「あたたかいこころ」


 …私はあの娘が嫌いです。
 あの娘はあの人にひどいことをしたから。
 だから私はあの娘が嫌いです。

 長瀬祐介はまた屋上に来ていた。
 あれから4ヶ月近くが経っていた。
 あの悪夢のような事件から。
 心を澄ませて電波を拾っても、その中にあの娘の声は聞こえない。
「瑠璃子さん…」
 祐介は言葉に出してみた。
 だが、その声はあの娘…瑠璃子には届かない。
 瑠璃子は、彼女の兄、月島拓也の元へ去ってしまった。
 自分で"扉"を開けて、祐介の手の届かない場所へ行ってしまったのだ。
 祐介はため息をつく。
『瑠璃子さんが望んでいたのは、お兄さんを…月島さんを止める…ちからずくで止める事ではなく、月島さんをあの重苦しいどんよりと澱みきった狂気の淵から助け出す事だったのではないだろうか』
 そう思うと、いつも祐介は胸が潰れそうになる。
 だが、どんなに考えても考えても、その考えが正しいのか間違っているのか、答えてくれるひとは、もういないのだ。
 どんなに声の限り呼びかけても、どんなに力の限り電波で呼びかけても、瑠璃子は祐介の手の届かないところにいる。
 祐介はもう一度ため息をつく。
 屋上のフェンスをとおして見下ろすと、野球部が練習をしているのが見える。
 みんな一生懸命だ。
『やれやれ』
 祐介は思った。
『うちの野球部の実力じゃ、地区予選を突破して甲子園へ行くなんて、夢のまた夢なのにな』
 そのとき、ふと祐介の口元から笑みが漏れた。
 以前の祐介だったら、こんな感慨は抱かなかったろう。
 いや、抱けなかったろうに。
 あのころの祐介にとって、世界はモノトーンで何の色もなかった。
 祐介の世界に色を取り戻してくれたのは瑠璃子だった。
 瑠璃子は言った。
『助けてあげるよ…長瀬ちゃん』
 祐介の頭の中で、瑠璃子の声が木霊のようによみがえる。
『そうだね、瑠璃子さん。きみは僕を助けてくれた。
 ありがとう。
 だけど、僕はきみを助けてあげられなかった。
 ごめんよ。』
 瑠璃子の電波はもうこの大空のどこにも感じられない。
 しかし祐介は、瑠璃子に届けと祈って心の中で語りかける。
 降り注ぐ陽の光に、祐介は涙を流す。
 寂しくて。
 せつなくて。
 祐介は今日もまた瑠璃子と拓也の見舞に行く。
 そして、祐介はまた涙を流すのだ。

 …私はあの娘が嫌いです。
 あの娘は自分たちのために、あの人の優しさを利用したから。
 だから私はあの娘が嫌いです。

 病院への途中、祐介は藍原瑞穂をみかけた。
 おもわず物陰に隠れようとして、思いとどまる。
 瑞穂はあの事件の事を何もおぼえていない筈だから、下手に隠れたりしたら返って目立つ事になりかねない。
 あの事件であったことの記憶は、祐介が電波を使って完全に破壊したのだから。
 祐介は苦笑して、瑞穂の脇を歩き過ぎた。
『そういえば、太田さんは今どうしてるんだろう』
 祐介は思う。
 太田香奈子。
 瑞穂の親友で、事件の最大の被害者。
 彼女が今どこの病院に入院しているのか、祐介は知らない。
 聞く話によると、閉鎖病棟で面会ができない所だと言う事だが、なにぶん噂だから確かな事はわからない。
 もしかしたら、瑞穂ですら知らされていない可能性もある。
 香奈子のことを考えると、祐介は気が重くなる。
 彼女の精神は月島拓也の手で完膚なきまでに微塵に打ち砕かれた。
 残っているのはわずかな記憶の残滓と反射的な心の動きの一部のみ。
 彼女がもし治るとしても、それは全く新しい人間として、人格を一から再構築する事になるだろう。
 それには一人の人間が成長し、大人になるほどの時間がかかるのではないだろうか。
 だが希望が無いわけではないだろう。
 祐介は心の中で瑞穂に声援を送る。
 声はかけない。
 瑞穂にとって、祐介は"知らないひと"であるから。
 けれども祐介は、せめて心の中で声援を送る。

