日本の文字について ──文字の表意性と表音性── 橋本進吉  ○国語の現状及び歴史  ○国語国字の本来の性質の認識  ○国語国字と国民との関係の認識  今日の国民生活に密接なる関係を有し、一日と雖もはなれる事の出来ない漢字と仮名とについて、その根本の性質は何にあるか、中にも言語との関係がどうなつてゐるかを中心にして説明してみたいとおもふ。  これは珍しい事、新しい事ではなく、わかつた事で、或は無用の事と思はれるかも知れないが、実際、我々にあまり近しいものは、存外その真実がわからないものである。国語国字の問題を論ずる人々にもこの危険がある。  文字は言語をあらはすものである。代表するものである。社会的拘束、習慣にすぎず、両者の間に必然的の関係は無いのである。そしてもし言語を表さぬものとするならば文字でなく、唯符号にすぎない。  言語は、一定の音と一定の意味があり、一方から一方をおもひ出させるものである。音は意味を代表する。(両者は同価値にあらず。目的は意味を他人につたへるにあり、音はその手段として用だつものである。)  文字が言語を代表するとすれば、それは意味を表はすとともに音をもあらはすのである。即ち表意性と表音性との二つの方面があるのである。  これが文字の最も根本の性質であつて、文字を考へるに当つては寸時も忘れてはならない事である。  漢字と仮名とは文字としての性質を異にする。漢字は表意文字又は意字とよばれて意味を表はすもの、仮名は(ローマ字などと共に)表音文字又は音字とよばれて音を表はすものと考へられてゐる。さすれば一寸見ると漢字には表音性なく、仮名には表意性が無いかのやうに見えるが、はたしてさうであらうか。  まづ漢字について見るに、漢字には、従来、形音義の三つのものがあると考へられてゐる。形は、その字の形であり、音はその字のよみ方であり、義は、その字のあらはす意味である。そのうち音と義とは、言語に属する事である。(漢字がなくとも、言語として音と意味とは存在する。)漢字には、それぞれきまつた形があつて、それが、きまつた意味を表はし、又きまつた音(よみ方)をもつてゐる。そのきまつた意味と音とをその形があらはすのであるから、漢字の形は、つまり言語を表すものである。即ち、表音性と表意性とをもつてゐるといふ事になるのである。即ち、漢字に形音義があると考へられてゐるのは、漢字には表意性のみならず、表音性もある事を認めてゐるのである。  次に仮名はどうか。仮名は表音文字といはれてゐるやうに、一々の仮名はきまつたよみ方(音)をもつてをり、言語の音を表はすが、意味をあらはさないのが常である。さすれば仮名には表意性はないかといふに、さうではない。なるほど一々の仮名はきまつた意味を表はさないが、之を実際用ゐる場合には、之を以て言語を書くのである。その場合には一つの仮名で或意味をあらはす事もあり、又一つで足りない場合には、いくつかの仮名を連ねてそれで或意味をあらはす。即ち、個々の文字としてはいつもきまつた音を表はすだけで、きまつた意味をあらはすのではないが、実際に於ては、やはり意味を表はすのである。  全体、言語としては、いつでも音は或一定の意味を表はす為に用ゐられてゐるのであつて、或一定の意味を有する言語の形として或きまつた一つづきの音が用ゐられるのである。仮名はさういふ言語の音を表はすのであつて、その音を表はすに必要なだけ、即ち、或場合には一つ、或場合には二つ以上連ねてあらはすのである。それ故、仮名が音をあらはすといつても、それは言語の音をあらはすかぎり、結局は意味を表はす事になるのである。(もし言語の音を表はさないならば、それは文字ではない。) 仮名が音を表はす事は勿論であるが、前述の如く、漢字も亦音を表はすのである。それは即ち漢字のよみとしてあらはれてゐる。それでは音を表はすといふはたらきからみて仮名と漢字との間に何等かちがひがあるかどうか。  仮名が音をあらはすのは、言語の音を音として分解して、その分解したものを一つ一つの文字であらはすのである。即ち言語の音は意味を表はすものであつて、それは一つづきの音である。それは言語としては、即ち、意味をもつてをるものとしてはそれ以上分解出来ないものであつても、音としては更に之を分解出来る。仮名は、音として分解して得た単位を代表するもので、それが言語を表はす場合には、分解したものを更に結合させて、言語としての一定の音を形にあらはすのである。然るに、漢字は、或意味を表はす一定の音の形全体を分解し分析せず、そのまゝ全体として之をあらはすのである。ここにその間の相違がある。  かやうに仮名は音の形を分析して示し、漢字は分析せず全体をそのまゝ示すとすれば、仮名の方は言葉の音の形を明かに精密に示し、漢字は之を明かには示さないやうに考へられる。また、それも事実である。しかしよく考へて見ると、これは唯反面の事実であつて、全局から見れば必ずしもさう言ひ切れないものがある。  仮名は言語の形を分析して示す。