ごりがん 上司小劍 一  先づごりがんといふ方言の説明からしなければならない。言葉の説明は、外國語でも日本語でも、まことに難儀なことで、其の言葉自身より外に、完全な説明はないのだ。言葉をもつて言葉を説明するといふほど愚かなことはない。言葉を説明するものは、言葉の發する音による以心傳心で、他のいろいろの言葉を幾つ並べたとて、其の言葉を底の底まで透き通るほどに説明し得るものではない。しかし人間といふものがかうやつていろいろの言葉を作り上げて、そいつを滑かに使つて來た根氣には驚く。根氣ではない自然だといふかも知れないが、自然の奥には根氣がある。如何に不完全な國語を有する人民でも、それで一通りの用が辨ずるまでに仕上げた根氣は大層なものだ。言語學といふ乾枯らびた學問のやうな教ふるところは別として、たとへば日本語の柄杓といふ言葉を聞くと、それが如何にもあの液體を掬ふ長い柄の附いた器物のやうに思はれるし、箱といへば直にあの四角い容物を考へ出す。(圓いのもあるが)さういふ風に、柄杓と箱との名を取りかへて、「俺にはこれが柄杓で、これが箱ぢや」とごりがんを決め込んでも、世間には通用しない。それまでに言葉といふものの力を深く打ち込んだ根氣は大したものだ。どうせ人間の拵へた言葉と名稱とだもの、それをどツちへ取りかへたとて差支へはないのだが、大勢の人にそれを承知させるのが困難だ。柄杓が箱で、箱が柄杓で、火が水で、水が火であつても、一向差支へはないのだけれど、別に取りかへる必要もなければ、まア在り來りのままでやつて行かうといふことになる。  それでも、言葉や文字の中には長い間にちよいちよい間違つて了つて、鰒を河豚だと思ふやうな人も少しは出來たりしたが、それをまた訛言だの、方言だのと、物識りに顏に、ごりがんをきめ込むこともない。鰒だと言つても、河豚だと名づけても、肝腎の貝や魚は一向何も知らないでゐる──と、こんなことを言ふものもまた一種のごりがんだ。  別に言語學に楯を突いた譯でも何でもない。ごりがんの説明を自然に卷き込んで置かうと思つて、これだけのことを書いてみたのだ。ごりがんとは先づ、駄々ツ兒六分に、變人二分に、高慢二分と、それだけをよく調合してできあがつたかみがたの方言である。「てきさん、どこそこで、ごりがんきめ込んだにゃで」とか、「ごりがんでんなア」といふのを聞き馴れてゐる人には迷惑であらうけれど、これだけのことはぜひ書いておかねばならぬ。 「ごりがん事三月十二日永劫の旅路に上りました。此段お知らせいたします」といふ下手な字の葉書を受け取つたのは、三月十四日で、私はあゝあの老僧も到頭死んだかと、私は知人の訃報を得る度に感ずる痛ましさと寂しさとに打たれつゝ、また人生に對する思索を新たにして、ぼんやり其の葉書を卷いたり舒ばしたりしてゐた。  それにしても、自分の父の死をば、ごりがん事なんぞと戲れて通知する息子も息子だと思つて私は、其の息子の天南といふ名前を眺めてゐた。  生れては死に、生れては死にする隆法(老僧の名)の子は、四人目の天南に至つて、漸く火事が燒け止まるやうに、死なないで育つた。「頃者一男を擧ぐ天南と名づく」なぞと書いた隆法の葉書が、方々へ飛んだ。それから後に生れた子は、いづれも息災に育つて、隆法が老僧と呼ばるゝにふさはしくなつた時分は、三男二女の父になつてゐた。  困つたのは總領の天南であつた。