縮小を求める県民投票」において全有権者の過半数(投票者数の八九%以上)が賛成票を投じ、九七年一二月二一日「キャンプ・シュワブ沖海上基地建設」の是非を問う名護市における市民投票においても、「条件付き・四択」という姑息な修正にもかかわらず、賛成・条件付き賛成合算四五・三二%に対し、反対五二・八六%を獲得し住民の意思を鮮明に打ち出し、昨九九年末の沖縄タイムス・朝日新聞共同の「普天間基地の名護移設」問題に関する世論調査においても、「県民」全体では反対四五%、賛成三二%、名護市民に限れば反対五九%、賛成二三%という結果が明らかにされている。沖縄の反戦反基地の闘いは反戦地主を先頭とする不屈の闘いと、この間のめざましい女性たちを中心とする新たな胎動を確実に作り出した。そして一九七二年を前後する「反復帰論」から、今、公然たる「沖縄の自立・独立」の声がわき上がった。それは九七年五月一四・一五両日、延べ千人をの参加を得た「沖縄独立をめぐる激論会」の成功だけでなく、多くの反基地活動家たちが異口同音に「私は独立論者(自立派)です。」と語り始めることにも現れている。これは、沖縄の米軍基地がひとえに日本政府の政策=米帝の世界戦略に従属する日米安保体制によって打ち固められ、そのために沖縄が差し出されていることを鋭く見抜き、「安保が必要だと言うなら、何故〇・六%の沖縄に七五%もの基地が存在しているのか」という当然の批判を一度たりとも真剣に聞こうとはしなかった日本国家を、沖縄の民衆ははっきりと相対化しはじめたことでもある。

 こうした観点から、第四次琉球処分に至る日本−沖縄関係を総括しつつ、この間の沖縄をめぐる情勢の若干の整理と、自立解放へ向かう観点の提起を試みたい。(引用・参考文献を一々明記する煩雑さを避けたが、『パンフ沖縄−日本を結ぶシンポジウム』98、『沖縄を読む』情況出版99及び両書に付記された「文献案内」を参照していただきたい)


(2)琉球処分

1・琉球王国解体と第一次琉球処分−日本による沖縄併合

 一六〇九年、琉球王国は圧倒的な武力でもって薩摩(島津藩)による侵略によって、奄美諸島を島津直轄領として奪われ、沖縄、両先島(宮古、八重山)諸島は「薩摩支配下の琉球王国」として、文字通り属国化された。これは近世・幕藩体制下で中国貿易(琉球王国による明・清国への進貢貿易)の成果をも収奪するものであり、薩摩藩権力の「装飾」としての、ことさらの「異国・異民族」化でもあった。こうして、沖縄は「日本」ではない、いわば擬制の「日中両属」が強制され、二重の収奪(薩摩と琉球王府)に置かれた。

 一八六八年、明治維新による近代国民国家の道を歩き始めた日本政府は、一八七一年「台湾事件」(台湾南部に漂着した宮古島民が殺害される)を契機に、七二年「琉球藩」(琉球国王を藩主に)を設置し外務省から七四年内務省へ管轄を移管し、それと前後して台湾出兵を強行。七九年三月二七日、日本政府は内務省松田道之を処分官として、薩摩侵略と同様に武力をもって琉球藩を廃し「沖縄県」を設置する琉球処分=日本の版図への併合を断行した。しかし翌八〇年の「分島改約案」(宗主権を主張する清国に対して、日本政府の沖縄併合支配を認めさせ、あまつさえ最恵国待遇を得るために「先島=宮古・八重山諸島」を清国へ割譲せんとした)に見られるように、「沖縄県」は後発帝国主義たる日本政府の対外膨張・領土拡張による辺境支配の道具とされ、日−沖関係は近代国家形成にともなう「国民的融合」の契機を日本政府によって徹底的に破壊された。
 日本帝国主義の国内植民地としての収奪と、天皇主義による差別・同化政策は、一方における「旧慣温存」政策(かの「人頭税」が廃止されるのが一九〇二年である。)と、他方での「皇民化」政策として押し進められた。参政権の「付与」は一九一九年まで待たなければならなかったことをはじめ、法制度的に「本土並み」(国内植民地としての完成)となるにも三〇年余がかかったが、行政・警察・教育諸機関などの主要ポストから沖縄人を排除しつつ、沖縄の文化・言語・風俗・慣習に至るまでの蔑視・排斥と差別・抑圧を強めていった。その一方、例えば皇民化教育のための師範学校の設置をいち早く行い、「南進拠点」としての軍事属領化も同時に強行された。こうした沖縄に対する植民地的支配に対して、薩摩支配下の琉球王国で生まれた「日琉同祖論」が、差別支配からの脱却を目指す「沖縄学」として形を変えて登場し、「日本人化」なるものが皇民化と共に沖縄人自らの手で押し進められなければならなかったことは、戦後の米軍支配に抗する闘いの中で「本土一体化」=「祖国復帰運動」が形成されたことと併せて総括されねばならないのは言うまでもない。