 …私はあの娘が嫌いです。
 あの娘はあの人を孤独の中に置き去りにして、行ってしまったから。
 だから私はあの娘が嫌いです。

 今日も祐介は高校の屋上にきていた。
 昼休みは売店のパンを買って、ここで食べるのがここ数ヶ月の日課だった。
 雨が降らなければ、だが。
 ガサガサと音を立ててパンのビニール袋を破る。
 もう夏も近いので、陽射しが強くなっている。
『志望校、決めなきゃなあ…』
 だが祐介自身、自分が何をやりたいのか今一つわかっていない。
 いや、やりたい事は無いわけではない。
 精神医学だ。
 だが、医者の道を進むには成績が心もとない。
 それに祐介の家は貧乏でもないかわり裕福でもない。
 私立の医大に進むには、金銭的に心もとないのも確かだ。
 かと言って、国立の医学部は現在の祐介の成績では論外だ。
 "まぼろしの"とまで言われたカツサンドを咥えながら、祐介は頭をかかえた。
「あの…となり…いいでしょうか?」
 祐介は顔を上げて声の主を見、唖然として咥えていたカツサンドを落としてしまった。
「あ…あの…サンドイッチが膝の上に…」
「え…あ、ああ大丈夫、大丈夫。と、隣?うん、かまわないよ」
 声の主は瑞穂だった。
 手に小さな弁当包みを持っている。
 瑞穂はほっとした表情で微笑むと、祐介の隣に腰を降ろす。
 祐介はなんとなくいたたまれないような、肩身の狭いような思いをしていた。
『あの事件の事はおぼえていないはずだけど…』
「どうしたんですか?」
 祐介は、瑞穂の顔をじっと見つめていたのに気づくと、あわてて顔をそらした。
「あ、いや…他に場所もガラガラに空いてるのに、なんで僕の隣に来たのかなって…」
「…お弁当、一人で食べるのってあじけないじゃないですか。だから良かったら御一緒させてもらえないかなって思いまして…長瀬さん…ですよね?」
 祐介は驚く。
「な、なんで僕の名前を?」
 記憶が戻るはずはないと思っても、祐介は不安を拭えない。
 瑞穂は小さく笑いながら言う。
「だって、長瀬先生は叔父さんでしょう?一部で有名ですよ。あ、私…藍原瑞穂です、はじめまして」
『はじめまして…か』
 祐介はほっとする。
 この娘があんなつらい記憶を抱えたままだったら、と思うとたまらなく苦しく思う。
「あ、長瀬さんって長瀬先生とまぎらわしいですね。祐介さん…ってお呼びしてもいいですか?」
「ああ、かまわないよ」
 そう答えて、祐介は事件のときにほとんど同じ会話を瑞穂と交わしていた事を思い出す。
 あのとき瑞穂は太田香奈子の狂気の原因をつきとめるため、必死になっていた。
 そして…。
「そういえば、昨年祐介さんは香奈子ちゃんと同じクラスだったんですよね?太田香奈子…生徒会の副会長だった」
「あ、ああ、うん」
 祐介はどきりとした。
「香奈子ちゃん、どうしてるかな…」
「え?」
「香奈子ちゃんのおばさんもおじさんも、私にも香奈子ちゃんの様子教えてくれないんです。半分あきらめてるみたいで…だけど、私はあきらめません。きっといつか…」
 瑞穂の目に涙が浮かんでいるのを祐介は見た。
 瑞穂は眼鏡を外し、涙を拭こうとする。
 祐介はポケットからハンカチを取り出し、差し出す。
「あ」
「え?」
 ハンカチはぐしゃぐしゃだった。
 祐介はあわててハンカチをひっこめようとする。
 それを瑞穂の手が押さえる。
「…ありがとうございます祐介さん」
 そしてそのぐしゃぐしゃのハンカチで涙を拭った。