本山の中學校を卒業してから、寺にぶらぶらしてゐたが、兔角父の老僧と氣が合はなかつた。老僧はごりがんの名で通るほどの人物で、檀家の評判はよくなかつたが、世襲住職の眞宗寺で、檀家から坊主を追ひ出すといふことは出來ない上に、また寺を追ひ出さうなぞと思ふ檀家があるほどの不評判でもなかつた。缺點はごりがんだけで、勤めることはちやんと勤めた。しかし天南はごりがんの上に大變人で、また怠惰者であつた。自分に氣の向いた事をさせるとさうでもなかつたが、寺の用となれば、目の敵のやうにして打ツちやらかして置く。禪寺は綺麗だが、門徒寺は汚いと昔しから言ふ通り、隆法の寺も眞宗だけに掃除が屆かないで、本堂の前だけは塵埃もないが、それは皆境内の隅々へ掃き寄せられて雜草の肥料になつてゐる。蛇、蜥蜴、螽●(虫篇に旁が斯:きりぎりす)、そんなものが、偶然に出來た塵塚を棲家にして、夏盛んに繁殖する。葱の白根を餌にして、天南はよく螽●(虫篇に旁が斯)を釣らうとしたが、時折り蛇に驚かされて、逃げ戻つて來たこともある。尻尾の斷れた蜥蜴のちよろちよろと出て來るのが氣味がわるかつた。  巽の隅にある殊に高い塵塚には、草ばかりか、漆の木なぞが自然に生えて、小ひさな森を作つてゐた。其處には殊に氣味のわるい虫が棲んでゐるらしく、片側の裾に水溜りが出來たりして、腹の赤い蠑●(虫篇に旁が原:ゐもり)が蛙とともに棲むが、蛙はよく蛇の餌食になつて、呆れ顏をした蠑●(虫篇に旁が原)に、半ば蛇の口へ入つた淺間しい姿が、見送られてゐた。  天南はよく蛇を擲つて蛙を助けた。幼い時竹片を持つて遊んでゐると、蛙がぎやアぎやア鳴くので、其の悲しさうな聲をたよりに竹片で雜草の中を叩き廻ると、蛇に呑まれかけた蛙が、跛足引き引き危いところを逃げて行つた。其の脚の先きは、もう蛇の毒で少し溶けかゝつてゐるやうであつた。「晩にはあの蛙が大きなお饅頭を持つて禮に來るぞ。」と、父が言つたので、天南はその夜どんなに饅頭を待つたか知れなかつたが、父の言葉は眞ツ赤の嘘であつた。それ以來天南は父を信用しなくなつた。  本堂のお花を取りかへるやうに、父から言ひ付かつたことが度々あつたけれど、天南は一度もそれをしたことがなかつた。須彌壇の花立てには、何時活けたとも知れぬ花の枝が乾枯らびて、焚き付けにでもなりさうになつてゐた。 二 「天南ももう三十ぢやから、妻帶さしてやらんならん。わしは十七で妻帶したもんなア。」と、隆法は二三年前、それを最初にまた最後の上京の時にさう言つてゐた。 「さうですか。」と、わたしは田舎坊主の結婚なんか、別に氣にも留めなかつた。すると隆法老僧は、自慢の白髯のそれも甚だ疎らなのを、無理に兩手で扱きながら、 「歸りに京都へ寄つて、結納を渡して行かんならん。」と、獨言のやうに言ひ言ひ、中くらゐの信玄袋の口を開けて、「白衣料」と、飄逸な字で書いた奉書の一包みの見事なのを取り出した。其の炭色の薄いのが私は氣になつた。 「まア御立派でございますこと。」と、兔角かう言ふものを見たがる妻は、一尺ばかり開いたまゝになつてゐた襖から顏を突き出して言つた。 「いやアもう。」と、老僧は口癖になつてゐることを言つて、少しばかり鼻を蠢めかした。 「白衣料……はいゝね、普通には帶料としてやると、女の方から袴料として半分だけ返して來るんだが、お寺さんは白衣料かね。先方から袈裟料とでもして返して來るんですか。」と、私は老僧の手の裡を覗くやうにして言つた。