 一九四五年の沖縄戦は、「国体護持」=天皇制の維持・防衛のための「捨て石」であり、四五年二月近衛文麿上奏文を退けた、ヒロヒトの有名な「もう一度戦果を挙げてから」という許し難い判断から引き起こされた広島・長崎への原爆投下と同様の悲劇以外の何ものでもなかった。非戦闘員たる住民を巻き込んだ唯一の地上戦たる沖縄戦は「鉄の暴風」「醜さの極致」と形容され、天皇制と軍国主義による皇民化教育の「成果」とも呼べる悲惨な少年少女達の戦争動員や、「友軍」=日本軍による住民虐殺と「集団自決」など、まさに琉球処分が行き着いた無惨な終着点であった。

2・米軍の占領支配と第二次琉球処分・軍政下の沖縄

 一九四五年三月二六日、慶良間上陸直後、米海軍は軍政府布告第一号(いわゆる「ニミッツ布告」)で北緯三〇度以南の占領支配を公布。占領範囲に含まれた奄美諸島は、当時も鹿児島県の行政範囲にあったが、米帝国主義は、対日研究を通してこの三〇度が日本と琉球の境界線だと考えた。それは、地質学的にも生物学的にも、また言語学的にも妥当だとの判断に裏打ちされていた。

 一九五二年四月二八日、サンフランシスコ条約が発効し米軍の占領は北緯三〇度以北では終了した。敗戦帝国主義日本は沖縄を東アジアにおける侵略反革命軍事拠点、「太平洋の要石」として米帝に差し出すことによって自らの延命を図った。従って米帝の軍事戦略がすべてに最優先し、軍政下での土地強奪、農業破壊、更には軍隊と基地の存在が引き起こす犯罪から環境破壊にいたるまでの事件・事故の多発など、沖縄戦終結後も沖縄の民衆が被らざるを得なかった災禍・辛苦とは、日本帝国主義による第二の「琉球処分」によってもたらされたものであった。のち暴露されることになるが、「極東裁判」が始まり自らが戦犯として起訴されるかも知れないと怯えていたヒロヒトは、四七年九月、マッカーサーに「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を(五〇年もしくはそれ以上の長期にわたって)継続するよう天皇が希望していると、言明した。」のだ。しかし東アジア人民にとって、日本による沖縄併合がすべての戦争の元凶と思念されており、その限りで米軍支配は「肯定」された。

 第二次琉球処分によって、沖縄は米帝による無制限の軍政=軍事統治下に置かれた。一九四九年の中国革命勝利(中華人民共和国建国)から、翌五〇年六月に勃発した朝鮮戦争によって、沖縄はその地政学的軍事的位置と役割を新しく与えられた。(五三年には米帝は軍事的価値が低いと判断した奄美諸島を「返還」。)そして五〇年前後から起こった基地建設ブームは、日本資本も加わった基地依存経済(産業構造そのものが基地に依存せざるを得ない)の原型となった。

 一九五三年四月、米帝は米軍基地建設のための土地収用令を発布。これに基づいて銃剣とブルドーザーによる土地強奪が始まった。この新規土地接収反対闘争は、五六年に出された「プライス勧告」(土地強奪を正当化した米下院調査団報告書)によってさらに拡大し、全島を揺るがす闘いへと発展し、米軍支配に対する沖縄全域での総反撃が開始された。これが「島ぐるみ闘争」である。(この渦中の五五年九月三日、六才の少女が米兵に暴行殺害され、嘉手納海岸で死体となって発見された。いわゆる「由美子ちゃん事件」である。九五年の米海兵隊員による性暴力事件の時、沖縄の多くの人々がこれを思い起こしたと言う。)