 …私はあの娘が嫌いです。
 あの娘はあの人より、あの人と敵対した人を大事にしたから。
 だから私はあの娘が嫌いです。

 祐介は瑠璃子と拓也の病室にいた。
 ぼんやりと瑠璃子の顔をながめながら、祐介はつぶやいた。
「どうすればいいんだろうね瑠璃子さん…」
 祐介が考えていたのは瑞穂のことだ。
 あの昼休みから祐介と瑞穂は度々会うようになった。
 どちらかというと、いつも話しかけてくるのは瑞穂の方だった。
 祐介はそれまでは、あの事件に直接関わった人間…つまり藍原瑞穂と新城沙織の、事件の被害者となった二人だが…にはできるだけ関わらないようにしてきた。
 祐介自身が電波で記憶を破壊したとはいえ、もし万一にも何かのきっかけで事件の記憶が戻ってしまったら…そう思っていたのだ。
 本当は、あの屋上で昼食を一緒にとった日以来、もう会わないようにしよう、とも思ったのだが、しかし人との触れ合いの温もりや心地よさは、抗いがたかった。
 祐介には友人と呼べる人間はいなかった。
 あの事件以後、祐介は確かに変わった。
 人格は安定を取り戻し、以前と比べ社交的にもなったし、落ちつきや深みが加わったように見える。
 だが、周囲の評価はそうすぐに変わる物でもない。
 また、時期的にも受験生だという事もあり、祐介も周囲の人間も新たに友達をつくる余裕が無いという事もあった。
 祐介は依然として孤独だったのだ。
 そのようなとき、祐介の前に再び現れた瑞穂は祐介にとって、大仰な言いかただがある意味"救世主"だったのかもしれない。
 だが、やはり祐介の側には瑞穂の記憶を消したという事実が負い目になっている。
 祐介の側から瑞穂に話しかけるのは、やはりためらわれるのだった。
「瑠璃子さん…どうしたらいいんだろうね」
 祐介は病室のベッドの傍らで、眠りつづける瑠璃子に話しかける。
 いや、返事が無いのはわかりきっている。
 もしかすると祐介は自分自身に問い掛けているのかもしれない。
「もう瑞穂ちゃんと会わない方がいいのは分かっている。もしかして記憶が戻ってしまったら…」
 祐介は続ける。
「瑞穂ちゃんと会いつづけても何も問題が無いのも分かっている。あのときの記憶は、普通の記憶喪失なんかじゃなくて完全に破壊したし、万が一にも戻る事はありえないんだ…」
 内容が矛盾しているようだが、祐介の正直な気持ちだった。
 いや、本当に正直な気持ちなのだろうか。
 祐介は瑠璃子を愛している。
 それは間違いの無い事だ。
 だから、瑞穂と会う事に後ろめたさを感じているのでは無いだろうか。
 つまり、祐介は瑞穂の事が好きになっているのでは無いだろうか。
 瑠璃子は答えない。
 ただ眠るだけだ。

