芥川龍之介 「トロッコ」より

国語のG2教材にある「トロッコ」の文面より、良平少年が移動した行程を景色から調べてみました。
小田原・熱海間に軽便鉄道(小型で幅も狭い鉄道、以前は、久留米・八女間にもありました。)の敷設工事が始まったころのお話です。
何回か読んだことはありますが、今回は、8歳の良平君が、トロッコに乗って、どこをどう行って、どう帰ったかを文面から追跡してみようと思いました。

2月初旬、日没は、早いです。暗くなって泣きながら帰った足取りを追ってみました。

いつかゆっくり行きたいとは思っていましたが、3月、研究大会のため、横浜に行くので、その沿線を通ってみようと思いたちました。

これは、人車鉄道から、軽便に移行するころの話で、「熱海鉄道(元、豆相
ズソウ人車鉄道)」と言って、1923年関東大震災で全線不通になり翌年全線廃止され、現在の東海道本線に至っています。

良平の足取りーー

良平の足取りを文の中から拾い出してみた


豆相人車鉄道

小田原ー○ー○―○ー根府川ー○ー○ー○ー(岩村)ー真鶴ー○ー湯河原――熱海

母親と暮れに「岩村」に行ったとあるが、今は、岩村はないが、真鶴近くに、岩郵便局や岩ICがあるので、そのあたりであろう。(真鶴に行ってみて、真鶴あたりは急勾配であったのがわかった。)
この作品にはモデルがおり、湯河原出身のジャーナリスト力石平三が幼年時代に人車鉄道から、軽便鉄道への切り替え工事を見物したときの回想を記した手記を、芥川が潤色したものである、と説明されている。


小田原に行きました。小田原スタート

従姉の家に一泊して、大船で乗り換え、東海道本線熱海行きで、小田原に出かけた。
小田原城を抜けて、途中「清閑亭」という福岡黒田家ゆかりの黒田長成の別邸から小田原の海が見えた。
そこから小田原人車鉄道の道を歩くが
小田原駅跡の石碑が見つからず、行ったり来たりした。
昼も食べず、栗パンの店に入り、人車鉄道のことを聞いたが、若い店員さんで、知らなかった。

      
   あちこちに町名を書いた石碑がある。

調べていると、真鶴の海辺に、「中川一政美術館」を見つけ驚いた。(1989年開館)

というのも、知る人ぞ知る石川県松任市(現白山市)に同じ美術館があり、金沢に住んでいるとき何度か行ったことがあるからだ。(1986年に開館)
なんと、母親の出身地が松任だとのことで、何かご縁を勝手に感じてしまった。
中川一政(1893〜1991)東京本郷出身、岸田劉生に見いだされて、画家を志した

「中川一政美術館」も目的だったので、2:10小田原発の電車で、真鶴へ。すぐにバスが待っていた。
ケープ真鶴行のバスで、美術館へ。バスは、狭い曲がりくねった道を進む。。魚の干物を作っている店や、魚料理店が数軒並ぶ。かなりの急勾配。私ひとりが乗っている貸切状態。
帰りのバスでは、電車に間に合わず、タクシーを呼ぶことにして、ぎりぎりまで、絵を鑑賞。
スペインのマジョルカ壺に生けてあるばら、ひまわりの画が有名。
駒ケ岳も100号のおおきな力強い絵だ。
(マジョルカはテニスのナダルの出身地なので、興味がわき尋ねた)
壺は、イタリア製だが、マジョルカから、海外に輸出されたので、マジョルカ壺というとのこと。そこの受け付けの女性が、「ここから山際を歩くとトロッコの舞台のミカン畑の面影のある場所がありますよ」と。さすが、地元。トロッコの描写をすらすらと説明してくれた。共通口がありうれしかった。

                      
ひまわり     さすが母親の里に近い若狭の海の魚

  岬の中川一政美術館  お林展望公園には、
石原軍団が「西部警察」で使用した後、寄贈した消防車が、
いつでも出動できるように配置されている。        

          
               駅舎の跡が駅の左にあると聞いたので、15:43の渋谷方面電車がくる直前に見つけた。
                          真鶴駅の端に人車鉄道の立て看板をやっと、見つけた。
                          時間切れで、湯河原〜熱海は、次回にまわすことにする。



