「超時空要塞マクベス」


「…本気ですか?」
「本気です」
 葵は絶句した。
 目の前の上級生は、一歩も引こうとしない。
 手強い相手だった。
「で、でもなんで私なんかが…」
 葵はあたふたと慌てふためきつつ、なんとかその申し出を断ろうとした。
 だが、その上級生…名を日下部みどりと言う…はやっぱり一歩も引こうとしない。
「ダメ!貴方しかこの役が務まる人はいないのよ!お願いよ松原さん!この通り!」
「あ…あう…」
 おもわずマルチになってしまう葵。
 シャレにならないから、やめなさいって。
 冗談は脇へ置いておくとして、上級生に土下座までされてしまっては、断れる葵ではない。
 結局押し切られて、承知させられてしまった。
「ありがとう松原さん!恩に着るわ!じゃあ、私は他にも交渉する人がいるからもう行くけど、本当にお願いね!じゃ!」
 みどりはスキップでもするかのような足取りで軽やかに去って行く。
 いや、本当にスキップしている。
 おめでたい女性である。
 それとは対照的に、全然めでたくないヒトが約一名。
 葵である。
「…わ、私が…私に演劇なんてできるんでしょうか…どうしようせんぱい…」

「…いいんじゃねーの?葵ちゃんの舞台、俺も見てみたいな」
 浩之は無責任に気軽に応援する。
 葵と浩之は、いつもの神社で練習をしていた。
 と言っても、練習をしているのは葵だけである。
 浩之の左腕はギプスで固定され、首から三角巾で吊られている。
 この負傷は、秋季エクストリームの大会において、予選の決勝まで勝ち進んだものの、その時の相手選手と相打ちになった結果だった。
 なお、浩之の参加ブロックからは一位二位共に負傷欠場のため、三位の選手が本戦の決勝トーナメントに出場したが、あっさり緒戦敗退したそうである。
 ちなみに葵は楽々本戦まで進んだが、二回戦でいきなり一回戦シードだった綾香と当たり、担架に乗って医務室に送られるはめになった。
 その綾香の方だが、意気揚揚と控え室に立ち去ったのだが、時間になっても次の試合に現れなかった。
 結局のところ、不審に思い様子を見に行った長瀬源四郎氏により、気を失って倒れている所を発見されて、そのまま救急車で病院送りになった。
 その年の秋季エクストリーム大会・高校女子の部は、そのようなわけで甚だ盛り上がりに欠けたという。
 ま、ソレは余談。
「演劇部の日下部部長も、三年の引退で困ってるんだろ。ウチの演劇部、一時はそうとうなもんだったらしいが、今じゃあズンドコ、いやどん底で、次の定演もまともにできるか分からないっていうじゃん」
「やるのはその定演なんですよ…私にそんな大舞台…」
 葵は血の気の引いた顔でボソボソと答える。
 浩之は葵に近づいて、その肩に右手を置いた。
 浩之の右手に、ブルブルと葵の震えが伝わってくる。
「葵ちゃん…どうしても嫌だったら、止めても良いんだぜ。断るときは、俺も一緒に行ってやるよ」
 浩之は優しい声音で語りかける。
 葵の震えは、徐々におさまっていった。
「…いえ、一度承知してしまった事ですから。私、やります!…せんぱい、ありがとうございます。今の…止めるようにっていうの…わざと言ったんでしょう?私を励ますために…」
 照れた浩之の顔が赤くなる。
 葵の顔は既に真っ赤だ。
 ちなみに、あかりの顔は血の気が引いて蒼白かった。
 あかりがいるのは、お堂の陰である。
 ちゃんと、ハンカチを咥えて悲しそうな顔をしている。
「浩之ちゃん…」
 の台詞も忘れていない。
 うむ。
 完璧である。
 モロ悲劇のヒロインにはまり切っている。
 なお、あかりの髪型はおさげタイプである。
