2008/3/1

2月29日朝、St.マリアを9時に訪れて、荷物をまとめて、介護タクシーに母を乗せて、私は、あとをついて、15分ほどのKリハ病院に転院した。
本人は、どうなっているのか、身に起こった変化は、理解できにくくなっている。

ひとまず、302号室に入り、落ち着く。
大腿骨骨折のレントゲンを撮りなおして、医師の説明があった。多くの事例を説明しているからであろうが、感情を入れずに淡々と話す女医さんを見て、笑ったこの方の顔は想像しにくかった。

介護士のきまりチェックも奇妙に聞こえた。
質問のテンポが速く、母には、理解しにくいだろうと思う。コレが、常人なら、すぐ返事ができるのだろうが、いたって、遅いから、コレも点数は、低いだろうと思ったが、日ごろの会話では、こんなにわからないことはないのだが、環境が変わったのと、まだ、信頼の域に達していない介護士の話を聞き取れるほどの余裕はないようだ。
二人のつじつまの合わない会話をカーテン越しに聞いていた。
終わって、私が立っているのを見て、少し驚いたようだったが、母の回答の通訳を少ししただけで終わった。

数字を逆にいってください。3桁はどうにかクリア、立派。4桁は、私でもできないわ。野菜を10種類もいえないわ、と思った。4桁なんて、川島隆太先生並みだわ。とあとで私の話を聞いたおがちゃんが言った。
野菜、人参、ラッキョウ、キャベツ、遅れて、トマト、唐辛子と言った。野菜嫌いの母には、難しい。ジャガイモ、たまねぎ、レタス、ブロッコリー、大根、さといも、かぼちゃ、まめ、アスパラ、いまなら、どんどん出るけれど。

一日目、ひどく疲れたようだった。

3/4

老母は、どうしてここに来たのかが、まだ、認識できていないようだ。
おそらく、大腿骨の骨折が、人様の骨折より軽いというか、骨折の部分に痛みを伴わないずれ方をしたようで、レントゲンを見てもわかりにくいが、折れて、横に行かずに骨の上の部分にスポット下が入った状態だそうだ。
痛みがないから、動けないのが不思議なようで、杖がなくて、動けない、という。

3/12

治そうと思うと気分も前向きになり、治るものである。
治す気がなかったり、くよくよしていたら、病は気からのとおり、治るものも治らない。
年をとるとよいふうには考えないが、気持ちがないとよくならない。
湯川れい子を久しぶりにTVで見た。大病をしたが、治そうと思ったという。
「五たい」
1)あ、、会いたい人に会いたい 2)い、、行きたい所に行きたい 3)う、、
4)え、、5)お、、おいしいものを食べたい
と3,4は忘れたが、欲や希望、目標があると人間前に進む。
いつまでもそうありたいと思う。
としよりにいっても、なぜか通じない。

3/13

主治医の先生が、私がナースセンターの前を通っていると、こちらに気づき、にこっと笑って近づいてこられた。
「お世話になります。」というと、「いえ、かなり進んでいますね。この前も診察していたら、『先生はどこですか』といわれました。『私ですよ』といったら、『そうですか』といわれて、直前の話を記憶していなくて、プライドだけは高いのでね。」と。「入院のときの申し上げたように(娘さんの顔がわからなくなります。といわれたこと)なりつつありますね。」とニコリといわれたような気がした。
仕方がない。
老母「今からどこに行くの?」私「教室に行くよ」
老母「どうして今から?変わったの?」と。2時半だったが、夕食食べたといったので、時間がずれていた。いま、昼ごはん食べて、お昼寝タイムだから、周りは寝ているので、静かにしてないと、言ったが、わかっていない。どうしてこんなことになったのかわからないと言い出した。
あしの骨を折ってるのよというが、痛みがないようなので、わからないらしい。
11年前、札幌で手首を折って、痛みに弱いので、6時間おかず、薬を飲みたがり、看護婦さんを困らせたのに、折ったことを覚えていない。どの時期を覚えているのかがわからない。入院初日に介護士から「どこから来たか」の質問に「ふくい」といった。52年〜56年に福井に住んだが、、。

