serial experiments lain / 2

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「scenario experiments lain」(小中千昭著・ソニー・マガジンズ発行:シナリオ集と表記する)を読んだ。TVオンエア時にはききとれなかつたり、誰が喋つてゐるかわからなかつたりした台詞などを知ることができたし、小中氏の注釈が面白い。それに、観てゐた時にはわからなかつたが、シナリオで確認してみると、作劇術上巧みだといふべきところがたくさんあつた。

たしかにTVで『lain』を見てゐる時、多くの場面がそれ以前のシーンを思ひ起こさせるやうになつてはゐた。製作者の意図は、断片的なエピソード=レイヤーが重なりあつて玲音といふ少女を描き出す、といふものだつたやうである。しかし、むしろ一度観た場面がのちのち繰返し再現されることで、視聴者には抜きがたい印象が残つた──さう考へる方が妥当だ、とシナリオ集を再読三読して思つた。

なんのことはない、製作者はあらかじめ意図して物語を作つたのだつた。物語をさまざまな側面から見ることもできるが、『lain』では視聴者は物語が巧みに作られてゐることを楽しむべきだ。

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このアニメーションを観て「偽の記憶」といふ点で連想したのはP.K.ディックだつたが、「自分の存在」 = 実存といふ点から連想したのはサルトルであつた。『嘔吐』と『lain』は一見よく似てゐる。だがこのふたつの作品は、その向かふ方向が正反対なのだ。

『嘔吐』は自分以外の存在すべてが信じられなくなつた男の話で、結局男はそれを認めた上でフィクションとしての「神話」あるいは芸術に確実な存在を見いださうと決心する。『lain』は、自分の記憶こそがあらゆる存在を支配するのだと思ひこんだ少女の話である。各話をlayerと名づけたやうに、小中氏をはじめ製作者は視聴者に自由に物語を構築することを期待してゐるし、我々はそれを楽しめる。もつとも実際にはTVアニメーション『lain』はすでに心理的な一貫性をもつてゐる。それを小中氏自身うすうす感じてゐることはシナリオ集欄外の注釈から見てとれる。

玲音はリアルワールドで内気な少女でありつつワイアードで奔放な少女であつた。精神病の少女である。対立する自我を同時に抱へ込むことは現代的な症例である。しかしそんな玲音だが、彼女の本質は世界を拒絶し世界に反抗するといふ点では一貫してゐた。そんな玲音に、世界を支配できると言ひながら「神様」 = 英利政美が近づいた。反抗心は支配欲の裏返しだから、玲音は「神様」に興味を持つたのだ。

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シナリオ集に「プラトン的」といふ言葉が出現し、『lain』の世界は二元的であることが宣言されてゐる。だから『lain』の登場人物は玲音も含め二元的で──就中、英利政美は二元的に表現されたのである。英利はワイアードの「神様」を自称し、同時にあまりに唯物的であつた。神の存在を否定する唯物論が信仰であることは言ふまでもない。

Godとgodの違ひを小中氏は理解してゐないだらうし、日本人である小中氏は八百万の神godしか知らないのだから、「……人の世界はそれぞれに神様を作つて、お祈りして世界はかうだつて思ひ込んで」などと書いてもしかたがない。

しかしGodを知らない日本人が生みだした「神の子」玲音は、神である英利政美をとるか、人である瑞城ありすをとるか──あれか、これかの選択を迫られた。layer:11で自我を崩壊させたりワイアードとリアルワールドの境界をとつぱらつたりした玲音は、もはや人ではなかつた──といふより人であることをやめてゐた。これは製作者の意識を越えてゐたことだ──玲音は人であることをいつたん捨て、人以上のものにならうとしてゐたのである。

しかし彼女が人へと戻つたのはなぜか。

英利政美との対決シーンにありすがゐることが重要だと思ふ。「感覚だつて脳の刺激でどうにだつて得られる。嫌な刺激なんか拒絶すればいい。楽しくて気持ちがいい事だけすればいいじやないか」と英利は言ふ。しかし玲音は、そんな英利の論理にしたがへば、ありすといふ友人を失ふ──人としてのつながりを失ふことに気づいたのだ。

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れいん
人の記憶、個人のものとか、人の歴史の中のものとか──、それだけぢやなくつて、共有されてゐる無意識だつて──。そんなに膨大なメモリを蓄積出来る様なものを、人間が自分で作れると思ふ?
玲音
ワイヤードは繋げてゐるだけだつたんだ……
玲音
──でも──ぢやあ、どこと繋げられてゐたの……?
lain
人がそれを知る必要があるのかな
玲音
え……
lain
知らなくつたつて、ずつとこれまでやつてこれたぢやない。人の世界はそれぞれに神様を作つて、お祈りして、世界はかうだつて思ひ込んで──
玲音
──嫌な言ひ方