 どうやら『一緒に勉強』イベントも『花見』イベントも無かったらしい。

「ふーん。じゃあ、葵ちゃんが主役ってワケじゃないんだね浩之」
「ああ。主役は坂下だとさ」
 三時間目の終わりに、浩之は教室で雅史と談笑していた。
「え?好恵さんが主役なの?いったい演目は何なんだい?」
「シェイクスピアだそうだ。マクベスだ」
 あくびを交えながら浩之が答える。
「マクベス。シェイクスピアの四大悲劇の一遍。主人公のマクベスは最初スコットランドの勇敢な武将だった。だがある時三人の魔女に唆され、王位を簒奪する。そして様々な圧政・暴政を繰り返す。三人の魔女から、『バーナムの大森林がダンシネインの丘に攻め登ってこぬ限りは』滅びない、『女の産み落とした者には』倒されないと保証されてな」
「ふんふん」
「だが、殺されたスコットランド王ダンカンの世継、マルコムが、バーナムの森の枝を切ってかかげ、それで兵士を偽装して進撃したために最初の保証はもろくも崩れる。で、マクベスを追い詰めたのが勇敢なる武将マクダフ。彼は月足らずで帝王切開により誕生したため、『産み落とされ』はしなかったわけだ。これでマクベスを守っていた魔女の保証は、実は意味をなさなかった事があきらかになる。そしてマクベスは滅びるわけだ。ま、分に合わない野望を抱いた男の悲劇的な末路を書いた有名な戯曲だな」
 雅史は、浩之の博識ぶりに唖然とした。
 外面はいつもの浩之なのに、そうサラっと答えられては調子が狂う。
「ひ、浩之…随分詳しいね…シェイクスピア好きなの?」
「うんにゃ」
 浩之は即座に否定する。
「葵ちゃんが劇に出るって言うから、昨日帰りがけに買って、徹夜で読んだ」
 そう言って、大あくびをする。
「葵ちゃんがやるのは、そのマクダフっていう、マクベスを剣戟の果てに打ち倒す奴の役だ。その剣戟シーンが今回のクライマックスシーンなんだと。坂下の相手がマトモにつとまるのは葵ちゃんしかいないんだとさ。坂下、練習でもあの調子で厳しくやるから、最初相手役だった奴、逃げ出しちまったんだと」
「でも、なんで好恵さんが演劇部の定演に?」
 雅史は不思議そうだ。
「ん?演劇部の部長が泣き落したんだとさ。なんでも、今演劇部に残ってるのは女子部員がほとんどで、男子は貧弱な坊やが一名きりなんだと。で、どうせだからヅカ(宝塚)風にやろうって話になって…で、ヅカの男役っつったら、当てはまるのは…」
 雅史は納得した。
 浩之は再度大あくびをした。

 数日後の昼休み。
 ギプスの取れた浩之は(でも、まだ包帯は巻いている)屋上で葵のお手製弁当を平らげた後、葵の(演劇の)練習に付き合っていた。
「マクダフ!この恨みを剣の砥石にして哀しみを怒りに変えろ!心を眠らせず、燃え上がらせるんだ!」
「嗚呼、女のように泣き叫べたら、どんなに気が楽か!天よ、我を哀れと思うなら、万難を排し、即刻俺をあのスコットランドの悪鬼の鼻面に突き付けてくれ!我が剣の届くところにマクベスを立たせてくれ!もしそれで逃げられたのなら、天が奴を赦したとて文句は言わないぞ!」
「それでこそ男だ!さあ、イングランド王に暇乞いをしに行こう。兵士達が待っている。マクベスは腐った木の実も同然、少し揺らせば落ちて潰れる。天は我等の味方だ。さあ元気を出せ、明けない夜は無い!」
「…ふぅ…せんぱい、お上手ですね」
 浩之は苦笑する。
「俺は台本持ったまま喋ってるじゃ無いかよ。葵ちゃんこそ、とても素人には思えないぜ。まあ、ちょっと難を言えば、まだ台詞に照れが残ってるのと、時々台詞を思い出そうとしてるのか声が小さくなる事かな」
 葵は赤面して小さくなる。
「あ、ご、ごめんなさい!」