 …私はあの娘が嫌いです。
 あの娘がしたことで、あの人が今も苦しんでいるのがよくわかるから。
 だから私はあの娘が嫌いです。

「祐介、おまえ進路どうするんだ?おまえの親からも聞かれてるんだ。ウチは進学校っていうほどじゃあないが、大学行かないと世間体も悪いそうだしな。ま、俺は大学行こうが就職しようがかまわんと思うんだが、おまえの親父は堅物だしなあ」
 放課後、祐介の叔父でもある長瀬教諭が職員室へ祐介を呼び出して聞いた。
 進路の事は祐介も悩んでいた事だが、さりとてこの叔父に相談してもどうにかなるとはあまり思えなかった。
 この叔父は親類中からあまり信頼が無い。
「…僕はまだ考えてる途中なんです。なりたいものはあるんですけれど、ぜんぜん成績が足りないんで…」
 祐介は苦笑混じりに答える。
「成績かあ。ま、それは今からでもいいからガリ勉するんだな。それでダメなら浪人すりゃいい。ま、おまえの親父は怒るかもしれんが俺が弁護してやるぞ?なんにせよ、おまえがなりたい物になりゃいい。…つまりは進学だな?その言い方だと」
 ほっとした顔で長瀬教諭が言う。
 どうこう言いながら、祐介に進学の意思がある事を知って安心したのだろう。
「ま、どこの大学にするかは早めに言ってくれ。一応、大学毎に対策とかあるからな…って、本当なら担任の仕事なんだがなあ、こういう事は。同じ学校に甥っ子がいるってのも考えもんだな、はっはっは。…ま、A組の藍原の担任よりはマシだがな…今ごろ頭抱えてるぞ」
 祐介は、叔父の口から突然瑞穂の名が出た事に驚いた。
 さらに、瑞穂の担任が瑞穂の事で頭を抱えるなどと言われている事にも驚いた。
 瑞穂は優等生であり、問題を起こすような生徒ではなかった。
「お、叔父さん…瑞…いえ、藍原さんがどうかしたんですか?」
「ん?おまえら知り合いだったか?ああ、しばらく前に、あの太田の事件のときにおまえに情報を教えてやってくれって言ったっけな。思い出した思い出した」
「そんなことはいいから!!!」
 思わず祐介は怒鳴った。
 長瀬教諭は泡を食って、周囲を見回す。
 案の定、周りの教員達が二人を注目していた。
 祐介も、多少冷静になる。
「す、すいません叔父さ、いえ長瀬先生…」
「お、おう。ちょっと…外でよう」
 二人はそそくさと職員室を後にした。
「…ここならよかろう」
 二人がやってきたのは屋上である。
「で、どういうことなんです?藍原さんがどうかしたんですか?」
「なんかムキになってるな、おまえ。まあいいか。藍原、学校やめるんだそうだ。藍原は成績もいいし、担任の杉本先生も惜しがって必死に慰留してるんだが、本人の決心が固くてなあ…親も承知してるって話だし。…だけど多少は噂になってるぞ?おまえ全然知らなかったのか?まあ、おまえ友人とか多くなさそうだしな…ありゃ?」
 祐介は既に屋上にいなかった。
 階段を駆け下りる音だけがその場に響いていた。

 …私はあの娘が嫌いです。
 あの娘がしたことがどんなに仕方なくてしたことでも、絶対に赦せないから。
 だから私はあの娘が嫌いです。

 祐介は瑞穂の教室に行った。
 瑞穂はいなかった。
 生徒会室に行った。
 瑞穂はいなかった。
 祐介は思いつく限りの場所を探し回った。
 瑞穂はいなかった。
「もう帰っちゃったのかな…」
 祐介は自分の教室の、自分の席にへたりこんでいた。
『瑞穂ちゃんの家に行って、話しを聞いてみよう』
 祐介は、生徒会室で生徒会名簿を借りようと立ち上がった。
 瑞穂の住所を調べるつもりだ。
 祐介が瑞穂に対し、積極的に自分から働きかけようとしたのはこれが最初ではないだろうか。
 もっと瑞穂と積極的に接するべきではなかっただろうか。
 そして、瑞穂が悩んでいるならその力になるべきではなかっただろうか。
 瑞穂の記憶が戻る可能性に対し臆病になりすぎて、瑞穂を救える機会を逃してしまったのではないだろうか。
 瑞穂は今まで祐介を孤独から救っていてくれたというのに。
 これでは瑠璃子の時と同じではないか。
 あのときも、瑠璃子は祐介を救ったのに祐介は瑠璃子を救えなかった。
 そう思うと祐介の胸は痛んだ。
 ふと、窓の外を見ると、真っ赤な夕焼け空が広がっていた。
 夕焼けを見ると、あの事件のあったあの日を思い出す。
 屋上で真っ赤な夕焼けを背に、祐介を待っていた瑠璃子。
 赤く染まった世界。
 小さく笑みを浮かべる唇。
 そして焦点の合わない瞳。
『呼んでいる…』
 何かが祐介を呼んでいた。
 何か、ではなく誰か、だ。
 微かな電波に乗って、あたたかな想いが祐介を呼んでいた。
 哀しい想いが祐介を呼んでいた。
 そして力強い想いが祐介を呼んでいた。
 祐介はその電波に魅かれるように、階段を上っていった。
 屋上の扉に手をかける。
 その扉を開く。
 そこは、あの日と同じように真っ赤に染まっていた。
 そして、そこにはあの日と同じように一人の少女が立っていた。
「瑠…」
 少女が振り向いた。
 眼鏡の奥で、可愛らしい目が笑っている。
「瑞穂ちゃん…」
「やっと来てくれた…祐介さん」