 一九五三年六月、島ぐるみ闘争の主役となった「土地連」が「軍用地主の財産権を守る」を基本目標に結成された。(その後六九年二月「社団法人沖縄県軍用地等地主会連合会」に改組。今日では基地の早期返還に反対している。)他方、広範な民衆を巻き込んだ米軍の圧政に対する抵抗は、「日本への復帰による解決」を求める声として集約され、五六年の瀬長追放劇に見られる親米派や事大主義的傾向の強い買弁勢力に抗し、六〇年四月二八日の「沖縄県祖国復帰協議会」結成へと結実した。しかし、「平和憲法」なるものは沖縄を切り捨てたところで成立したものであり、島ぐるみの闘いに立ち上がった沖縄を尻目に、「祖国」日本は「朝鮮特需」で帝国主義的復活の手がかりを掴んでいた。そもそも五二年段階の占領終了以後、日本における米軍基地は整理縮小されたが、それらの多くは「本土」から沖縄に移され、たとえば海兵隊は米軍によって強奪された沖縄の土地の上に新たな基地として、現在、問題となっているキャンプ・ハンセンやキャンプ・シュワブなどが建設されたのである。この結果日本「本土」では六〇年頃までに米軍基地は約二五%に縮小していったが、沖縄では逆に約二倍に拡大したのである。それ以上に、この「復帰運動」への沖縄の民衆運動の集中・集約は、歴史的制約と圧倒的な米軍政下にあったとは言え、反戦反基地、生活防衛、民主主義的諸権利の獲得を「異民族支配からの脱却」として捉えることで、「祖国(民族)幻想」を生み出し、日本帝国主義を免罪する結果にしかならなかった。

3・第三次琉球処分−日帝の再併合と日米共同軍事拠点化

 「平和と民主主義」を求める声と連動した祖国復帰運動は、折からのベトナム反戦闘争に連帯する沖縄民衆の戦後「第二波」のうねりを作り出していった。

 圧倒的な米軍を泥沼に引きずり込んだベトナム人民の果敢な反撃とそれに連帯する全世界的な反戦闘争の昂揚によって、米帝国主義は次第に追いつめられていった。とりわけ「侵略前線基地」を拒否する沖縄民衆の闘いは、「アジア人をしてアジア人と戦いせしめる」とするニクソン・ドクトリンの下、復帰運動を逆手に取った日本への施政権返還を政治日程に上せた。一九六五年の首相佐藤の「沖縄が復帰しない限り日本の戦後は終わらない」とする「名台詞」にはっきりと示されるように、対外膨張−侵略を強め、国境線の拡大(北方諸島から沖縄−釣魚台まで)と戦争準備・前進拠点確保と引き換えに、沖縄の安定支配を目論む共同謀議として、返還交渉が押し進められた。戦後初の主席公選直後の一九六八年一一月一九日未明、ベトナム爆撃に向かうB52戦略爆撃機が離陸に失敗、嘉手納基地弾薬庫付近に墜落し大爆発を起こした。ただちに抗議行動が展開され、一二月には「いのちを守る県民共闘」結成、翌六九年二月四日にゼネストと嘉手納基地封鎖行動を確認した。しかし日本政府は「復帰が遅れる」と屋良主席に圧力をかけるとともに、総評・同盟を通じた介入を行い、一月三一日、ついに屋良主席は「ゼネスト回避」を県民共闘に要請。激論の末、ゼネスト体制は崩壊した。
 六九年二・四ゼネスト挫折後も、四・二八沖縄デー、一〇・二一国際反戦デーへと安保・沖縄闘争は、日本−沖縄の新たな連帯を形成しつつ闘い抜かれたが、「復帰運動」の転換を克ち取るには至らず、また「奪還論」を含む様々な併合主義をうち破り得ないまま、六九年一一月の佐藤・ニクソン会談による「七二年返還」を許してしまった。