小指の爪を一寸あまりも長く伸ばした老僧の掌は、其の奉書包みに全く掩はれつくして、包みがまだ兩方へ食み出してゐたが、小指の先きだけは少し見えてゐた。水引が景氣よくピンと撥ね上つてゐた。 「在家ではどんなことをするか知らんし、また寺方でも白衣料と書くかどうか、そんなこと知らん。わしはわしの書きたいやうにするんや。」と、老僧は少しばかりごりがんの本質を露はしかけて來た。 「へえん、お寺さんぢや、お芽出度にも黒と白の水引をお使ひになるんですこと。」と、妻は今まで氣が付かなかつたかのやうにして、老僧の前へにじり寄つて來た。老僧はただ「ふゝん」と笑つて、輕蔑したやうに妻の顏を見てゐた。其の水引には京紅が濃く塗つてあるので、紅白は紅白でも、紅の方は玉蟲色をして、ちょっと見たのでは黒と間違へさうであつた。  老僧は「東京見物に來たのぢや。」と言ひながら、一向見物に歩かなかつた。上野、淺草から丸の内、日比谷邊りを一廻りして來ようかと思つて、私が案内しようとしても、「いやそんなことは煩はしい。かうやつてゆツくり話をしながら、茶を飮んでるのがよい。あんた行きたけりゃ、一人で行くがよい。わしは其の間坐禪組んで待つてる。」と、空とぼけた風で言つた。私が一人で上野、淺草から丸の内、日比谷と、見物して歩いたら可笑しなものだらうと、馬鹿々々しくなつたが、これも老僧のごりがんの一うねりであつたのだらう。 「お嫁さんは、どちらからお出でになるんでございます。」と妻は水引に就いての無知を悟つたのか、テレ隱しのやうに言つた。 「矢張り寺です。寺は寺同志でなア。」と、老僧は持つてゐた煙管の吸口で耳の後を掻いてゐた。ずんど切りの變な形の煙管で、この老僧の持ち物にふさはしいと、私は子供の時から思つてゐた。老僧にも煙管にも、私はそれほど馴染みが深かつたのである。  郷里で、私の父は神主をしてゐた。老僧の寺は十丁ほど東にあつて、私の家から其の天臺に象つたといふ二重屋根の甍がよく見えるし、老僧の庫裡の窓から、私の方のお宮の杉並木や、檜皮葺きの屋根や、棟の千木までが見えたりした。坊主と神主とで、雙方とも退屈の多い職業であつたから、老僧──其の頃は血氣盛りの腥坊主であつたが、持ち前のごりがんはもう見えてゐた──と老神主とはよく往來してゐた。「願念寺のごりがん」と蔭でよく言つてゐたし、願念寺はまた父のことを「仲臣の朝臣」と眼の前でも呼んでゐた。父は本名を重兵衞と言つたのだが、祝詞なぞで、「宮地重兵衞鵜自物鵜奈彌突拔天白」も可笑しいからと言つて別に仲臣といふ名を命けてゐたのである。 「神主の社務所に眠る小春かな」といふやうなことを大きな聲でやりながら、願念寺はノツソリと私の邸の裏門から庭傳ひに、泉水の石橋を渡つてよくやつて來た。方言で文庫と呼ばるゝ猫背をして、鼠の着物に白の角帶、その前のところに兩手を挾み込んで、肩を怒らしてゐるのが、願念寺の癖であつた。自分の寺で盆栽を弄つてゐたまゝの姿で、不圖思ひ付いて、十丁の路を隣りへでも行くやうにしてやつて來るのである。 「願念寺さん、ようお越し。」と言つて、白衣に紫地五郎丸の袴を穿いた父は、禿頭を光らしつゝ煙草盆片手に、薄縁を敷き込んだ縁側まで出迎へると、 「いや願念寺は動きません、罷り出でたるは願念寺の住職隆法にて候。」なぞと戯れをば、莞爾とも笑はずに、口を尖らして願念寺は言つた。