 …私はあの娘が嫌いです。
 あの娘が私に荷を負わせて行った事は、あの人の思いやりをだいなしにしたということだから。
 だから私はあの娘が嫌いです。

「瑞穂ちゃん…君は…」
 祐介の声に、瑞穂は微笑みで答える。
「聞いたんですね?私が学校やめること…」
 祐介は頷く。
「…どうして?どうして学校やめるんなんて言い出すんだい?何か悩みでも…」
 祐介は気付いた。
 瑞穂の右手がときどきそのお腹をなでさすっているのに。
 もしや、と思う。
 それを確かめるのが恐い。
 だが祐介は聞いた。
「…僕の?」
 瑞穂は頷く。
 祐介には二重の衝撃だった。
 瑞穂のお腹にいるのが、祐介の子供であるということ。
 そして、それを瑞穂が肯定したという事は、あの事件の記憶を…月島拓也に肉体を操られた祐介が、瑞穂を汚したときの記憶を瑞穂が持っているということ。
 祐介はしばらく声が出せなかった。
 瑞穂が微笑みながら話す。
「でも、勉強をあきらめたわけじゃないんです。私にはやりたいこともありますから。だから、大検を受けて、大学の受験資格をとります。この子が産まれてからですけどね。もう、4ヶ月目に入っちゃいましたし…それに、最初からこの子をどうこうするつもり、ありませんでしたし。お母さんもちゃんと説得しましたから…」
 祐介はかすれた声を、やっとの思いで口から搾り出した。
「…瑞穂ちゃん、あのときの記憶を取り戻したんだね…」
 だが、瑞穂の答えは意外な物だった。
「いえ、憶えてるわけじゃありません」
「!?」
 祐介は一瞬わけがわからなかった。
「だけど、あのときに何があったのかは知っています…」
 瑞穂は祐介に歩み寄り、そっと祐介の頬をその両手ではさむと、その唇に口付けをした。
 瑞穂の閉じた両目から涙が流れる。
 ちりちりちりちりちりちり…。
 祐介の頭の中に、電波が飛びこんできた。
 人間が無意識に出しているような微かな電波ではない。
 拓也の突き刺さるような鋭さを持った電波でもない。
 祐介自身の、全てを押し流すような怒涛のような電波でもない。
 だが祐介はこれに近い電波を感じたことがあった。
 弱々しいけれど、包み込むような優しい…瑠璃子の電波だ。
 だが、少し感触が違う。
 そしてこの電波は、目の前の少女から発せられていた。
『瑞穂ちゃん…』
 瑞穂の電波は、祐介の脳の最奥部まで達し、そこに何かの映像を描き出していた。
 声が聞こえる。
「藍原さん…だね」
 もう深夜だ。
 日付がもう変わっているかもしれない。
 瑞穂が家のドアを開けると、そこに立っていたのは自分と同年代の少女だった。
 どこかで会ったような気がする。
 瑞穂は思い出した。
 この娘は月島瑠璃子。
 元生徒会長で親友太田香奈子の恋人でもある、月島拓也の妹だった。
 だが、それだけではないような気がした。
 瑞穂はこの少女と、もっと深い所で関わっていたような気がした。
「つ、月島さん…でしたよね。こんな夜分遅く、何か御用ですか?」
 瑠璃子は瑞穂に問い掛ける。
「藍原さん…長瀬ちゃんのこと、好き?」
「えっ?」
「長瀬ちゃん…長瀬祐介」
 長瀬祐介。
 聞いた事のない名前。
 けれども、何か暖かい響きを感じる名前。
 なぜだろう。
 その名前を聞くと、胸が暖かくなる。
「…そう。わかったよ。じゃ、長瀬ちゃんのこと、お願い。長瀬ちゃんを助けてあげて」
 瑠璃子はそう言うと、いきなり瑞穂の唇を奪う。
 瑞穂の頭は一瞬真っ白になる。
 その頭の中に、痺れるような感覚が走る。
 ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり…。
 この感覚はどこかで憶えがある。
 どこだったかは思い出せない。
 だけど、身体が憶えている。
 沸き起こる恐怖と憤りのイメージ。
 必死に抵抗する。
『だめ…落ちついて受け入れて』
 頭の中に瑠璃子の声が響く。
 どこか哀しげで儚げな声が。
 おもわず抵抗を弱める。
 視界がひらける。
 そこには泣いている瑠璃子がいた。
 声が聞こえる。
『ルリコアイシテル、ルリコアイシテル、ルリコ…』
 それは瑠璃子の記憶だった。
 兄である拓也に受けた傷。
 そして狂気に堕ち、暴走する兄。
 その餌食になる香奈子たち。
 兄を止めるため助けを求めた祐介。
 祐介の心に刻まれた苦痛と孤独。
 祐介が見た物を、瑠璃子自身も祐介の心から受け取ったこと。
 沙織や瑞穂自身が酷い目に合うところも、祐介自身の視点から見た。
 床に力なく横たわる瑞穂自身を、瑠璃子の視点で見た。
 そして最後の対決。
 祐介が瑠璃子を胸に抱き、その心の中の爆弾を炸裂させて拓也の精神を粉々に粉砕するのを瑠璃子の感覚で感じた。
 そして、つい先ほど。
 拓也を背負って自宅まで送り届けた祐介と口付けをして、別れてきたのも見た。
 そのときの瑠璃子の心も見た。
『何故!?』
 瑞穂は叫んだ。
『何故あの人を捨てるんですか!?あの人は、あなたのために…あなたのために戦ったのに!』
 瑠璃子は答える。
『お兄ちゃんを一人にできないから…』
『なら、あの人は一人でもいいんですか!?あの人は…あの人は寂しくてもいいんですか!?』
『でも…もう決めたの。だから長瀬ちゃんをお願い。藍原さんなら…長瀬ちゃんを助けてくれるから…でも、お兄ちゃんには誰もいないの。誰も…』
『でも…あなたはあの人を好きなんでしょう?愛してるんでしょう?なのに、なんで行ってしまうんですか…あの人がかわいそうです』
『お願い…長瀬ちゃんをお願い…』
 瑠璃子の声が遠くなる。
 気がつくと瑞穂は自分の家の玄関先で座りこんでいた。
 瑞穂の周りには電波があふれていた。
 今の瑞穂にはそのことが良くわかる。
 その電波に、深い哀しみと苦しみと、そして愛があふれていることもわかる。
 瑞穂の両目からは、とめどなく涙が流れていた。

