Bridge


十九世紀の主要な業績の一つは連続の原理を念入りに仕上げて一般的に適用したことであつた。ところが、現在では、この概念を打破することこそが、さし迫つた必要となつてゐる。(中略)自然における非連続は単に見かけにすぎないので、より完全に探求しさへすれば、その根柢にひそむ連続があらはにせられるであらう、といふ風に、いつも考へがちである。自然における亀裂ないし飛躍に対するかやうな尻込みは、客観的認識をも麻痺させ、ものをその実際あるがままに見るわれわれの視力をゆがめるまでに立ちいたつてゐる。ところで、実在を客観的に見るためには、われわれは連続・非連続のカテゴリーを、両方とも用ゐなければならない。そこで、現下におけるわれわれの主要関心事は、亀裂ないし裂け目を身じろぎもせずに眺めうるだけの気質ないし心性を、建て直すことでなくてはならない。

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覚え書風に。

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『lain』は心理学によつて予め規定された物語であり、説明済みの物語である。R.D.レインの名を連想するのもファンには許されるであらう。『lain』は人間の心理をテーマにしてをり、即ちその時点で結論は出てゐる。人間の心理は厄介なものであるから『lain』自体も厄介な問題を抱へる。問題は心理学であるといふ点では全て解決済みなのであり、同時に未解決である。心理学は未解決の問題だからである。

2

例へばプリンセスメーカーなどをプレイする時、プレイヤーはゲーム中の少女に自分の恣意的なパーソナルを付与する。lainに於てはその少女=玲音がアノニマス的であるといふいかにもゲームのキャラクターらしいキャラクターに設定される一方で、集合的無意識が形をとつたもの=アニムス的であると定義される。これによりプレイヤーの心理は合理化され、玲音の分裂した存在には統一的なリアリティが持たせられてゐる。これは一種の心理学的な側面からの解釈であり、これで全ては見えるのであるが、同時に何もここから見えてはこない。

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2の解釈は「『lain』に於て玲音が好きであるといふ事は即ち『lain』といふ作品を好きである」といふ事とイコールである。主人公は嫌ひだが作品は好きとか、作品は嫌ひだが主人公は好きといふ事が『lain』に於てはありえない──たいていのアニメーションでは、物語と登場人物の間に一線が画されてゐるのだが、『lain』に於ては物語は主人公玲音と直結してゐる。それだけの事を言つてゐるのである。だがそこで立止まつてゐては『lain』については何もわからない。単なる解釈から出る事、価値的な評価をする事が大事なのである。

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『lain』に於ては玲音と物語ばかりでなく、両親、橘総研、英利政美、或はCopland OS、ナヴィ、渋谷の駅前、三千里薬局、果てはBOAのデューベイ、仲井戸麗市の遠い叫びまでが一体であり、それらは根本に於て玲音のパーソナルを表現するのに役立つてゐる。そして重要なのは、にも関らず、それらが玲音とは独立に存在してゐる事である。

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玲音は『lain』の世界の象徴であり全体であるが、『lain』の世界と玲音がイコールなのではなくて全体と部分の関係なのである。玲音のインナースペースに舞台があるのではなく、アウタースペースといふ舞台に玲音が存在してゐる事が重要なのである。岩倉玲音はリアルワールドに存在し、lainはワイアードに存在して構はない。ただレインといふ普遍的存在はリアルワールドであらうがワイアードであらうが、普遍であると同時に世界からも個人からも独立してゐなければならない。しかしそれは安心してよい──なぜならレインは個人の記憶を記録として操作する事は出来ても、レインの心と誰かの心を繋げる事は出来ないからである。All Resetが単なる記憶の消去に過ぎず、玲音が孤独のままである事が悲劇であるといふにしても、玲音が道徳的存在であり汚された存在ではないといふ事は間違ひない。

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相手の心がわかるといふ事は現実にありえないのだから、心の交流を主張し精神の拡大を主張する多くのアニメーションは誤つてゐる。心理的リアリズムといふ観点から『lain』はリアルだと言ひ切れるし、人間的であり道徳的であると言ひ切れる。心と心が繋がつてゐないからこそ、玲音とありすの友情は感動的なのである。英利と玲音が根本に於て理解し合ふ事はありえないし、玲音がありすと心を繋ぐ事もありえない──「覗き屋」をレインは憎む。人の心を覗く事の嫌らしさをレインは本能的に知つてゐる。

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視聴者が玲音を完全に理解する事はありえない。だからこそ我々は玲音がリアルだと言へる。玲音が完全に理解出来る存在であるとしたら、そこに我々は魅力を感じえないし、完全に理解可能な存在など存在とは言へない。「人は誰でも繋がつてゐる」といふのはアンチテーゼであり「サイコストレッチウェア」といふ言ひ方はアンチテーゼである。制作者は『lain』に於て、人が相互理解不可能である事、孤独に堪へずに人は生きられない事を暗示してゐる。玲音の存在がシンボリックであるのならば、TV版のラストもまたシンボリックにとらへるのがよい。人は孤独にしか生きられない、他人の心と繋がる事は出来ない──さういふ宿命を玲音は受入れ、現実の世界に生きる事を宣言した。

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ゲーム版は玲音の自殺で終るといふのだが、それは孤独に堪へられぬ事による自殺ではないか。(現時点で筆者は「電撃」の攻略本と他のファンの方から頂いた情報によつてこの文章を書いてゐる)TV版はゲーム版で弱さゆゑに自殺した玲音の分裂した姿と見る事も可能だと思ふ。レインの人格の分裂と再統合がTV版のテーマだと私は個人的に見る。さて安倍氏の画集に収められた英利と玲音のコミックはゲーム版からTV版への橋渡しである。ゲーム版とTV版に関連を持たせたいといふ望みはレインのファンなら誰にもある訳だが、安倍氏はそこにヒントを与へてくれてゐる。