こんな時にも懷中にはちやんと、緞子の煙管筒を收めて、ずんど形の煙管を取り出したものだが、どうかすると煙管を忘れて來て、 「いち……ふく……頂戴。」と、氣取つた言ひかたをして父の煙草盆の抽斗に手をかけた。──私は其の頃まだ若かつた願念寺を思ひ出して、今の老僧の姿と相對して坐りながら、ずんど形の煙管の昔しのまゝなのを見て、妙に寂しさが込み上げて來た。 「わしは一體、あんたのお父つあんの友人ぢやがなア、いつの間にか、あんたに横取りされてしもた。」と、老僧は火箸の先きで煙管の雁首をほじりながら、私よりは妻の方を顧みて言つた。「お友達にしちや、だいぶお年が違ひますこと。」と、妻は氣の置けぬ老僧の人柄に早くも親しんでこんなことを言つた。 「さいや。……けどなア、わしとこの人。……」と、ずんど形の煙管で私を指して、「この人のお父つあんとは、矢つ張りこのくらゐ年が違うたが、意氣合てでなア。この人のお父つあんは學問はなし、碁は打たず、盆栽は知らんし、酒を飮む他に能のない老爺やつたが、それで別に話の面白い男でもなかつたのに、わしはあの漢が好きでなア、其漢愚漢と書いてありさうな闊い額を見ながら、默つて煙草を吸うてゐるだけで、氣持ちが好かつたわい。」と、老僧は私の亡き父の想ひ出に耽らうとしてゐるらしかつた。  私が郷里の邸を引き拂つて東京へ來てから十幾年、願念寺の隆法や、天南のことを忘れかけてゐるところへ、隆法が年よりはズツと老けた姿を私の家の玄関へ現はして、昔の風の「ものまう」と言つたのには、取次ぎの下女がどんなに驚いたか、願念寺のごりがんがだんだん甚だしくなるといふことは、郷里から流れて來るいろいろの噂さに混つて聞えてゐたが、私は別段それを氣にも留めなかつたのである。  丁度正月の寒い時であつた。老僧は中くらゐの信玄袋を提げ、セルの被布の胸へ白い髯を疎らに垂れて、頭には芭蕉頭巾を被つてゐた。昔しながらの薄着で、肩が凝ると言つて襯衣は決して着ないから、襦袢の白い襟の間から茶褐色に痩せた斑點のある肌が見えてゐた。 「御婚禮は何時なんでございます。」と、妻は妙に氣がかりな風をして問うた。 「まだきまりません」と、澄み切つたやうなハツキリした言葉で言つて、老僧は快ささうな眼をしながら、口を尖らして、煙草の煙りを眞ツ直にふうツと吹いた。 「見合ひをなすツたんでございますか。」 「いゝえ、そんなことはしません。」 「ぢやア、お互ひに御存じなかたなんでございますか。それはよろしいんでございますね。」と、妻は他人のことながら滿足氣な樣子をしてゐた。 「いゝや、本人同志はまた、ちよツとも知らんのぢや。ふうん。」と、老僧はそろそろごりがんの本領を見せかけた。 「それでお結納は可笑しいぢやございませんか。」と、妻は眉を顰めた。 「年頃になつたから、家内を持たせる。年頃になつたから、片付けてやる。……それでよいのぢや。……生れようと思うて、生れるものはないし、死なうと思うて、死ぬものもまア滅多にないのと同なしことぢや。婚禮だけが本人の承知不承知を喧しく言ふにも當るまい。親の決めたものと、默つて一所になつたらえゝのぢや、他力本願でなア。」と、老僧は事もなげに、空惚けたやうな風をして言つた。 「まア。……」と、妻は呆れてゐた。 三  それから去年まで、私はこのごりがんの老僧に逢ふ機會がなかつた。