有島武郎「小さき者へ」(I2−101)

「お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ちあがった時ーそのときまでおまえたちのパパは生きているかいないか、それはわからないことだがー、、、、、」

と先を暗示するようなことを書いているのが気になるが、、、、、。

お前たち(3人の息子たち)の母親(有島の妻)は、結核で、27歳でなくなっている。

有島武郎は、学習院卒業後、札幌農学校(北大)に行き、卒業し、渡米。

札幌在住時代の有島が住んでいた家が札幌の「芸術の森」に移築されていて、私が、札幌にいた時、一度訪れたことがあるが、そこには、家族の写真があり、その中に写っていた息子たち、長男(森 雅之)とあり、母たちの時代のハンサムな俳優で、有島の子供だとわかり、驚いた。
                

また、次男敏行は、石井好子さんと婚約していたとあり、2度びっくり。
うちの夫の会社の上役が石井好子さんのご主人であったので、身近に感じてはいたが、上役が亡くなった時の香典返しは石井さんから送られたものであるから、ずっと大事にとっておいた。

有島の弟に、画家の有島生馬 作家の里見 ク、妹愛の孫に作曲家の山本直純がいる。親族みな、すごい家系である。


また、岩内に、「木田金次郎美術館」があるが、札幌にいるとき訪れたことがあるけれど何もないさびしげな、岩内港そばに近代的な建物がある。

木田金次郎とは、北海道の人間でなければ、知らない人も多いが、「有島の「生まれ出づる悩み」もモデルである。

北海道洋画壇を代表する作家の一人。1893(明治26)年岩内に生まれ、漁業を続けながらも、絵画への情熱を育み、有島武郎との運命的な出会いにより、その生涯を岩内で過ごし、絵筆を握ることを決心。

やがて有島が、木田青年との交流を小説にし「生れ出づる悩み」として出版すると、そのモデル画家として知られるようになる
      
   金次郎美術館

太宰治「走れメロス


中学2年生が、
一般財団法人 理数教育研究所が開催した「算数・数学の自由研究」作品コンクールに入賞した「メロスの全力を検証」に、
メロスは、走っていなかったという検証が、話題になっている。
10里を3日かけて、走ったとあるが、走らず、歩いていると。その行程を図示している。
 しかし、これは、太宰文学だよ。数学の文章題じゃない。味もそっけもない。
名作を壊していて、太宰が気の毒。
名作は名作。
夢、イメージが文学。
ここにも行ってみたいと思わせる。
 その、検証にそれに対してのコメントが面白い。賞賛のコメントもあったが、同じ気持ちの人のコメント。
「現代に置き換えるならメキシコや南アフリカを40qも走れるかって考えると良いよね」
「命がけっつうか、絶望的な行程だわな。
そんな絶望的な事をしてのけるから走れメロスは作品として成立してる」

「そもそも、小説には「山越え、十里は離れた」とは書いてあるけど、「メロスは直線を10里移動した」とはどこにも書いてないんだよね・・・」「山賊とも戦って、体力消耗してる。」

「直線距離十里と山々を超えた十里が同じ距離だと思っているのか。
しかもイタリアの山が何千メートルあると思ってるんだよ。」

「山道で時速4kmってめちゃくちゃ早いぞ
例えば、富士山登山だと往復15kmくらいで目安時間が9時間くらい」



北鎌倉 梅の名所 東慶寺

小田原への前日に雨の中北鎌倉を訪れました(3/13)



鎌倉尼五山で唯一現存する寺。現在は、男僧寺院。弘安8年(1285)北条時宗の妻覚山尼[かくざんに]が創建した臨済宗の寺。

東慶寺は今から約720年前、弘安8年(1285)に北条時宗夫人の覚山志道尼が開創。

 

封建時代、女性の側から離婚できなかった時代に、当寺に駆け込めば離縁できる女人救済の寺として明治に至るまで600年の永きにわたり、縁切りの寺法を引き継いできた。

山門


帰りに、石段脇の素敵な喫茶「吉野」で、一服


山門をくぐると白梅、紅梅が見事。   

 
   本堂  如来様に拝礼
  





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