3/17

もうすぐ、転院して、1ヶ月だが、回復しているのかどうか、わからない。
頭だけは、進んでいるというのか、後退しているというべきか、、。
客観的に、介護士がみるのと身内が見るのと違うのがよくわかる。
またもや、転院日のやりとり。
5品を見せて、覚えさせるアレ。
時計、さじ、歯ブラシ、エンピツかボールペン(わたしは見ていないからわからない)、鍵を見て、隠して、何がありましたかと聞かれ、時計、、、さじ、、、、つまようじとやっとゆっくり言ったら、「これは、つまようじちゃあいわんですよ」と。「つまようじじゃないかね。」と老母。「これは、歯ブラシですよ」と介護士。そしたら老母の跳んだ返事「最近コレは、歯ブラシというのですか?」
それに「コレは、昔から歯ブラシちゅうですよ。」とムキに答える介護士。
だが、コレは、家族には、わかったのである。
老母が歯間ブラシを爪楊枝の代わりに先日使っているのを見た。

速いテンポで、どんどん聞かれたら、老人は、話についていけてないのもわかった。果たして、介護度は??

また、先日、食事の後に、公文に似たことやっていたが、なんとレベルの高いこと。19+2= をまちがえていたが、問題数も多い。

四字熟語も年寄りには、むずかしい問題。
美人薄命、百発百中、、など好きな人は、好んで書くが、、、。
「知らんですか?」「聞いたことなかですか?」「なか」とそのお年寄り。
ちょうどのレベルをすると、脳は活性化する、ドーパミンが出るというのは、年よりも同じだろうが、、、。
ただ、暇つぶしにやっているだけ。脳の活性化までは行っていないのが現状。
脳の動きを維持する道はないものか。寿命だけ延びても、、、。

3/31

老母がこのごろ、逃がしてもらったとか、殺されそうとか口走る。どうも元気のよい大柄な、転院したときの介護士のことを言っているようだ。蹴られるとか言うが、人手も不足しているだろうし、ベッドにぽんと置くときが力が強くそう感じているのだろう。人は、あの人苦手と思うと、相手にも通じるものだ。きっと悪態ついているのだろうとも思うが、患者に怖がられるというのは、医業に携わる人にとって、プラスではないであろう。インフォームドコンセントをうたっているくらいであるから。
具合の悪い、先の希望が見えない者に、元気を取り戻させるのは、むずかしい。

4/8

医師の面談あり。4/30。20/30以下は、痴呆に認定される。
野菜10種類、4桁を逆に言えないなあ。私も痴呆に入りそう。
テンポが速い。あれで、認定されるのか。全国共通とのこと。
食卓での暇つぶし遊びも、よくできたと褒めるような簡単な問題が望ましい。
レベル高すぎ。介護士が、4元1次方程式を解くレベル。(できる人はできるレベル。)できたら、褒めてもらいたいものだ。

医師に今までの様子を話してみた。老母が、勝手に歩いて、怒られているのだそうな。
注意されても認識が薄いと勝手に行動する。どうにもしようがない。

職員が、力が強いからか、左手首にうっ血の跡があり、痛々しい。
4日目になって、初めてレントゲンを撮った。10年前の骨折の古傷か、骨のはく離が見られる。週末に整形医の診断を受けることになった。

4/12

ゆっくりなら、介助つきで歩けるようになった。8週間かかる。回復期にはいり、5週間である。92歳なら、早いほうだろう。
SS有料施設から、戻ってきてよいという許可が出た。
やっとだ。その代わり、杖ではなくシルバーカー(前にかごのある手押し車)を使用するのが条件で、すぐに注文をした。
また。個室に戻るのであるから、また、骨折しても施設には責任はない、ということでお願いした。
家にいても骨折するときはするから、やむをえない。
無事であることを願うだけだ。

4/26

手のレントゲンを撮ったら、あたらしい骨折はなかった。(古い骨折の跡は見えた。)
「いつ出られるのかね。あんたは、暢気でいいね。ここを死ぬまで出られないよ」と悲観していた。「長くいられなくて、追い出されるのよ。」というがよくわかっていない。今年度から更に患者に厳しくなっている。
リハビリ時期が、短いと、リハ側も効果を出そうと焦るだろうから、患者と制度の間に挟まれるだろう。