 一九七二年五月一五日、「アメリカ世からヤマト世へ」、沖縄は再び日本に併合された。もちろん一九七〇年一二月のコザ暴動、六九年からねばり強く続けられた全軍労闘争をはじめ、返還協定反対闘争として沖縄現地では二度にわたるゼネストや一〇万人規模の集会・デモが打ち抜かれた。こうした復帰運動の混迷を加速する昂揚の真っ直中で「第三次琉球処分反対」「反復帰・自立解放」の声が澎湃として湧き上がった。冒頭引用した川満信一や新川明などの知識人による論戦や、七一年一〇月の批准国会における沖縄青年同盟の糾弾決起は画時代的な衝撃を与えた。米軍政支配下を「第二次琉球処分」と捉え返すことによって、「日本は帰るべき祖国などではない」という転回を掴み取った。そして五月一五日の「復帰式典」に対抗して「沖縄処分反対県民総決起集会」が開催され、復帰協の前会長喜屋武真栄は「復帰運動の限界」を述べざるをえなかった。
 「核密約」も含め米軍基地の存続・再編強化と日本帝国主義の国益への従属、圧倒的な日本資本による従属的開発戦略の現実化、これらの事態が七二年再併合=「第三次琉球処分」の結果に外ならなかった。この再併合=「本土一体化」は日本帝国主義の国内植民地・軍事属領化の進行として全社会領域で押し進められ、沖縄人民党の日共への合流や全軍労の全駐労との統一などの政党・労組勢力の「本土系列化」が始まった。(社大党は委員長の代議士・安里積千代の民社党への加入により逆に「復帰政党」から「土着政党」をめざす途を選択し、七七年平良幸市を県知事に当選させる。)これ以降、象徴的な出来事を列挙すれば、一九七三年、日本独占資本・三菱開発によるCTS(石油備蓄基地)建設に対する反対闘争(屋良県政下での保革一体の開発推進に対して、反公害住民運動がはじめて誕生した。)や、一九七五年、開発至上主義と一過性のイベントしかもたらさなかった海洋博(それゆえ閉幕後「海洋博不況」まで引き起こした)に対する反対闘争と訪沖した皇太子夫妻に対する沖縄解放同盟(準)による糾弾闘争(白銀・ひめゆり決起)の貫徹などや、一九八七年に開催された天皇行事である海邦国体反対闘争と「日の丸焼き捨て」。

4・軍事属領・国内植民地支配

 日本による再併合以来四半世紀、日本資本主義の膨張拡大と延命のため膨大な公共投資がそそぎ込まれた。それは、米帝の世界戦略に組み込まれた「憲法を超える価値」としての日米安保体制による過重な基地負担(面積〇・六%、人口一%の地域に七五%の基地の存在。米軍基地は本島の約二〇%を占める。とりわけ嘉手納町は約八三%が基地で占められている。)の維持拡大と、その安定使用のために米軍政が政策的に作り出した基地依存型輸入経済を、植民地的モノカルチャア化として温存したまま日本政府による公共事業依存経済として制度化した。「償い」とされた沖縄復帰特別措置法と沖縄振興開発特別措置法による沖縄振興開発計画は、「復帰」以後一〇年単位で行われ(現在の三次振計は「南の拠点」論なるスローガンで一九九二から二〇〇一年まで)、現在まで四兆六〇〇〇億円が費消されたが、日本資本の進出と商品市場化および沖縄現地資本・地場産業の系列化によってほとんど日本に回収され、日本に対する従属を強める結果になっていった。