分析すれば、精密に音が示せるやうに考へられるが、分析した為に失はれるものはないかと考へてみるに、それはたしかにあるのである。その明かなのはアクセントである。  言語に於ては意味をあらはす音の一つづきには、必ず一定のアクセントがある。どこを高く、どこを低く、発音するかのきまりがある。同じ音から出来た語であつても、そのアクセントの違ひによつて、別の語になる(即ち、意味が違ふ)。それ故、アクセントは言語としては大切なものであるが、仮名で書けば、このアクセントの違ひは書きわける事は出来ない。  然るに、漢字に於ては、その「よみ」は一定の意味をもつてゐる語の音の形そのまゝである故に、その語に使ふアクセントも亦一定してゐるのであつて、漢字は唯、音を示すばかりでなく、アクセントをも示すといふ事が出来る。かやうな点に於て、漢字の表音性は仮名よりも一層精密であるともいへるのである。  もつとも仮名は音をあらはす文字である故、仮名で書いてあれば、普通の場合は、発音はわかる。勿論アクセントはわからぬまでも、大体の音はわかる。漢字の場合は、文字の音は、よみ方を知らなければ全くわからない。さういふ点に於て仮名の方が便利だといへる。  しかしながら、元来、文字は知らない言語を新しく覚える為のものではなく、わかつてゐる言語を書き、書いた文字から知つてゐる語をおもひ出す為のものである。知らない語であれば、どんなにその発音だけが正しくわかつても之を理解する事が出来ず、又自分の知らない語ならば之を書くといふ事は出来る筈のものではない。それ故、もし読み方のわからない場合には之を人に聞いてどんな語であるかを知るべきであつて、勝手に之をよむべきものではない。  世人はこの点に於て誤解してゐるものが多いやうであるが、まだ読方を知らない文字に出会ひ又はまだ知らない語を書いた文字に出会つた場合に、それがわからないからといつて、之をその文字の責任に帰するのは根本的にあやまつた考であると信ずる。  次に、表意性について考へてみる。  漢字は、意味を表はすものである。たとへ同じ音の語であつても、意味のちがつたものは、違つた文字であらはすのが原則である。それ故、漢字で書いたものは意味を理解するのに容易である。  仮名は、言語を書くのに、語の音を分解して、音に従つて書く。それ故、或る意味をもつてゐる一つづきの音は、一字のもあれば、二字、三字、四字などいろいろある。その上実際の言語としては、音のつながりが、意味にしたがつて区切られてゐるのであるが、普通の書き方としては、その区切が書きあらはされず、ずつとつゞけて書いてある。それ故、どこからどこまでが、一つの意味をあらはすかが、すぐはわからず、読んでみなければならない。(普通の場合は言葉としてはわかつてゐるのであるから、読んでみればわかるが、区切りが明瞭でない故、時として誤読するおそれがある。)それ故、漢字の場合の如く、意味を理解する場合に一目瞭然とは行かない。かやうな点に於て、漢字は仮名よりも数等すぐれてゐる。もつとも同じ表音文字であつても、今日の羅馬字の如きは、一語ごとに区切りがあつて、意味を表はす一かたまりの音は一かたまりの文字によつてあらはされてをり、それが意味を理解する場合に便利になつてゐる。かやうになれば、表音文字であつても、そのかたまりが一つのものとなつて、一つの漢字と同じやうな性質のものとなつたのである。我国の仮名には、まだ、かやうな習慣が成立つてゐないのである。  以上は、漢字と仮名との表音性と表意性とについての大体論である。勿論、我国では漢字を仮名のやうにその意味にかゝはらず専ら表音的に用ゐる用法があつたのであつて、これを万葉仮名といふ。この場合には、その性質は漢字でも仮名と同様である。しかし、漢字はやはり漢字であつて、全く仮名の如く表音文字になつたのではなく、同時に表意文字としても用ゐるのであつて、仮名的用法は、漢字の特別の用法に過ぎない。  又一方仮名は、表音文字で、言語の音を表はすのがその本来の性質であるが、しかし、又その意味によつて之を用ゐる事もある。仮名遣の場合がそれであつて、「い」「ゐ」、「え」「ゑ」、「お」「を」は音としてはそれぞれ全く同じ音であるが、之を同じ処には用ゐず、区別して用ゐるのであるが、どう区別するかといふと、意味によつて区別するのである。即ち「イル」といふ音の語であるとすると、音としては、「イ」は全く同じ音であるが、「入る」「射る」「要る」などの意味の語である場合には「い」を用ゐ、「居る」の意味の語である場合には「ゐ」を用ゐる。「得る」と「彫る」のエも音としては同じであるが、前の意味の語では「える」と書き、後の意味の場合では「ゑる」と書く。これらは仮名の違ひによつて意味の違ひを示してゐるのである。  かやうに、漢字でも必ずしもいつも表意的にのみ用ゐるのでなく、又仮名でも、時には音を表はすのみならず意味のちがひを表はす事もあるけれども、普通の場合に於て漢字は表意文字で、仮名は表音文字である。