4/26

 注文したシルバーカーが来て、これからは、これを使い歩行する。歩行の手助けとなるベビーカーみたいなもので、練習を始めたが、これまた「機械はわからん、覚えられん」と悲観している。「覚えると出られるから」と励ますが、なかなか、、、。
 SSのスタッフの方が来て下さって「早く帰ってきてね」と励ましてくださって、やっと、前が見えてきたようで、月曜の退院を待っている。
SSに冷蔵庫などの片付けに行った。もう杖は使えないから、コレも片付けた。
 K病院では、洗濯をしに行っていたが、SSにもどると、介助はしてもらえるが、自立生活をしなければならないけれど、3ヶ月前の状態には戻れないだろう。
「洗濯は、また自分でやるのよ」というと「できるよ」と。
 元気になってきたら、今度は、自分のお金のことが気にかかってきている。
あれこれ説明をしても、その場だけの記憶。わたしに、悪態をついてもその時だけの記憶だから、腹を立てる自分があほみたい。
だんだん難問が出てきそう。

4/28

朝、早く荷物をまとめに行き、10時半にSSからのお迎えがきて、SSに着く。仲良くしていた人や、職員に「よかったですね。お帰りなさい。」といわれ、「帰ってこられて、夢みたい」と喜んだ。気分が明るくなれば、それでよし。M先生に生活できるか、様子見て、判断をすると言われたが、迎え入れてくださって、感謝。

夜中にトイレに起きたら職員さんにわかるようにマット型のセンサーがすえてあり驚いた。初めて見た。その上に立つとピーとなる。
よく考えたものだと感心した

5/11
朝、母のところに、小さなカーネーションをアレンジして持って行った。
何も言わず。きれいねと言わず。
決まって、第1発は、愚痴。
先日投書に103歳の姑が何事にも興味があって、前向きで、おしゃれして、お化粧して、携帯を使う、いつまでも元気でと書いてあった。
見習いたい人で、なかなかいないが、前向きの人のほうが、人生2倍楽しめて、得だし、かわいがられる。
あまり、苦労しなくて思い通りに来た人は、思うようにならないと、愚痴をこぼすとも聞いた。
その種の人は、こんなこともあらあナと思えないみたい。思うようにならないと、怒る、ぐちる、嫌われると来ている。
どっちを取るか、その人の今までの生き様に寄るようだ。
ものごとをラッキー、美味しい、楽しい、素敵、きれい、楽観的に見るほうが、ラク!

5/21

「このごろ、おかずを残すようになりました」と、職員の方に言われました。なぜかといえば、リハ病院では、出されたもの以外は食べられなかったので、おかずを全部食べていたのに、SSにもどってからは、好みの海苔や、漬物を食べだしたら、おかずを残すようになったそうです。
せっかくのよい習慣が、壊れてしまいました。
水曜にお買い物ツアーでも、皆さんもあれこれ買って来ているので、一人だけ買わないわけにもいかないだろうし、難しいものです。

7/13

このごろ、怒ったり、興奮することが少なくなったようだ。
丸くなったというか、覇気がなくなった。
すきな野球、バレーボールを真剣に見ていたが、、、。
もうすぐオリンピック。以前のようにテンションあげてみてほしい。
年をとるということは、なにごとにも興味がなくなるのか。
新聞も、日付しか見なくて、そのまま捨ててある。読むことが億劫になっているようだ。

8/9

病院から施設に戻って、はじめは、環境変化に混乱することもなく、スムーズに生活を戻していたが、1ヶ月過ぎたころから、身の回りのことが少しずつ崩れ始めてきた。シルバーカーを進行方向と反対に握って歩行していたり、6月から新聞を取ってはいたが、まったく読まずに積み重ねるようになったり、記憶力の低下が目立つようになってきた。
私がいそがしくて夕5時半までに行けないときは、翌日行くのだが、以前なら、遅いとか、待っていた、話があるとか文句を言っていたのだが、言わなくなった。
時間の経過の認識が、薄れてきている。今月93歳、りっぱ!
公文の学習療法の話を聞いた。1番乗りで、生徒にさせなくちゃ。
ストップ・ザ・ボケ。『施設側も本人のためだけでなく、自分達もラクになる』と。早く実現してほしい。