 こうした、自立経済を形成させない政策は、軍事属領支配そのものであり、それはより直接的に基地安定使用=軍用地問題ともリンクしている。

 「復帰」を控えた一九七一年、基地使用契約を拒否する約三〇〇〇人によって権利と財産を守る軍用地主会(反戦地主会)が結成された。日本政府は一二月三〇日に成立した「復帰関連四法」の一つである「公用地暫定使用法」で、五年間の強制使用を強行。あくまでも米軍基地維持を最優先させることをむき出しにした。(ちなみに軍用地主の切り崩しを強行していた七三年当時、日本政府は一ヘクタールあたりのサトウキビ買い上げ価格五九万円に対し、軍用地料を九七万円にも引き上げることで生産意欲すら剥奪させていった。これは「復帰二五周年」の九七年段階での軍用地料引き上げ満額回答にも連なる。注1)そして七四年六月に成立した「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」での補助金散布により基地周辺自治体の抱き込みをはかり、反戦地主に対して懐柔と脅迫その他ありとあらゆる手段を使って切り崩しを行い続けたが、期限切れの七七年五月一四日になっても、三九七人の地主が地域社会におけるさまざまな軋轢にも抗し、「自らの土地を戦争のために使わせない」という意志を貫き通し土地の返還を求め、拒否の姿勢を鮮明にした。すると今度は沖縄戦により不明確になった地籍を解決することを口実に「地籍明確化法」なるものによってさらに強制使用を五年延長した。(この法案が強行採決されるまでの四日間、国の不法占拠状態が現出した。九六年三月の「象のオリ」不法占拠に先立つ。)さらに八二年の期限切れに対しては、休眠法だった「駐留軍用地収用特別措置法」を持ち出し、五年、そして一〇年と強制使用を繰り返していった。今回の契約期限切れにおいては、不屈に基地提供を拒否し続ける反戦地主会の闘いとそれに呼応・連帯する一坪反戦地主会(八二年六月誕生)の存在、加えてそれを支持・支援する自治体の登場(大田県政の代理署名拒否。注2)によって、日本対沖縄の構図を鮮明に浮かび上がらせた。九七年二月から始まった収用委員会第一回公開審理で、親泊那覇市長は「那覇市は復帰以来、米軍用地にはいかなる理由が有ろうと市有地を提供しない方針を貫いて来た。ウチナーンチュにとって沖縄戦の教訓は軍は住民を決して守らなかったという事実であり、逆に軍との同居は住民にとって危険だという教訓だ」と言明するなど、異口同音に「戦争のために喜んで土地を貸す人は一人もいない」(照屋反戦地主会会長)と訴えた。だがしかし、九六年の代理署名裁判判決と九七年の軍用地特措法改悪、さらには九九年の地方行政法改悪(軍用地強制使用問題を国家の直轄事項とした)を通じて、日本政府は、米軍基地問題に対する沖縄と沖縄の民衆の発言権、法的救済の回路を奪ってしまったのだ。

 一九九八年、なりふり構わず大田知事を引きずり降ろし、代わって登場した稲嶺知事への日本政府の対応をみれば明らかなように、「買弁勢力育成」とさえ言える情況を呈している。稲嶺当選後、直ちに大田県政に対して凍結されていた沖縄政策協議会を再開し、「沖縄特別振興対策費」なる掴み金(一〇〇億円超の使途を定めない予算。ちなみに大田買収資金は五〇億円。)を与え、稲嶺知事が要望した緊急経済策を鵜呑みに近い形で受け入れ、さらに北部地域振興の名目で、一〇年間に一千億円もの資金を投入することを矢継ぎ早に決定した。「軍民共用空港・一五年期限付き」との空手形を切って、キャンプシュワブ沖への海兵隊基地の県内移設受け入れを表明した稲嶺知事は、あろうことか「平和祈念資料館」問題において「反日的になってはいけない」として、歴史を改竄してまで日本政府への露骨な「迎合」を指示さえしたのである。

注1:これに関連して現在の稲嶺ブレーンと思われる三人(真栄城守定、牧野浩隆=現副知事、高良倉吉)による『沖縄の自己検証』(九八年二月発行・ひるぎ社)において「その土地(沖縄で活用できる軍用地)を経済的に合理的に評価するならば、問題はありますが、軍用地料という収入を生み出している。……ところがキビ畑(からの収入)と軍用地料を比較すると十二倍ぐらいの開きがあってキビの生産性はそれだけ低い。」としていることも是非付け加えておきたい。もちろん第一次産業の衰退は保護下でのキビ農業にも確実に反映しているが、「サトウキビという保護された作物の将来を展望することは回避しておいて地料収入の多いところを返還して経済自立を図るということは、理念は良いとしても、実務的ではなく非現実的です。」とまでかたるのは無知か詐欺に等しいといわざるを得ない。

注2:大田県政の評価については、「国際都市形成構想」の実現目標年次である二〇一五年までにすべての基地を撤去する「基地返還アクションプログラム」綱領的集約環とし、沖縄の自立とその政治展望を鮮明に提起する政党・政治勢力の不在の中で地方政府として突出したことも含め、現在の稲嶺県政と併せてキチンとなされるべきであろう。


[資料]一九九六年六月の第一四回国連先住民作業部会に市民外交センターによるポジション・ペーパー「沖縄および先住民族としての沖縄人に関する声明」(文責/沖縄独立研究会・松島泰勝)が提出された。