「いや、いいんだって。まだまだ時間はあるんだから、ゆっくりやろうぜ。それにな、もし台詞忘れても、それで慌てる方がマズイぜ?それよりは話の流れ自体を頭に入れちまって、その場でそれに合う台詞をアドリブで入れたほうがいいぜ。何、本物の演劇部員も一緒に舞台に上がるんだから、その辺はサポートしてくれるさ」
「はぁ…」
 葵は不安そうだ。
「格闘技の試合だってそうだろ?いつもいつもセオリー通りに闘いが進むわけじゃない。相手が突発的な行動を取ったら、きちんとそれに対応する必要があるだろ?アドリブったって、ソレと一緒さ」
 葵の顔が明るくなる。
 やはり、格闘技を例にとって解説されると、理解がはやいようだ。
「なるほど!わかりましたせんぱい!」
 葵は元気いっぱいに返事をする。
 その笑顔は、浩之にはとてもまぶしく見えた。
 思わず浩之はちょっと赤くなる。
「さ、さあ!練習の続き続き!昼休み終わっちまうぞ!」
「はいっ!」
「ヒ・ル・ヤ・ス・ミ・オ・ワッ・チ・マ・ウ・ゾ…」
 ここは学校の中庭。
 双眼鏡を手に、浩之の唇を読んでいるのは、某赤毛のおさげの女生徒である。
 溜息をつきながら、目から双眼鏡を離すと、悲しげに呟く。
「浩之ちゃん…」
 その様子を、自分の教室から更に眺めているのは雅史である。
「…あかりちゃんも、もう浩之をあきらめて新しい恋を探した方が前向きで建設的だと思うんだけどなあ…まあ、僕も子供の頃からの付き合いだから、それが難しいのもわかるけど」
「そうだよなあ佐藤、あんな薄情者の事なんかさっさと諦めてくれれば、この矢島が神岸さんをやさし〜く慰めてあげるのに」
「影が薄い奴は引っ込んでてくれるかい?」
 …ソレは酷いぞ、雅史。
 矢島が掃除用具ロッカーに閉じこもってしまったじゃないか。

 さて、強引矢のごとし。
 いや、光陰矢のごとし。
 飛ぶように日は流れ(1ヶ月は経って無いので、「月日」は流れて無い)いよいよ演劇部の定演である。
「いよいよね、葵。昨日の通し稽古では充分上手くやれてたから、大丈夫だとは思うけど…」
 舞台袖で好恵は葵に話し掛けた。
 返事が無い。
「?」
 好恵がそちらを見ると、葵は硬直していた。
 その視線は、客席に吸い寄せられたまま右往左往している。
 満員の観客に、完全に呑まれてしまっているのだ。
 この大量のお客は、演劇部部長の日下部みどりが練習もそっちのけで駅前でビラを配ったり友人知人の知り合いに声を掛けまくったり、あげくに志保ちゃんネットワークまで活用して話を広めたために集まったのだ。
 もっとも、志保ちゃんネットワークの特性上、話はけっこう曲解されている可能性もある。
 向こうの方には何を勘違いしたのか、どこぞの同人誌即売会にいそうなカメコ連中まで押しかけている。
 ま、ソレはともあれ今の問題は、葵が緊張のあまり硬直して演技どころでは無い、と言う事だろう。
 好恵は溜息をつきながら、レスキュー(対葵用)を呼びに行った。
 しばらくして、レスキューが到着した。
 言わずと知れた、浩之である。
「葵ちゃん!」
 さすがに葵は浩之の声には反応した。
 びくっと肩を震わせると、ガチガチになった表情でギクシャクと振り向く。
「あ、せ、せんぱい…ど、どうしよう…こんなにお客さん…」
 葵はすっかり蒼ざめて、傍目で見ても明らかなほどガタガタと震えていた。
 浩之は葵に近づいた。
「葵ちゃん、どうしたんだ?昨日の通し稽古では、あんなに上手くやれてたじゃ無いか」
「だ、駄目です…こんなに大勢のお客さんの前で、もしも変なことしちゃったら…私…私…」
 葵はすっかり怯えていた。
 まるで、春に好恵と試合をしたあの時と同じだった。
 プレッシャーに押しつぶされる寸前である。
(葵ちゃん…!)
