ネットワーク社会を舞台にした実験的SFアニメーション、『serial experiments lain』は、ゲーム版の前振り・プロモーションといふ役割を越えて視聴者に衝撃をもたらした。謎だらけのストーリー──各ゝの回が「layer」と呼ばれてゐるだけに、重なり合ひ、一見複雑な物語は視聴者の関心を最後まで引つぱつた。主人公・岩倉玲音がネットワーク社会ではlainと呼ばれるといふ「二重人格テーマ」であつたことも好意を持つて迎へられた。(放映が終りに近づくにつれて玲音が可哀想になつていく──といはれた)
このアニメーションの特徴はふたつあると思ふ。ひとつは、かくあるべしと思はせるやうな恰好良いNAVIの画面とネットワークの表現。もうひとつは、主人公が悪戦苦闘し必死に生きようとしながら自己の存在を自ら現実から葬らざるをえなかつた悲劇性。
しかしながら、この作品はさういふ簡単な言ひ方ではすまされない、異常な迫力を持つてゐた。製作者の個性が全く殺されぬまま明瞭に画面に現れつつ全体として一定の秩序を保ち、なほかつ一種の普遍性を獲得してゐる──すぐれたアニメーションに必ず感じられる印象なのだが、『lain』でも私はさういふ印象を受けた。
私は通常のアニメーションでは、「台詞劇」としての要素が足りない、といふ不満を常に抱く──台詞が説明的だつたり、内容がうすつぺらい、といふことを言ひたいのではない。人物が他の人物と対話し、対話の結果人物が行動を選び、物語が進行する、といふ事がめつたにない、と言ひたいのである。『lain』はさういふ観点からは不満を覚えるべき作品なのだが、見てゐる間、気になることがなかつた。
少なくとも『lain』が「台詞劇」たるべき理由はない。むしろ『lain』は「小説」に近い。すぐに連想した小説といへばP.K.ディックの小説──否、映画「トータルリコール」であつた。「作られた記憶」の概念をもとにあはれな登場人物たちが悪戦苦闘するディックの作品群と『lain』の共通点を論じるのは可能である。私がそれをやらないのは、ディックに興味がないだけの話である。
『lain』で製作者は、本気でアニメーション表現をやりたいと思つてゐたのだ──私はさう感じた。画面から伝はつてくる異常なまでの迫力は、製作者の情熱によるものだと信じる。さういふ意味では『lain』が「台詞劇」か否かは関係ない。私は製作者たちに好意を覚えた──それで十分である。
テレビ東京深夜のAIC作品で、しばしば血が飛ぶシーンが白黒になつたり(「吸血姫美夕」「Night Walker 真夜中の探偵」など)、話自体が没になつたり(「吸血姫美夕」第2話)してゐる。「ポケモン」事件による規制のためだといふのだが、私はそんなことしよせん「言ひ訳」にすぎぬと思ふ。
なにより、かつてない実験作『lain』が放映されたのだ。表現する内容が違ふ、といふ反論は意味をなさない。私はAICの「言ひ訳」じみた描写が気に入らないのだ。
もちろん『lain』でも規制により放映できない表現があつた。しかし、トライアングルスタッフはさうした規制に、実にまじめに対処した。規制の範囲内に収まるやう表現を改めたのである。私は『lain』に、規制による「被害」の跡が残つた場面を見いださなかつた。
『lain』が規制に屈伏したと言ふことは自由である。しかし、さうであるにしても『lain』はかつてない過激な表現を行なつた実験作のままなのである。重要なのは、とにかく視聴者に、その時点で完成されたアニメーションを製作者は提供してゐる、といふ事である。
AICに限らず、アニメーション表現の限界に挑戦することはグロテスクでスプラッタの描写をすることだと考へる関係者は多いやうである。しかし、私はさういふ表現には食傷してゐる──前後関係お構ひなしにはじまる濡れ場と同様、そのやうな表現は不用だと考へる者である。しかしそんなことは蓼喰ふ虫も好き好きで、必要だと考へるのは一向自由である。
