初めまして。
私は、Fに住むY,Mと申します。
もと、Y林業高校についてお聞きしたいのですが。
父(K)を、3月19日に大分県で墓じまいをし、26日に京都西本願寺大谷御廟に納骨を済ませました。
1897年に生まれ、地元の旧制中学を出て、Yの林業学校に特待生で入ったと子供のころ父に聞いていて、父は、一度Yの学校と桜を見せたいと言っていましたが、新学期が始まる時期で、とうとうかないませんでした。
一度元気な時に、Yに行けばよかったと残念です。
おそらく、父は、1912年ごろYに入学したのではないかと思われます
クラスは、先々代の◎製薬の社長であったYM氏と一緒だったと聞いています。
父が亡くなったあと、◎製薬にお邪魔して、Y様にお会いした時、「K君は、正義感が強くて、これは許せないと、強く言っていた時、私が、まあまあとなだめたりしていましたよ。」
というエピソードをお聞きしましたが、あとの情報はわかりません
父は、卒業後、林野庁に入庁して、終戦直前まで、樺太で勤めました。(樺太の資料を国会で説明したと父から聞いていました。
国立国会図書館で、当時の林野庁の名簿に父の名前を見つけ、2015年に、樺太に行ってきました。今は、ロシアのものになっていますが、元のカラフト庁を見てきました
地元の学校を出て、林野庁に入るまでの情報だけがないので、それで、ずっと気になっていたY学校の名簿に名前があるかどうかを知りたくて、平日でないと学校は空いていないでしょうし、
休みが取れないので、行けませんでしたが、6月に休みを取っていこうかと考えています。
いきなりうかがっても空振りでは、がっかりです。何か情報はないものかと、合併後の高校のアドレスがわからないため、そちらに、お尋ねしてみようとメールにしました。
お忙しい新学期、お手数をおかけしますが、何か、情報がわかれば、うかがいたいものです。
Y,M 様
指導主事のYと申します。
メールを拝読させていただきました。
高校については、本町教育委員会の管轄ではなく、
県教育委員会の管轄となっております。
お父様のお名前があったとのことでした。
「農林学校 林科 第14期生 大正6年卒業」
とのことで、Y、K氏と同期であったとのことでした。
〇 わたしはといえば、、、、、
私はといえば、別府亀川にあった風呂(各家庭には、風呂や、共同風呂があった)で、母が洗濯をするのに、籐のテーブル付きのベビー椅子に乗せられていた時、立ったはずみで、浴槽に落ちて、椅子ごとぶくぶく、、、。母が飛び込んで助けてくれたのが、一番古い記憶になっている。
台風で、電車通りに打ち上げて荒れ狂う海の波が、大きな渦を巻いていて、泣いていたら、迎えが来たことも記憶にある。別大国道の電車が波をかぶるのが、ある種、スリル満点であった。今は、面影もない。
運動会のリレーアンカーで、黒いブルマの片方の裾のゴムが緩く下がってきて、必死で、襷とブルマを引っ張って走ったことがあった。あとで「Kの奥さん、Mちゃんのブルマ、ちゃんとゴムを入れてあげておかなきゃ」と周りの人に言われたそうな。
車がない時代、父がカメラ好きで、当時あまりなかったドイツの一眼レフ(ローライフレックス?)を持って、家族で阿蘇、宮崎、と旅をしたスナップ写真は忘れない。風が強くて、私がシャッターを切った初めての父母の写真は、河口から上がって来たみたいにひどくて、大笑いをした。
勉強では、よく理科の実験をしてくれた(アルキメデスの原理、浮力の実験)が、数学の強い父の話は、分からず、叱られたりした。
母が、女学校の教師をしていたことから、6歳でピアノを始めた。そのころ、ピアノのあるうちは、少なかった。将来のためとのことだった。
学校から帰るのが、いやだった木曜日、おばあさん先生がうちで待っていたので、弾きながら眠り、手をたたかれた。
その後、一流の先生について、調音までしたが、高校の進学を考えるとき、どうもそちらの道は熱が入らず、人前で弾くのが嫌で、勉強のほうに競争心がわいてピアノをやめた。
別府の北小学校と中部中学校1年まで別府にいて、中2からは、大分の碩田中学校に通った。
よい環境の、優れた友達の中で、とにかく楽しい中学生活であった。いまだに交流ありありがたい。
現在までつながっている友達の一人は、私の遠隔主治医であるが、貴重な支えになっている。
中3で、父が病死してからは、母も仕事に出なくても、贅沢をしなければどうにか不自由もしなくて、毎日を送られた、父のおかげである。
高校では奨学金を受けた。大学では県から返済不要の3500円、日本育英会から8000円は、長年かかって返済、家から5000円の仕送りで、あとは、家庭教師、ピアノを教え、たまの大学の張り紙を見てのアルバイトで、寮費が1か月3000円のころで、十分で、結構貯金もした。
5時の夕食合図の鐘が待ち長く、寝るまで何も食べなかった頃のことは、今では信じられない。
学園紛争が激しくなり、九大にファントムが落ちたり、革マル、全共闘に全力を注いだ友もいた。
第1次ベビーブームの競争心が、掻き立てられて、いまだにどこかに残っている。
世相は、否めないものである。
◎製薬 YY様とのお話
高校1年に入る春休み、母と、京都大谷御廟で父の納骨を済ませてから、◎製薬のYK様に薄墨の弔文と香典をいただいたお礼とご報告にと、会社を訪問した。
田舎者があの大きな会社にも驚き、社長室の厚い絨毯の前で、靴を脱ぐのかどうか躊躇していると、中から「どうぞ」とソフトな細い声がした。
お初にお目にかかる物静かなお姿は、今でも覚えている。父との学校時代の話をお聞きして、工場見学をさせていただくことになり、副社長のYY様に案内され、工場内を見学した。金属が入っていないか、空箱はないかのチェックをしているとオートメーションの箱が並ぶところで説明を受けた。
WAKOの紺色ハンドバッグをお土産にいただき、天にも昇る気持ちだった。
それから数年して、YY様が、私が大阪に行くときに、いま思えばよく時間を作ってくださったと思うが、リビエラというフランスの車で、六甲山、芦屋海岸、ボーリング、北新地のクラブなど連れて行って下さった。著書も大事にしている。お二人とも他界されたが、懐かしい思い出である。