an omnipresence in wired


『lain』といふアニメーションは説明過小でシンボリックであるが、日本的芸術は全て説明過小でシンボリックである。安倍氏の絵が日本画を基本にしてゐる事からの連想で、『lain』は日本的アニメーションであるといふ妄説を思ひついた。そして一般のアニメーションが非日本的である事、アニメーションが日本の文化であるといふ通説が誤りである事が言へるのではないか──といふ想像をしてみた。

玲音を天使と見るよりは異界の住人と見るべきであらう。人間の世界と少しずれた場所に玲音は住んでゐる。

玲音は西欧的な神様・天使よりは日本的な八百万の神様に近い。肉体があつて死者の世界やネットワークの世界と行つたり来たりするのはさうすると当然の事になる。

玲音をレインの和魂、lainをレインの荒魂と見、橘総研がlainを神降ろしし、TV版のラストで玲音が天上に還つたと見る。

──これは所詮は思ひつきで、自分でもうまいアイデアとも思はない。an omnipresenceの感想に戻る。

いはゆる「ギャルゲー」と一線を画すlainの特長はスタイリッシュといふ事である。その根本に日本画を専攻した安倍氏の絵がある。淡い色彩と纖細で精密なタッチはユトリロに似てゐる。

ユトリロの絵を私は好む──しかし一般的にユトリロは忌避される。例へばゴッホ等は精神病的な不健全さがあるが、正直に不健全さがあらはれてゐる。ユトリロもやはり精神病的なのだが、病的な健全さがある。自分の病的な面を冷静に見る健全な理性がある。そしてその健全な理性と病的な精神が同時に存在するからこそユトリロの絵は不安感を抱かせる。

安倍氏の絵にもそれに似た不安感がある。増殖する玲音のNAVIの絵に於ける書込みの異常な密度は病的と言つてよいのだが、その異常なケーブルの書込みの背後には驚くべきしつかりとした描写力の裏付けがある。理性的に狂つてゐる──といふ事は、安倍氏の絵に限らず『lain』全体にいへる事ではないか。

理性的に狂つてゐる。これは現代の病理であつて──と書くと、またか、といふ事にならうかと思ふが、依然問題は解決してゐないのである。『エヴァンゲリオン』が現代の自閉的な風潮を反映したものだといふのは、むしろ庵野監督が自閉的だといふ批判の根拠にしかならない。では『lain』が自閉的主人公を描いてゐるからといつて小中氏や安倍氏が自閉的だと言へるかどうか。『エヴァ』が根本的に病んだ精神の仕事であるのに対し、『lain』は健全な精神の仕事である。ただ、おのれの狂気を冷静に見つめる健全な目が存在するといふ意味で、分裂症的なのである。

しかしゴッホの絵には、精神病的であり不安感を与へる印象と、それとはうらはらに漂ふ病的なオプティミズムが見られる──根拠のないオプティミズム。一方のユトリロには、病的な印象と一体のペシミズムがある。少なくともそのペシミズムはオプティミズムよりは妥当であらうと思ふし、そこに私が好感を持つ理由がある。


おまけ。漫画家・冬目景氏の絵が安倍氏のそれに似てゐる。『黒鉄 KUROGANE』(講談社・モーニングオープンKC)は、絵が類似してゐるし、なんとなく『lain』ファンにも楽しめるやうな気がする。