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意識や記憶は関係ないのだ。あやしげな神様も要らなかつた。玲音はただ、愛とか友情とか──そんなものへの信頼を復活させたかつた。快楽や幸福はどうでもよい──それは具体的だが、虚しいものだ。わかり過ぎるほどわかるものは、詰らない──浅はかだ。

Memoryには思ひ出と記録の二つの意味がある──といふことが『lain』のドグマだと小中氏は書く。玲音は「記憶つて、過去のものだけじやないのね、今の事、明日の事まで──」と言ひ、「さう、いつだつて会へるよ」と言つてゐる。だが、未来の記憶など記憶ではない。

人は誰かと会ひたい、会つて話をしたい──対話を求めてゐるのだ。

相手を知つたり、支配したりするために人がゐるのではない。マルティン・ブーバーが言ふやうに、「我-それ」の関係から「我-汝」の関係へ移る──それが人間と人間の関係といふものだ。学校で友人たちとなじめず、ワイアードで利用し利用されるだけ──さういふ「我-それ」の関係を玲音はAll Resetして──世界へ身を投出した。

ラスト・シーンで玲音が「初対面」のありすに言ふ台詞「──初めまして……初めまして、だよ」は、たしかに玲音が「自分で考へて」言つたはじめての台詞だつた。(Cp. layer:1「白地にビットマップフォント:S「──どうしてさうしなきやいけないかは、自分で考へなくてはいけないこと」)ここで物語は冒頭に立返り、円環構造は完成する。物語はその存在意義を物語自身で証明し終へる。あらゆる人々の記憶を消し去つた玲音にとつては悲劇的な結末であるはずだが、にもかかはらず救ひがある──登場人物は生きはじめる。

リアリティを獲得した玲音の、別の物語を思ふことは自由である。(ありすたちには物語を考へてやる必要はないだらう。ただ会社を辞めるつもりの英利政美には、ぜひよい所に再就職してもらひたいものである──閑話休題)事実ゲーム版といふ形で製作者たちはアナザー・ストーリーを提供する。

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ゲーム版『lain』の主人公・玲音は「公式ガイド」(メディアワークス発行)を見るかぎり精神病の少女である。実に印象的な場面がいくつもありさうで、(「公式ガイド」には、玲音が机の前で頭を抱へて泣いてゐる絵が2ヶ所に掲載されてゐる。これは編集者にもよほど印象的だつたのだらう)ゲーム機を持つてゐない私も非常に興味をひかれる。

しかし、ユーザが物語を再構築することにその面白さがあるとされるゲーム版を、実際にユーザがプレイすることで、物語を構築しそこに心理的な一貫性を感じうるか否かはわからない。ムービーを見損なつて情報が欠落する可能性があるだけではない──はたして物語は不特定の順番で鑑賞することでもそこに心理的な一貫性を鑑賞者が見いだしうるものなのか。あるいは「定められた」順番で鑑賞した所で、ゲームが「物語を楽しみうるメディア」であるかは疑問がある。

TVアニメーションを観て、視聴者は必ずしも一貫した心理的印象を明確に得られた訳ではないだらう。TVシリーズは各layerが一週間おきに放映され、印象が散漫になる。1クール(13話)といふ短い作品でよくまとまつてゐたが、ひととおり観ただけでは私は漠然とした印象しか残らなかつた。(それでも驚くべき強い印象を得たので、これはすぐれた作品といふべきなのだが)シナリオ集を読み、録画したビデオを観て、私はこれまでの文章を綴つた。多分ビデオだけでは理解しえない、シナリオ集がなければ知りえないものがあつたと私には感じられた。

「公式ガイド」を見ると、TVシリーズよりも物語はわかりやすく(内容は暗いが)明快に「設計」されてゐるやうである。「ガイド」を見ながらプレイすればストーリーは理解しやすいだらう。にもかかはらず、ゲームではユーザが操作に気をとられて印象が散漫になるのではないか──物語ベースのゲームを見るたびに気になるが、『lain』でも心配になる。かかる物語をゲームにする意義は何なのだらう。

アニメーション作品として『lain』は必然性があると「1」で書いたが、ゲーム作品として『lain』が必然性があるのか。とりあへずゲーム機がなくてゲームが出来ない私としては、少ない情報をもとに頭の中でシミュレートするしかないのだが、どうもゲームの出来はTVアニメーション版に及ばないのではないかと危惧する。