ただ私が気に入らないのは──AICは規制によるTV版における描写の制限について、ヴィデオ版で直せば良いなどといふ安易な考へがあるのではないか。
ヴィデオ版でグロテスク・スプラッタ表現をしたいといふのならそれはそれで構はない。だが、そのためにTV版のクオリティを落としてはならない。単にヴィデオ版用の映像を切刻んだり白黒にしたりしただけで視聴者に提供するのは怠惰といふべきだ。TV版はTV版で「観られる」作りになつてゐなければならない。
『lain』を製作したのはトライアングルスタッフといふ、比較的マイナーな製作会社である。トライアングルスタッフの作品は「HALERUYA 2 -BOY-」と「聖ルミナス女学院」しか私は知らない。(パトレイバーのOVAに関つてゐるといふ情報も見たことがある。また「トライガン」で製作協力してゐた回があるのを確認してゐる。『魔法使いTai!』も作つてゐる)
「BOY」のオープニングはプロモーションヴィデオ風といふことで話題になつたが、スタイリッシュなオープニングは、トライアングルスタッフが製作したアニメーションの特徴のひとつである。「BOY」は『lain』に直結する作品として検討に値するのだが、最終回しか録画してゐないので記述が不正確になる恐れもありここでは触れない。
ただいへることは、トライアングルスタッフの作品はいづれも低予算であるやうな印象があるのだが、それにもかかはらず面白く観られることである。大抵の低予算アニメーションは海外に動画などを発注するが、トライアングルスタッフはたまに原画まで外注する。にも関らず常に絵のクオリティが一定してゐる。
韓国などのアニメータでも描きやすいキャラクタデザインを、トライアングルスタッフはあへて行つてゐるやうに思はれる。「BOY」は原作漫画もそれほどうまい絵ではなく、いかにも韓国人アニメータが描いたやうな絵が自然に作品に合つてゐた。さういふ「現実との巧みな妥協」は『lain』の「キャラデザ」にも見て取れるやうな気がする。
庵野秀明監督が『彼氏彼女の事情』のオープニングでやつたことだが、完璧を求めるためにできないところは切捨てる、といふことをトライアングルスタッフはやつてゐるのである。ただ、庵野氏はできてゐなければできてゐないとあつさりそのまま放つておくが、トライアングルスタッフは常にそれなりに形を作つて出してしまふ。(同じ努力をしてゐるのでも、後者の方がよりすさまじいものであるやうな気がする)
もちろん完成して表れる部分では、後者のクオリティは低くなる。『彼氏彼女の事情』のいくつかの絵は(妙に気合の入つた信号機や蛇口がそれ)、『lain』の(実写取込によるのだが)信号機や住宅街その他の絵よりもハイクオリティある。しかし全体に『彼氏彼女の事情』はアンバランスである一方『lain』は一貫してゐる──『lain』はチープであるが首尾一貫スタイリッシュである。『彼氏彼女の事情』は予算不足とスケジュール不足と開き直つて演出だといふことを言ひ訳にせねばならないが『lain』はそのまま黙つてさしだせばよい出来栄えである。
庵野監督やAICも言ひ分があるだらうとは思ふが、私は彼らに甘い顔をする気はない。堂々と様々な言ひ訳をする庵野監督らよりも、黙つてその時点で最良のものを提供するトライアングルスタッフは好ましい。第一『lain』はゲームが主で、アニメーションは従、さういふ印象のもとでここまで話題になるアニメーションを作つたのだ──アニメーション制作会社トライアングルスタッフの意気やよし、と賞むべきである。いや、協力したスタッフもみな『lain』を愛してゐることが伝はつてくるではないか。物語の中では玲音だけが可哀想になつていくのだが、そのまま終らせることはできなかつたのだらう──全く救はれない結末ではなかつたのがよかつた。