9/4

NHKのためしてガッテンで、アルツハイマーは20年前から脳に変化が表れるとのことで、発病は、20年後ということだ。アルツの人は、海馬が随分縮んでいるのがわかる。
防止1:有酸素運動を週2回する。
防止2:人と話をする。
防止3:生活習慣病にかからない食事をする(糖尿病の症状/高血圧、高コレステロール、肥満に注意)

効き目のある漢方薬がわかった。「抑肝散」。気持ちのコントロール、イライラに効くそうだ。

仲のよかった友達と気持ちの行き違いがあって、口を利かなくなって、急に一人になったようで、不安になっている母を見ていて、うなずける。ここ1ヶ月、急にひどくなっている。かといって、その人のところに話しに行くことはしない。

昔から、しゃべることを好としなかったので、楽しく談笑することがなかった。
同じ一生楽しくないじゃないといってもそれでよいといってしゃべることを軽蔑してきた。
何十年も、偏食、高血圧、肥満はそのまま当たっている。(痩せたのは、ここ数年)
まもなく介護認定更新の日が来る。一人では、危なくて、見守りを必要とし、食事、排泄がままならなくなってきているので、介護3から、進むであろうか。

9/12

新聞に「ものの見方を変えよう」と題して、うなずける記事が載っていた。
よくいやな目(人)にあう人には、共通点があるそうな。

共通点は、懐疑的、悲観的、まじめすぎる、自信がない。(ボケ促進)
反対に、何でも信じて、いい加減で、適当で、いつでもはっぴーに暮らせる人は、あまりいやな目にあわないか、あっても気づかないかだと。

同感、同感!! 
わたしも、暑い、熱い、甘い、辛い、堅い、きつい、つらい、痛い、というマイナスイメージで形容詞を連発する人は、好きではない。先日も友達とその話しをしたところだった。

同席していて、こちらも、楽しくないからだ。話の内容が、ほとんど、愚痴になっている。

一度しかない人生、いやなことばかり考えて終わるのは、もったいない、ソンだ!
同じアホならおどらにゃソンソン、と思ってくる。

ボケ防止のひとつに、やはり、たのしく会話をすることというのがあるが、ホント。
性格革命は、早いがいいな!

10/5

介護認定が来年の1月末に更新であったが、あまりの機能変化に戸惑う施設の方から、早いけど受けるように言われ、先日、市の健康福祉部の方にお会いした。
名前、年齢、今日は何日と聞かれ、日ごろの生活状況を尋ねられて、かなり、認知症が進んだようであったが、例えば、部屋を間違えて、他の方の部屋に入り、入れ歯をはずして、コップに入れていたとか、一人で、着替えが困難だとか、次に何をしてよいかわからないとか、日ごろの生活レベルが低下した様子を伝えていた。

区分変更の結果が届いて、こわごわ、通知表を見るように開いたら、「3」のままで、驚いた。「3」にもかなりの幅があるのがわかった。限りなく「4」に近い「3」なのだろう。
このところ、急に、食い止められないような速さで、心身ともに衰えているのが怖いほどにわかる。

昨日は、施設SSのお祭りで、母に付き添うことになったが、テントの中に入るが、イベントには、参加していない、よそを見ている。早く部屋に入らねば、と部屋に入ることを気にしている。
同居していた孫を見て、名前が思い出せなくて、驚いた。

ボランティアの出し物が続いて、ゆかた姿のおどりのところで、手で身振りをしているのを見て、40年前の大分国体に婦人会から参加したことでも思い出しているのかなあと母の50歳のころを想像した。
どんなに若くて、元気な者もこうなっていく道、自分の行く道もわかる気がした。

12/14

心配していたことを通り越して、進んでしまった症状に教科書、前例がなく、
先行きが見えない。

次男が疲れて、「立ったまま寝たり
ラーメンに箸をつけて寝たり
明石焼きに箸を立てたまま寝たり
のびた君のように
枕を頭につけて
ヨコになるまでの間
約コンマ5秒
すぐ睡眠」
と書いていたが、私も「寝ると眠る」の差がない