 …私はあの娘が嫌いです。
 あの娘が見ているのはあの人で、あの人が見ているのはあの娘だから。
 だから私はあの娘が嫌いです。

 頭上に月が出ていた。
 瑞穂が祐介の身体を抱きしめている。
 祐介は、瑠璃子が瑞穂に何をしたのかを理解した。
 拓也の元へ行ってしまう前に、瑠璃子は祐介を託せる女性として瑞穂を選んだのだ。
 そして、自分が見た事、感じた事全てを瑞穂に見せ、全てを委ねたのだ。
 瑞穂はだから祐介の所に来てくれたのだ。
 祐介を孤独から救い出すために。
「ごめんよ…あと、ありがとう瑞穂ちゃん」
 祐介は瑞穂に謝った。
 なにか、詫びなければならないように思ったのだ。
「わたしこそ、ごめんなさい祐介さん。本当は、もっとはやく祐介さんとお話したかったんですけど…勇気が出なくて…決心が付いたのが最近の事だったんです。祐介さんが苦しんでるの、私知っていたのに…」
 祐介を抱きしめる瑞穂の腕に力がこもる。
 祐介も、瑞穂を抱きしめた。
 そっと柔らかく。
「瑞穂ちゃん…僕も学校」
 やめるよ、と言おうとした祐介の唇を、瑞穂の指が押さえた。
「だめですよ祐介さん」
「だけど、君だけ学校をやめさせるわけには…僕も学校をやめて働こうと思う。そして、君が大学に行くのを手伝わせて欲しいんだ」
 瑞穂は首を横に振る。
「そうしてもらっても、私は嬉しくありません。私が学校をやめようと決心したのは、それが一番いい手段だと思ったからです。でも、もし少しでも私の事を思ってもらえるんなら、祐介さんはこのまま学校を卒業してください。そして進学してください」
「だけど…」
「私は別に、祐介さんの犠牲になるつもりも、お腹の子の犠牲になるつもりも無いんです。たしかに多少時間はロスするかもしれませんけれど、そんなことは気になりません。だけど、祐介さんは私と子供の犠牲になろうとしてます。それは違うと思うんです」
 祐介には返す言葉が無い。
 そして、瑞穂がこんなに強かったという事に感動さえ覚える。
 確かに、祐介が犠牲になろうというのはある意味傲慢な考え方だろう。
 そして祐介が犠牲になったとしても、瑞穂の性格では喜ばない…いや、かえって瑞穂を苦しめてしまう結果になるだろう。
「わかったよ瑞穂ちゃん」
 祐介は微笑んだ。
「僕はこのまま在学して卒業するよ。だけど、その他の事は二人で考えようよ。どうすれば、二人とも幸せになれるかをね。だれが犠牲になるとかじゃなくてさ」
「はい」
 祐介と瑞穂は、並んで階段を降りて行った。