 レポートは、(以下要約)「1.沖縄民族の自決権の剥奪と主権の留保」の項において、「沖縄は、日本列島、台湾、中国大陸の間にある東シナ海に位置する一六〇の島々から構成され、現在約一三〇万人が生活している。/一六〇九年、日本の地方領主であった薩摩藩は、当時独立国であった「琉球王国」に武力侵攻を行い、この結果、奄美諸島を中心とする北部地方が日本に割譲された。その後、日本の中央政府は一八七九年武力による圧力の下で「琉球併合」を行い、植民地としての統治を開始し、現在もその従属的な関係は基本的に変化していない。一八七二年の琉球併合協定は、「条約法に関するウィーン条約」の第五一条(国の代表者に対する強制)の精神に抵触するものであり、同条の前提となった慣習国際法上からも、無効であると考えられる。従って、独自の歴史に基づき、自らの言語、文化、宗教を維持、発展させてきた沖縄民族の主権は留保されている。」と書き始め、以下、「2.植民地統治に基づく差別と強制同化政策」において、「先住民族労働者が適切な民族的環境で生活する権利を規定したILO第五〇号条約第八条違反/先住民族の利益の擁護を前提に公正な取り扱いを規定した国際連盟規約第二三23条(人道的、社会的、経済的任務)b項に違反」。さらに「3.自決権要求運動への弾圧」を指摘し、「4.日本軍による強制徴用と虐殺および補償政策の否定」では「第二次世界大戦末期……強制労働を禁止したILO第二九号条約(強制労働条約)第一条、第一一条、第二五条に違反すると共に、非戦闘員の保護に関する慣習国際法に違反…こうした犠牲者と遺族に対し、現在もほとんどの補償が行われていない。」「5.植民地統治権の譲渡と住民の意思の無視」で「一九五二年のサンフランシスコ平和条約により、日本政府は…米国政府に譲渡した。しかし、この時一切の住民の意思の確認は日米両国政府によって行われなかった。沖縄民族の意思の確認が行われなかったことは、「国連憲章」第一条二項の自決権に反する行為…同時に、こうした形で施政権を得た米国政府の行為は「自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない」とした「カイロ宣言」および「平和、安全及び正義の新秩序」の建設を目的とした「ポツダム宣言」に自ら違反したものに他ならない。」さらに「6.米軍基地による沖縄人に対する人権侵害」において「実態として沖縄に従属的で不平等な地位を押し付けている。こうした植民地的状況の中では、以下のような権利が否定され続けている。」とした上で「(1)、「国家の経済的権利義務憲章」第1章(国際経済関係の基礎)g、f、k、項及び同憲章第2章第1条(経済社会体制を自由に選択する権利)に違反/「ユネスコ憲章」の前文及び「芸術作品並びに歴史及び科学の記念物の保存及び保護の確保」を定めた同憲章第1条c項に違反/(3)「環境に関する権利と責任」を規定した「人間環境宣言」第1原則及び「人間は自然との調和の下で、健康で生活的な生活を送る権利がある」と規定した「リオ宣言」第1原則に明らかに違反…/(4)「国連憲章」第五五条c項、「世界人権宣言」第二条、「国際人権規約・自由権規約」第二六条、「人種差別撤廃条約」第五条に違反…また「女子差別撤廃条約」第二条、…「子どもの権利条約」第二条、第三条に違反」。「7.沖縄民族の自決権の行使と「特別県構想」(案)」で、「…こうした現状の中で、「国際人権規約」共通第一条、さらには、「友好関係原則宣言」および「ウィーン宣言」の第二項(民族自決権)に従い、差別を解消し、人権擁護の目的から、国際社会の一員として、自決権の行使を沖縄民族が主張することは当然であるといえる。軍事基地のない沖縄と経済的自決権を基にした国際交流拠点沖縄を前提に、沖縄県政府から一九九五年に提起された「特別県」構想案は、この具体的現れであり、沖縄の自決権の歴史、さらに国際法上の地位からも合理的な主張」とし、最後に「8.沖縄民族の代表権の確保」「「リオ宣言」第二二原則、及び「アジェンダ21」第二六章、「ウィーン宣言」の第二〇項に規定された先住民族の交渉参加権に従い、軍事基地の撤廃に向けての交渉には、その当事者として、日米両国政府とともに、沖縄民族の代表の対等な参加が確保されるべきである。」と結論づけている。


(3)若干の結論として

 この時期に「沖縄問題」が、日本にとっての第一級の政治課題として浮上して来たことは全く偶然ではない。戦後日本国家、近代日本国家の存立が問い直される局面に至ったがゆえに、沖縄は自立の主張を通して、日本国家の抱える矛盾、その問題性を鮮やかに照らし出している。天皇制しかり、日米安保体制しかり、そして天皇と安保という二つの憲法外的要素を含む戦後政治体制−中央集権的官僚国家体制もまたしかりである。戦後憲法の中に投げ込まれ、あるいは食い込んだこれらの、戦後国家の骨格をなすそれぞれの要素は、いまや軋みを立てて相克し合う情況にある。近代国民国家の終焉あるいは再審とでもいうべき事態と、グローバル・パワーとしての米帝支配の衰退はこのことを一層切実に問う条件になった。