同じく、わたしも風呂の中で眠り、溺死状態。老人用の手すりも高すぎて、役に立たない。バリアフリー対策の手すりも健常設計者が作ったものとすぐわかる。あの手すりに手が届くなら、起き上がれるんだから、起き上がれるレベルの高さを作らないと老人の溺死は止まらない。
設計改革の余地あり。

コーヒー口に含んで、よだれで、びっくり。飲み込む前に寝ていた。

あっという間に寝てしまった長男、トドのよう。

睡眠欲、食欲、物欲、金欲の失せた老人を、復活させる手立てがない。

2009/1/17

新年を迎えたが、老母は急に体力が衰えて、家には帰られず、こちらが正月から訪問する正月となった。08年の正月までは、楽しみにしていて、家でお屠蘇、雑煮、お節を食べたが、今年は、三種の神器とお節も少なめに、ワクとしゃべりながら簡単に作った。

それにしてもこの1年間の急変に戸惑う。
大腿骨を骨折して、まもなく1年。SSにもどったのが、4月のおわり。しばらくは調子もよかったが、6月ごろから、この半年で、筋力が衰えて、シルバーカーも使えなくなり、手引きしてもらいつつ、すり足で歩いていくから、時間もかかる。自分で判断して、動けなくなってしまった。次にどうしてよいのかわからないという状態。
食欲なく、きざみをまずそうに口先で食べ、飲み込むのもスムーズでなくなってきている。
入れ歯が壊れたが、治療は難しい。熱が出るし、眠そうであったり、日によって違う。孫のような介護士Mくんに、トイレに連れて行ってもらっている。その丁寧なお世話に頭が下がる。

懐かしい金沢の諸江屋の「花うさぎ」中田の「きんつば」浦田の「さい川」といいながら少しずつ手に持たせると思い出して口に入れている。

熱も下がったし、「まだ1年は、大丈夫よ」とIさんに言ってもらった。

老後についての教科書にない、あまり、人が歩いていない山道を歩くような、例のない老後で、先の予測がつかない。

姉上が97歳でまだ元気に小倉の施設にいる。
今となれば、同じところに住めるほうがよかったのだが、元気なときは、そうも思わなかったようだ。小倉に行っても、好きなテレビが観られない、食事が、、とか、薬を忘れたなどと、自由にならないので、いつも予定より早く帰って来ていたものだ。
白を白としか言えなくて、他の人が見たら、黄みがかった白かもしれないとか、灰色がかった白に見えるかもしれないと思えなくて、人との交わりは、妥協しなくてきた。私が人に合わせたりするとおべんちゃら、をいうと怒っていたので、これは「輪」だと言っても通じなかったから、施設でも人間関係は、うまくいっていないく、あれこれ参加したがらなかった。
死ぬほどいやな集まりはないから、何回か参加してみたら、楽しめるかもしれないよと諭しても無理。
楽しめなくて、愚痴ばかり言って、ありがとう、ごめんなさいを言わなくて、かなり損をしていても、自分の物差しだからわからない。
そんな育て方をしたじじ、ばばが悪いと同じ種類の親を見て、従兄が言った。
偏食もすごいが、食べなくてもこんなに長生きをしたら、好きなのばかり食べる人が勝ちかもと思ってしまう。
最近、20キロ以上痩せた老母を見ていて、あれこれ想う。

4/23

市役所から、介護認定の結果が届いた。
前回は、ひどくなっているから更新したのに、3のままで、今回は、5に進んでいて、どういうこと?と聞きたくなる。
ほとんど介助なしには、生活ができないので、5であろうが、いきなり、とび級?でありがたくはない。
SSはまだ、置いてくれるといってくれて、家からも近くて、ありがたい。
食事も横で介助しながらでも50分くらいはかかる。
今日は、福井の懐かしい丁稚ようかんを持っていって、デザートに食べさせた。
昔を思い出したかどうか。

夜、長男から心配した電話があった。
90才代でもかなりの差がある。まだ、夕食を作っている方もいる。
家事をするのは、ボケ防止とは納得がいく。人の役に立っていると思われるのがよい。
生涯「現役」が強い。