 …私はあの娘が嫌いです。
 あの人があの娘を見る目がとてもやさしいから。
 だから私はあの娘が嫌いです。

 祐介と瑞穂は瑠璃子と拓也の病室に見舞に来ていた。
 眠りつづける二人は、なんら変わるところはない。
 いや、多少痩せたかもしれないが。
 祐介は、瑠璃子の顔をみながら、あの後の事を考えていた。
 瑞穂はその後高校を中退した。
 そして、自宅で約半年後の出産の準備をしている。
 無論、大検を目指し勉強も頑張っている。
 祐介は、叔父である長瀬教諭に瑞穂の妊娠と、自分がその子供の父親であることを告げ、協力を頼んだ。
 長瀬教諭はひどく驚いたが、祐介と瑞穂の話を聞き、煙草を2カートン灰にしてブランデーを2本空にしてから、学校側には内緒で色々と工作に走ってくれた。
 祐介はとりあえず子供を認知して、高校にはなにも知らせぬまま、将来大学に入学して様々な面倒がなくなってからあらためて入籍するという事に長瀬家と藍原家の間で話し合いが決まった。
 もっとも、そう話が決まるまでにはかなり揉めたが。
 祐介も、父親と殴り合いまでして、ボロボロにされた。
 以前の祐介であれば、殴り合いなどは絶対に避けただろうが。
 それに、問題解決するのに結局電波の力に頼らなかったのも、祐介の内面の成長と充実をあらわしているのかもしれない。
 ちなみに長瀬教諭もとばっちりを食らって、目の周りにパンダ状の痣を作ったが、なんとか事が収まったのを見て笑っていた。
 祐介の成績はその後急上昇した。
 瑞穂の力が大きかった事は言うまでもない。
 国立大学の医学部も、ランクが低い所であればなんとかボーダーライン上にさしかかる所までは成績を持って来ることができた。
 もうしばらくこの調子でいけば、安全圏とまではいかないかもしれないが充分合格が見こめる所まで持っていけるだろう。
 その結果を見て、祐介の父親の態度も急激に軟化した。
 今では大きな問題はほぼ片付いている。
 祐介はふと笑みをもらした。
 瑞穂がそっと祐介に寄りそう。
「…瑠璃子さん、僕のことは心配しないでも、もう大丈夫だよ…」
 祐介は瑠璃子に話しかけた。
 瑞穂は、少し複雑そうな表情でそれを見ている。
「どうしたの?」
「…私、瑠璃子さんの事は嫌いです」
 祐介は驚いた。
 瑞穂の気持ちは分からないでもないが、そういう事を口に出すとは思っていなかったから。
「…まあ、瑠璃子さんのために瑞穂ちゃんが色々苦労したのはわかるからね…」
「ちがいます」
「?」
 瑞穂は答えた。
「…ちょっとした焼餅です。私だって、女の子ですから」
 そして瑞穂は祐介の頬っぺたを、思い切りつねった。


あとがき

 このSSは、雫のTRUE END後を題材にして書いています。
 既に手垢が山ほどついた題材ではありますが、それでも好きなもので、おもわず書いてしまいました。
 ちなみに新城沙織ちゃんは作者の好みではないので名前しか出てきません。
 ファンの方々、どうも申し訳ありません。
 それと、私は読んだ方達の感想に飢えております。
 もしも感想を書いていただけるのでしたら、mail To:weed@catnip.freemail.ne.jp(スパム対策として全角文字にしていますので、半角化してください)へメールで御報せいただくか、あるいは掲示板へよろしくお願いします。


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