さうして前に述べたやうに、漢字は意味を示すことをその特徴とするのであるが、しかし音をあらはさないのではなく、しかも、その音をあらはすはたらきは、或る点では表音文字たる仮名よりももつと具体的であつて一層精密であるといつてよい点があるのであり、表意のはたらきに於ては、仮名とは比較にならないほど、明瞭で適切である。仮名は表音のはたらきに於ては、漢字のもたないやうな長所をもつてゐるとはいふものの、又一方からみれば、まだ不完全で不精密な点もあり、又表意の点に於ては漢字にくらべては、まだ不完全で不便な点が多い。  さうして、言語はつまり、思想交換がその目的である故、その最も大切なのは、意味であつて、その音の側にはないのである。音が言語に於て大切なのは意味を伝へる手段としてであるが、文字に書いた場合には、必ずしも音によらなくとも文字として目に見える形だけによつても意味を伝へる事が出来るのであるから、文字の場合に大切なのは、その表音性よりも表意性にあるのである。仮名と漢字とをくらべて見ると、前に述べたやうに、漢字の方がその表意性が著しく意味を伝へるのに便益が多いとすれば、漢字の文字としての価値は仮名にくらべて勝れた点がある事を認めないわけには行かないのである。 勿論私が、文字の意味を大切であるとするのは、その表音性を無視しようとするのではない。ことに、山田孝雄氏が国語史文字篇に文字の本質としてあげられた 一、文字は思想観念の視覚的形象的の記号である。 二、文字は思想観念の記号として一面言語を代表する。  といふ説に対しては、むしろ反対の意見をもつものである。文字は単に一面言語を代表するのではなく、全面的に言語を代表するものと考へるのであつて、言語には必ず一定の音があるもので、文字もこの音をあらはせばこそ文字であるのである。即ち、文字ならば必ず一定のよみ方を伴ふのである。もし、それがなく、只観念思想を表するだけなら文字ではなく符合(記号)にすぎない。実際文字があつても、よみ方を知らない場合があるが、それでも文字である以上は何かきまつたよみ方があると考へるのである。無いとは考へない。又一方文字のあらはす思想観念といふものも只抽象的の思想観念ではなく、言語として一定の音であらはされる思想観念、即ち言語の意味ときまつた思想観念である。さすれば言語をはなれては、文字はないのである。しかし、それにもかゝはらず、言語の用といふ側から見て意味の方が実際上重きをなし、音の方が閑却せられる事は事実である。甚しきは、文字は同じであつて、よみ方が全然違つても、やはり思想を通ずる役目をする事は漢文の筆録を見ても明らかである。  さうして、かやうな事情にあればこそ、更に一層文字のよみ方教育を重視する必要があるのである。  漢字と仮名とが文字としての性質を異にし、それぞれ独特の長所を有すること上述の如くである。さうして、我国では現今この二種の文字を共に用ゐ、同じ文の中に之を混用してゐる。これはどんな意義を有するものであるか。  現代の文に於て、主として漢字で書く語と、仮名で書く語とは概していへば、その文法上の性質をことにしてゐる。即ち品詞の違ひによるといつてよい。助動詞、助詞及び用言の活用語尾は常に仮名で書くのが原則であり、其他の品詞は主として漢字で書くのがならはしになつてゐる。助詞や助動詞及び活用語尾は、古く「てにをは」といはれたものであつて、いつも他の語に伴つて付属的に用ゐられるものであり、其他の品詞は、比較的独立性のつよいものであつて、「てにをは」の類を付属せしめるものである。助詞や助動詞や活用語尾は、語と語との関係や、或は断定、願望、要求、咏歎のやうな意味を言ひあらはして文の構成上極めて大切なものであるが、それは、其他の品詞のあらはす主要なる意味に付帯してあらはされるものであり、その上、いつも他の語の後に付くものである。その主要なる意味をあらはす語を、その意味をあらはすに適当な極めて印象的な漢字で書き、之に伴ふ意味をあらはす「てにをは」の類をその下に仮名で書くのは、これらの各種の語の性質に適つたものであるといふべきである。かやうに漢字と仮名とが適当に交錯し、さうして意味から見ても又音から考へても、漢字とそれに伴ふ仮名とが一団となつて、その前後に区切りがあるのであつて、仮名から漢字に移る所が、自然、音と意味との切れ目となつて、特にわかち書きをしなくとも、わかち書きをしたと同様の効果をあげることが出来るのであつて、読むにも甚便利に容易になるのである。これは極めて巧妙な方法であるといふべきである。かやうに考へて来ると、現今普通に行はれる漢字仮名まじりの文は、一見複雑にして統一がないやうであるが、国語の文の構造の特質を捉へて漢字と仮名との長所を巧に発揮させたもので、我が国民の優れたる直覚と適用の才とのあらはれを見る事が出来るといつて過言ではないであらう。  かやうな点から見ると、漢字をむやみに制限して、之を仮名にかへる事は容易に賛成しがたいのであつて、かやうな事については、もつと広い処から考へて十分の思慮を必要とするのである。