3月26日、病院より電話。便が9日間でないので、23日に診察が予定されていたが、解決したからと行くのをやめにしたところ、やはり、状態が悪くなり、緊急入院したから、来てくれと医師からの電話であった。
年をとると腹圧も弱くなるし、運動不足で、腸の動きも悪くなり、便が出にくくなり、ひいては腸閉塞の危機に陥るとのことで、食事抜き点滴で便を出すようにしたようで、ソルテム3A、パントール、(腸閉塞の炎症に効く腸の壁保護?)ペンマリン(抗生物質)の点滴を毎日していたら、顔色がよくなり、目の力が出てきたが、動かないから、体が硬直して、今度は、腰が痛い痛いと訴え始めた。
食事は、「ミキサー食」とかで、すべて、形なし、緑、赤、白、グレーのドロドロで、スプーンで、口へ。入れ歯が緩み、治療。

言うことは、しっかり訴える。「美味しくないね。すっぱいね。ご馳走様」と介護士の方にお気遣いなく、お引き取りください」といい、新米の介護士の方が、かえって恐縮していた。元気になったというのかな。

今から行くの?家から来たの?忙しいのにありがとう。と私にいう。

今まで、「ありがとう」とほとんど言わなかったのにどこで習ったのか?と思うほど。むしろしてもらって当たり前タイプ。
間違ったと思っていないからごめんといわない、と言っていた人がである。
「ありがとう」「ごめん」が辞書にはなかったようで、聞いた事がほとんどなかったので、不思議な気がする。
車椅子で、食堂に行って食べている。快復の兆しがみえてはいるが、つぎは動くリハビリをしなければ。
同室には、100歳のウチより達者なおばあちゃんもいる。

5/14

ミキサー食から、形のある食事に回復。さじで、一人で食べている。
入院45日であるが、先日は、テーブルで、ぬり絵をしていた。
母の日、牡丹を赤の色鉛筆で塗っていて、こんなこともできるようになったんだというと、うれしそうに、「はい描けるようになった」と返事が返ってきた。

「お風呂も気持ちがよい」「よくしてもらっている」なんて、感謝の言葉が出た。
初めて。
昨年2月大腿骨を折って、入院したときは「寄ってたかって引っ張って、怖い、殺される」と、風呂を嫌がっていたのと大違いである。

また、今日は、洗濯をしようと行くと、備え付けタンスにベッドの右サイドがきっちり付いていたので、引き出しに入れている洗剤が取りにくかったが、
さては、、、と看護士さんに聞いてみたら、一人で起きようとしていたそうで、危ないから、隙間をなくしたのだった。

回復するのはよいが、まだひとりでは動けない、動いて、骨折するとまた、痛い上に、元の木阿弥よりまだマイナス。くわばら、くわばら、、、。

8/24

久しぶりにお母さんと呼びました。
1年書いてきましたが、これが最終回です。
この1年でもいろいろありました。94年の間にはさぞあれこれとあったことでしょうが、人生プラスマイナスゼロと思う私は、やはり、幸せな人生だったのだと思います。
いま6月末から特養に入所していますが、一人でスプーン使ってとろみ食事をいただいています。ひどい偏食だったのですが、脳も味覚を麻痺させているようでありがたいことです。
 1915年生まれ、厳格な数学者の父親の影響と服従する母に育てられたようで、5人姉妹、弟一人の三女として教育も受け、福岡の女学校の教諭をしたので、更に融通がきかなく、妥協も迎合もしなくて、1つのモデルしか認めない価値観の母に娘の私も泣かされましたが、いまや94才、、。
話もほとんど通じなくなっています。
許された時間を少しずつ過ごしていくことでしょう。

12/26

2010・10・25 95歳全うする。静かな、ピーンと張り詰めた早朝、ゆっくりと幕引きをした。

2010・8・25 95歳を迎える。最終回から、1年長らえました。

9月4日、父母の姓を継いだ三男の結婚、報告をする。

10月24日、大雨、研修から、帰宅、母のところへ。

タール便が出たから、もう長くないといわれた。自然の摂理で、人間最期には、自分の体に残っているものを、きれいにするとのこと。

木が枯れるように、、、、。

ベッドの上で、両手を空に上げて、「いずみが、、、水がながれる。」「どこに?庭なの?」というと、うなずいた。それが最期の声。

父母の記 その1