 浩之は葵の両肩を掴むと、声を張り上げた。
「葵ちゃん!歯ぁ食いしばれぇっ!!」
 葵は思わず目を閉じて、歯を固く固く食いしばる。
 浩之の掌が葵の頬を打つ!
 そっと、軽く。
「…え?」
「葵ちゃん…」
 浩之は葵の目を真正面から見つめて、大声で叫んだ。
「葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは美味い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは上手い!葵ちゃんは誰が何と言おうと!演技が!絶対に!上手ああああああぁぁぁぁぁぁいっ!!!」
「せ、せんぱい…」
「葵ちゃんの身体には、これまで一生懸命練習した成果がつまってるからだ!この頭にも!この肩にも!この腕にも!この足にも!だから、巧く行かないなんて事は絶対に無い!!この俺が保証する!断言する!…それとも俺の保証じゃ、葵ちゃん心配かい?」
 そう言って浩之はにっこり笑った。
 まあ、ずるいと言えばずるいだろう。
 こう言われて、葵が否と言うわけは無いのだから。
「い、いえ。心配なんて、そんな事ありませんせんぱい!」
 ホラ見ろ。
「…せんぱい、ありがとうございます。そう言えば前のとき…好恵さんと試合した時にもこうやって元気付けてくれましたね。本当に、いつも先輩にはなんてお礼を言っていいか…」
「気にしなくていいよ葵ちゃん。俺は男だからな。好きな娘のために何かしたいっていうのは当たり前なんだ。好きな娘のために何もできなかったら、逆に俺が落ち込んじまうよ」
 浩之と葵は、お互い真っ赤になった。
 そこに好恵が来た。
「あ…坂下!き、聴いてたのか!?」
「好恵さん…」
「…聴いてたのか、も何もないわよ。あんな大声で騒いだら、体育館の向こう側にいたって聞こえるわよ…ま、ありがと藤田。葵も落ちつきを取り戻せたようね」
 溜息をつきながら好恵が一応礼を言う。
 二人は更に赤くなった。
 そこへ、もう一人やってきた。
「…だけど浩之、ホントに体育館中に浩之の声、響いてたよ」
「まっ雅史!?」
「これで校内中どころか、ほぼここいら一帯で公認の仲だね。おめでとう浩之、葵ちゃん」
 雅史はまったく悪意のなさそうな爽やかな笑いを浮かべてヌケヌケと言い放つ。
 浩之も葵も、まるでヤカンのように蒸気を吹き上げる寸前だった。
 泡を食って、控え室の方へ走り去る。
 それを追って、好恵も立ち去る。
 独り残った雅史はぽつりと呟く。
「…浩之が叫んでた中に『葵ちゃんは美味い』って台詞があった事は…黙っといたほうがいいだろうね」
 うむ。
 それは黙ってたほうがいいと思うぞ。
 下品だし。
「浩之ちゃん…」
 ちなみにあかりは舞台袖に置いてある大道具の陰に隠れてその様子を見ていた。
 悲しそうに。
 だけど、はっきり言って、『隠れる』じゃなくて『下敷き』か、『挟まれてる』って言うんだと思うぞ、ソレは。
「神岸さん…」
 あ。
 矢島もいやがった。
 折りたたまれたバスケットのゴールにぶら下がって、反射板の陰に隠れてやがる。
 忍者か、おまえは。

「…いよいよクライマックスシーンだな…」
 浩之は舞台の袖から観劇していた。
 本当は客席の最前列に自分の席があるのだが、さすがにあんな大騒ぎをやったのでは、戻るのが気恥ずかしいらしい。
 舞台の上では、葵の演じるマクダフと、好恵の演じるマクベスが今まさに一騎打ちを始めんとしていた。
「いくらあがいても無駄だぞマクダフ!貴様の剣さばきがいかに鋭かろうと、俺の命にはまじないがかかっている。俺は、女から産まれ落ちた人間では殺す事はできないのだ!」