 この間の政治改革−政治再編の頓挫はこのことをまざまざと示した。当初多くの人々が予測したような〈保守・リベラル〉の対抗図式でなく、「議会史上最悪」とも言われる「自自公連立」政権が生み出されただけだった。もちろん、これすら一過性のものでしかないことは明らかだが、一方における国際化、他方での市民社会秩序の解体、日本資本主義の多国籍化と高次産業社会段階への突入がもたらすこれらの社会経済的現実は、国民国家本来の政治統合をその社会的基盤において不可能にしており、政治的正統性の欠如を重要な特徴とする権威主義的国家主義体制が日本国家固有の仕方で現れている。この社会の流動化は戦後政治支配秩序の枠組をすでに崩壊させている。もはや戦後憲法もこれに対応するものではない。法の支配が一層形骸化を進めて、現実政治の構造的暴力による実体的支配がこれにとって代わっている。

 地方主権のための運動に始まり、国権の制限と社会的自治の拡大のためのさまざまな活動から導かれる、連邦制への移行を促す日本国家の分割−解体は、このための政治的与件に外ならない。したがって沖縄の政治的自立は沖縄だけで実現されるのではなく、むしろ日本国家の政治社会の変革と分かちがたく結び付けられている。また同様に沖縄と日本とを取り巻く東アジア・環太平洋圏の政治社会的変革と深くかかわらざるを得ない。沖縄が政治的自立の道を進むのに今、集眉の課題となっているのはそれを粘り強く実現する政治的主体を形成することであり、政治的自立の意志と条件を欠くならば経済的自立もないことは明らかだろう。

 「復帰一〇年」に際して書かれた『沖縄自立への挑戦』(社会思想社)において中村丈夫は「古来、存続しているものが時に応じて姿を現すのではなく、その都度の社会的あるいは権力的な関係の変動の中で、民族問題も民族も再構成される」のであり、「世界的にはプロレタリア的な位置に置かれ、反資本主義的な抵抗や自立を志向する非階級的ないし超階級的な社会集団」であり「古い共同体が新しい利害や意識の連帯を通じて抵抗共同体に転生し、再建されることです。」とした上で、「島嶼の自治ないし自決を、その物質的根底にまでわたって保障しようとすれば、そのための障害を排除する上部構造的条件の確立が、先決とならざるをえない。経済的従属下の『低開発の発展』を打破する、政治的自決をめざす抵抗運動が、内発的な経済発展を主導する。」と提起している。

 こうしたことから導かれる結論は、鮮明である。我々が「第四次琉球処分」と呼んだこの間の一連の事態が明らかにしているように、帝国主義者の議会と法律の下で、国内植民地としての沖縄への差別抑圧支配をやめるように求めることや、現状の日本国家とその法・制度に期待をかけるのは間違いである。日本国家は、沖縄の人民が自らの土地を軍用地としての提供することを拒否し、「沖縄県」が代理署名拒否を実行して初めて基地問題の交渉のテーブルについたことを忘れてはならない。日本国家や国法への幻想を捨て、日本の国策・国益ときっぱりと一線を画し、沖縄の自立の道を歩むことこそ現実的な方途である。現在これを可能とするのは沖縄人民の民族的分離の自由の権利行使であり、またこの自決権を支持し日本帝国主義の打倒をめざす日本人民の政治的直接行動だけである。このことの根本をないがしろにし曖昧にしてはならない。

 日本−沖縄を結び、東アジア・環太平洋圏の人民の新たな連帯を作り上げ、政治・社会・経済の全般的な混沌の中で、人々が生きるに値する社会を見出し、それぞれの生活の基礎から発する切実な要求のために闘おう。


※本小論は『共産主義運動年誌・創刊号』(2000.4.21)に「副題・沖縄の自立解放闘争に連帯し、日本帝国主義打倒−日帝国家解体を闘いとろう/東アジア・環太平洋圏の新たな人民連帯秩序の実現へ前進しよう」として共産主義者同盟首都圏委員会/「風をよむ」編集委員会(文責・大杉莫)名で発表されたもの。