滝本先輩からメッセージが届きました。

 滝本先輩からホームページにメッセージが届きました。
今回の中日こども会55周年記念祝賀会に先立ち、みなさんには、「白霊社 滝本」さんから、
「中日こども会 ビデオ作成」の資料提供を呼びかけるお葉書が届いたかと思います。
これは、三宅先生の意向をうけて、滝本先輩がご自分のご職業を活かして
自発的に呼びかけていただいたものです。
今回中日こども会55周年記念祝賀会の55周年記念誌を作成するにあたり、事情をお話ししたところ
滝本先輩宛送られた資料を55周年記念誌編纂に寄せていただけることとなりました。
資料の収集、送付等滝本先輩のご尽力と
資料をお寄せいただいた皆様に感謝いたします。

中日こども会55周年記念祝賀会 実行委員会一同


有限会社白霊社
      滝本

 中日子供会のホ−ムペ−ジを楽しく拝見しました。
 童心に帰ってペ−ジ上で語り合うことは、顔も知らないのに良く知っているような懐かしさをおぼえます。
 私は現在61歳になってしまいました。時は矢のように過ぎてしまいますね。私は、昭和23年頃中学二年生の時に中日子供会に入りました。小学二年生から六年生までNHKの放送児童劇団にいて、その頃は、まだテレビはなくラジオ放送が盛んで、ラジオドラマの子役に出演していました。その頃二歳年上で、大久保さんという先輩がいました。中日子供会の前身である中日子供弁論部がありました。海部元大臣も、その頃だったと思います。先輩の大久保さんもその弁論大会に出場していました。

 三宅先生は、中日新聞社の弁論部の先生をしておられたようです。その大久保さんが、私がNHKをやめた頃に中日子供会に紹介してくれました。大久保さんは、みなさんよくご存じの「中学生日記」のディレクタ-となり、その後プロジュ-サ-となって、一昨年定年退職をしました。
 私のいた頃の「中日子供会」は戦後間もない頃で世の中の子供達は、まだ娯楽に飢えていました。中日子供会は、音楽や歌や三宅先生の童話が中心で、演劇部は人形劇をする大久保さんと私の二人だけでした。その人形劇の小道具がたくさんあって、即席でつくる舞台のパイプも軽いアルミではなく、鉄パイプの組立式で中日新聞のラッキ-カ-というバスの時はよかったものの、汽車で移動するときは、重くて重くて涙が出るほどでした。
 今までの思い出話の中で何度も書いたと思いますが、そのころの子供達は、田舎に行くと中日子供会の催しに、衣服はボロを着ていましたが、目だけはキラキラと嬉しそうに輝いていました。別れの時など山の上から見えなくなるほど手を振って見送ってくれました。

 今私は、5年前からそれまでの職業だったテレビCMのディレクタ−をやめ東京都内で白霊社という葬儀社をしています。人生の中で今までタブ−視されてきた「人間の死」を真剣に見つめてみたいと考えています。お陰様で業界の中では、ユニ−クな葬儀社として時々、業界誌が取材に来ます。先月も月刊誌に紹介され三宅先生にも、その本を送らせていただきました。
 今回見送りとなってしまった「中日こども会」のビデオ制作の件、一寸残念でしたけれど、みなさんで作られる会誌をベ−スにあらためて構成案を練り、ご協力をいただいて一生の思い出になるようなビデオができればいいなと考えています。

それでは、又おたよりします。