「そんなまじないの効き目、いつまでも持つと思うな!このマクダフ、産まれるより前に、母の胎を裂いて月足らずで取り出されたのだ!」
「何!?くそ、その台詞を言った貴様の舌が憎いぞ!その一言で勇気もくじけた!あのイカサマ魔女どもめ、この俺を罠にかけおったな!約束を言葉通りに守りながら、最後には裏をかきおる!やめろマクダフ…貴様とは戦いたくは無いぞ」
 葵と好恵の演技は、とても堂々としたものだった。
 特に葵は、最初の慌てぶりが嘘のように、見違えるような見事な芝居をしていた。
 落ちついたのか、それとも開き直ったのかはまったくわからないが。
 好恵は好恵で、モロに男装の麗人という風情があまりにも似合いすぎている。
 しかも、悪役っぷりも見事なものだ。
 本来マクベスは、主人公でありながら器の小さい男で、運命に翻弄されて押しつぶされる哀れなやつだが、好恵が演じるマクベスはまるで赤い彗星のシ○アか、プリンス・シ○ーキンか、というぐらい格好良かった。
 客席からは、
「「「きゃー!!!坂下さーん!!!」」」
 というように、ひっきりなしに黄色い声援が飛び交っている。
「うーむ…新解釈なのか?」
 思わず呟く浩之だった。
 その間に、舞台ではマクダフ葵とマクベス好恵の一騎打ちが始まっていた。
 葵と好恵は模造刀を振りまわし、見事な立会いを見せる。
 観客は、一様に息を呑む。
 殺陣の演出は日下部みどり部長だ。
 しかし、演じている二人の資質も見逃す事は出来まい。
 浩之は、二人の足さばきが洋剣術ではなく、空手に近い…いや、空手そのものである事に気づく。
 剣による突きや切り、そして払いも、全てタイミングが空手の時と同じに見える。
「…なるほど…」
 なんとなく、納得してしまった浩之だった。
 舞台の上では、葵が徐々に好恵を圧している途中だった。
 脚本では、このままマクダフ葵がマクベス好恵にトドメをさし、勝ち名乗りを上げるはずであった。
(…いい動きするわね葵…)
 まんざら演技だけでもなく圧されつつ、好恵はゆっくりと後退していった。
(いきますよ好恵さん)
 アイコンタクトで合図をしつつ、葵はトドメの一撃を加えようとする。
 その時だった。
 ぐにゃり。
 葵が何か変な物を踏んだ。
「きゃうっ!」
 それは、踏んだ瞬間妙な声をあげた。
 女生徒の左手だった。
「あ、ありゃあ…」
 浩之はうめくような声をあげた。
 それは大道具から脱出しそこねて、一緒に舞台の上に配置されてしまったあかりだったのだ。
「あっ!」
 葵はバランスを崩した。
 しかし何とか踏みとどまる。
 だが好恵は、葵に隙ができた瞬間、つい反射的に蹴りを出してしまった。
(あっ!しまった!)
 と思った時にはもう遅い。
 好恵の鋭い蹴りは、見事に葵の脇腹にクリーンヒットしてしまった。
 転倒する葵。
 しかし、模造刀を放りだし、受身を取って、立ち上がる。
 そして葵も、そのまま条件反射で好恵の懐に飛び込み、拳の連打を浴びせる。
(あ。やっちゃった)
 葵が、自分が何をしたのか気付いた時には既に、好恵の鳩尾に何発もの拳が突き刺さっていた。
 好恵も模造刀を捨てる。
 そして最初の数発はくらったものの、適確に葵の拳をさばいて行く。
 葵は焦る。
 今のままではいたずらに体力を消耗するだけだ。
 いや違う。
 今のままでは定演が滅茶苦茶になる。
 だが、模造刀を拾いに行こうとしても、好恵の攻撃は鋭く、気を抜くと倒されてしまうだろう。
 同じ事は好恵の側にも言える。
 思わず模造刀を捨ててしまったが、そうしなければ殴り倒されていただろう。
 今も葵の攻撃は適確に急所を狙ってくる。
((…やらなければ、やられる!))
