事實の確認 三木清 ※底本・三木清全集 第15卷・1967年12月18日發行・岩波書店/昭和16(1941)年10月28日執筆紙不明  最近東京では煙草飢饉で、私ども喫煙者には苦勞の種となつてゐる。その原因について、責任の地位にある某官吏は、或る新聞記者の問に答へて「かやうに東京で煙草の品不足を來たしたのは靖國神社大祭で地方から參拜のため上京した者が多かつたためだ、新合祀者の遺族だけでも三萬人からあるのだから」と言つてゐる。  夕刊でこの記事を讀んだとき、私は笑ふべきか怒るべきかを知らなかつたのである。煙草の拂底は東京だけに限らないやうだ。現に私はこの頃暫らく鎌倉にゐたのだが、あそこでも煙草を手に入れるのに難儀した。東京での品不足の原因が靖國神社大祭のための上京者にあるといふのもをかしな話である。戰死者の遺族は皆愛煙家なのであらうか。遺族といへば、喫煙の風習のない婦人や子供が先づ我々の眼に浮かぶのである。  某官吏の右の談話は恐らく洒落のつもりであらう。困難な状況にあつて洒落をいつて濟ませるといふのは、これまで餘りにも尊重されてゐる腹藝といふものの一つであらう。だが腹藝では事實を處理することはできないのである。  この時局に煙草などについて不平をいへる義理でないことは我々も承知してゐる。ただ我々の希望するところは、事實を事實として認め、腹藝などはよして、ありのままの事實を正直に知らせて貰ふことである。品不足は煙草のみに限られてゐない。食糧だけはどんな場合にも大丈夫だといはれてゐたのに、今ではその食糧も問題になつてきたのである。それは腹藝で片付くことであらうか。  事實を事實として認めるのでなければ、ほんとの對策は立たない。責任者に先づ必要なのは事實の確認である。そして國民に對しても先づ事實を確認させることが眞に國策に協力させる所以である。腹藝でやつてゆかうといふのは、國民の協力など必要でないと考へることにほかならぬ。