 二人は同時にそう思った。
「…うわっちゃあぁ…」
 浩之は舞台の袖からその様子を見て、唖然としていた。
 このまま飛び出して戦いを止めたら、芝居は滅茶苦茶だ。
 だが、マクベスとマクダフが素手で殴り合うというのは、どうにも様にならない。
「ああああああああああ…」
 浩之の隣では、日下部部長が頭を抱えてうずくまっていた。
「私の美しい演出が…」
 …もうちょっと、別の事を心配したらどうかとも思うが。
 舞台の上での闘いは、ますます激しさを増していた。
 葵のハイキックをダッキングでかわした好恵が懐に飛び込んで拳を放つ。
 葵はその拳を取って捻りあげようとする。
 関節技を極められてはたまらない、とばかりに好恵は逆手で葵の顎めがけヒジ打ちを放つ。
 このヒジ打ちが綺麗に入った。
「しまった!」
 浩之が叫ぶ。
 エクストリームではヒジ打ちと頭突きは禁止なので、その練習や対処する練習もある程度しかやっていない。
 見事に弱点を突かれた形になった。
 転倒した葵に追い討ちをかけようとする好恵。
 しかし葵は転がって避けると、好恵に蟹バサミをかける。
 今度は好恵も転倒した。
「がっ!」
 好恵は受身に失敗し、頭を打った。
 葵はそのまま立ち上がり、身構える。
 好恵も即座に立ちあがり、これもまた身構える。
 二人の頭からはもはや演劇の事など吹っ飛んでいるようだ。
 張り詰めた空気が流れる。
 客席も、しんと黙りこくっている。
「…お互い、次で勝負を決める気ね…」
 客席でその様子を見ていたのは綾香である。
 その隣には芹香と長瀬源四郎もいる。
「………」
 え?
 『セバスチャン』ですって?
 ハイハイ。
「けれど、二人ともずいぶん腕を上げたわね。好恵は出てくる気があるか分からないけれど、春の大会では充分注意しなくちゃ。次は、負傷で棄権なんて事にはぜったいにならないわよ」
「………」
「え?なんかマクベスと違う?そうなの姉さん?まあ良いんじゃない?こっちの方が面白いし」
 そのころ浩之も舞台袖からその様子を見つめていた。
「…く…どうすりゃいいんだ…葵ちゃん、やっぱり精神的に圧されてる…」
 浩之は葵の事ならば手に取るようにわかるのだ。
 だけど、芝居の成り行きも心配しろよ。
 葵と好恵は、じりじりと間合いを詰めている。
 あと僅かで、お互いの間合いに入る。
 その瞬間が勝負だ。
 …って、マクベスが負けなきゃあ、この芝居、困るんじゃないのか?
 あと数十センチ。
 あと数センチ。
 あと数ミリ。
 葵は好恵の発するプレッシャーに押し潰されそうになっていた。
 だが、それは好恵も同じ事である。
 春の試合で、崩拳で一撃で逆転された記憶は、まだ生々しく脳裏にこびり付いている。
 あと僅か。
 あと僅かで…勝負が決まる。
 葵は弾かれたように好恵の懐へ飛び込んでいった。
 好恵はあえて防御を捨てて攻撃に全ての力を注ぐ。
 浩之は叫んだ。
「葵ちゃああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
「好恵さああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
「「!?」」
 葵の拳が好恵の鳩尾に突き刺さる。
 だが、好恵の拳もその瞬間『何か』に後押しされたかのように速度と威力を増し、葵の心臓の上を強打した。
 そして二人はそのままその場所に崩れ落ちた。
「あ…」
 浩之は唖然とする。
 急いで葵に駆け寄ろうとするが、それより速くみどり部長が舞台に踊り出た。
「おおマクダフ!見事マクベスを討ち果たしたか!だが、代償は大きかった!貴殿こそ真の英雄だマクダフ!貴殿の死を無駄にはせんぞ!」
 本当なら、マクダフは死なないのだが…まあこの場合は仕方ないだろう。
 みどり部長は適確?なアドリブで舞台を繋ぐと、格好良くポーズを決めて後ろ手で合図を送る。
 舞台装置の係が音楽を鳴らし、幕を下ろして行く。
 どうやら、なんとか終わったようである。
 客席は、凄まじいまでの拍手に包まれていた。
 大受けである。
 やはり本物の迫力は違う、という所だろうか。
 浩之は、幕が降り切ると同時に飛び出して、葵を抱き起こした。
「あ…せんぱい…!!!劇、劇は!」
「大丈夫、ちゃんと終わったよ。大成功(?)だ。聞こえるだろう?この拍手」
 ふと目をやると、好恵の傍らに演劇部の唯一の男子生徒…例の『貧弱な坊や』である…がしゃがみこんで、一生懸命に話しかけていた。
 どうやら、浩之が葵の名を叫ぶと同時に好恵の名を叫んだのは、この一年坊主であるらしい。
「…なるほど。坂下はああいうのが好みか」
「…???そうなんですか?せんぱい?」
「うんにゃ。なんか空手一筋の坂下が、なんで演劇部の手伝いなんぞ引きうけたのかって思ってたんだが…なんか、何となく納得した」
 浩之は、葵に視線を戻すと話かけた。
「ところで葵ちゃん。大丈夫か?ずいぶん手ひどくやられたみたいだけど」
 葵はにっこりと笑って答える。
「あ、大丈夫です。ちょっと痛いですけど…あいっ!…だ、大丈…あぐっ!」
 葵の顔には脂汗が浮かんでいる。
 浩之はポケットからハンカチを出して、その脂汗を拭ってやった。
「まあ、あんまり無理はしないこと。格闘家は身体が資本だからな。今日は俺が家までおぶってってやろう」
 そう言って、浩之はニッコリ笑う。
 葵は真っ赤になった。
「ちょっとお二人さん、まだカーテンコールが残ってるから、ラブシーンはその後にしてね♪」
 みどり部長が突っ込む。
 浩之も赤くなった。
 葵は更に真っ赤に染まる。
 客席からは、まだわれんばかりの拍手が鳴り響いていた。

・おまけ
「…浩之ちゃん…」
 あかりはまだ大道具の下敷きになったまま、浩之と葵のラブラブなシーンを盗み見ていた。
「神岸さん…」
 あ。
 矢島を忘れてた。
 こいつはまだバスケットゴールの反射板の後にさかさまにぶら下がっている。
 頭に血が上らんのだろうか。
「…もう、目の前が真っ赤にそまってるんだが…」
 あ、やっぱり。
 つーか、降りろよ矢島。
 …まあ、なにはともあれ、頑張れあかり、頑張れ矢島。
 応援してるぞ。
 一応は。


あとがき

 このSSはある深い事情により、裏取引の結果、ひろりんさんの「葵ちゃん応援ページ」に寄贈した物です。
 …えーと。
 このネタは、某チャットで「個人的ページインダストリー」のまるちーずさんと話しているうちに突如として浮かんできた物です。
 ぐだぐだとダベりながら、莫迦話を披露していたら、冗談から、いや瓢箪から駒っていう感じでふいっと浮かんできたネタなんです。
 まあ、なんにせよ言いたい事はひとつ!
 あかりファンの方、どーもごめんなさい。
 カミソリやメールボムは送らないでね(^^;

 ところで、もしもご感想など教えていただけるのでしたら、mail To:weed@catnip.freemail.ne.jp(スパム対策として全角文字にしていますので、半角化してください)へメールで御報せいただくか、あるいは掲示板「田圃(うるち米)」へ田植え(書きこみ)をしていって下さい。
 ぜひ、ぜひ、御感想をお願いします。


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