一咋年の初夏、私の年中行事の一つとして、上國に遊んだ時、麥畑の間を走る小さな痩せた電車で、願念寺の二重屋根を見ながら通つたから、一寸立ち寄つて見ようかとも思つたが、おつくふでもあつたし、老僧の在否も分らなかつたので、停車中の電車の窓から、小學校歸りの子供を呼ぴ止めて、願念寺へこれを持つて行つて呉れと言つて頼んだ。スルと其の子供は嬉しさうな顏をして畦のやうな細路を一散に願念寺の方へ走つて行つた。電車が動き出してからも、小ひさな姿が麥畑の彼方に、吹き飛ばされてでもゐるやうに見えてゐたが、ある藁葺きの家の生垣の蔭になるまで、私は名刺を持つて行つた子供から眼を離さなかつた。  願念寺に近い村の麥畑で、柔かい穂を拔いて麥笛を作つたのが、ピイピイとよく鳴つたのを夏外套のかくしに入れて、私は東京へ歸つて來た。それが偶然音樂會の切符とともにかくしから出て來たので、妙に懷かしい氣持ちで見てゐたのは、上國の旅行後二週問ほど後で、空からは陰鬱な五月雨を催しかゝつてゐた。其處へ丁度郵便が一束になつて投げ込まれた中に、老僧からの葉書が混つてゐた。 「……東京にXXさんといふ人の居るのを忘れかけてゐるところへ、名刺のことづけで、漸く思ひ出し申し候。いづれまた出て來るであらう、其の節は久方振りに一ボラ試み度樂み居り候に、たうとう出て來なかつた。(老僧も時よ時節で、この節は少しづつ江戸辯を使ふやうになつた。それから言文一致とやらも、ちよい/\やらかしてみるが、こいつなか/\便利ぢや)そこで、塞夜ならずとも、鍋を叩いて、大に文字禪を提げ、天晴一小手進上申し度候ところ、どう考へても、筆ボラは舌ボラの妙には不如、儉約して葉書に相場を卸し申し候。筆法螺舌法螺。畢竟無駄法螺。渇來茶飢來飯。默々兮眞法螺。痩電灯の下にて、叩鍋僧和南」  これだけのことが、細かい字で書いてあつた。私は老僧の村にも電燈會社の蔓が延ぴて、あの簿暗い庫裡にタングステンの光つてゐるさまを想像するより外に、この葉書から感得する何ものもなかつた。それにしても天南と其の若い妻とはどうしてゐるのか、それが知りたいと思つた。  ところが去年の新緑の頃、また上國に旅をして、大阪船場の宿で雨に開ぢ籠められてゐると、夕方電話がかゝつて來た。取り付いだ女中がくすくす笑つてゐて、何んといふ人からかゝつたのか一向分らない。間ぴ詰めると、「ごりがんからや言やはりました。」と、袖を顏に當てて、笑ひ轉げた。  あの老僧と電話といふものとの對照が既に妙である。電燈を點けたり、電話をかけたり、流石のごりがんも征服されたかと思ひながら、電話口へ出ると、聲は老僧ではなくて、若い女らしく、「今夜これからお伺ひしようと思ふがいかがでせう。御都合がわるければ明朝でも結構です。」と、ハツキリした東京辮であつた。共の夜は奮友と寄席へ行く約束がしてあつたから、「明朝お待ちしてゐます。」と、答へて私は電話 を切つた。  すると、翌朝まだ私の寢てゐるうちに、老僧はやつて來た。取り敢へず次ぎの室へ通させて置いて、私は顏を洗ひ、食事にかゝつたが、隣りの室では、咳拂ひと、吐月峯を叩く音が頻りに間えた。其の咳拂ひも、其の吐月峯を叩く音も、私には殆んど幼馴染のもので、調子に聞き覺えがあつた。 「喫飯か。」と、言つた聲とともに縁側の障子がさらりと開いた。老僧が待ち兼ねて闖入して來たのである。手には二三年前東京で見たあの中くらゐの信玄袋を提げてゐる。 「失禮します。」と言つて、私は食事を續けた。老僧は給仕の女中が進むる座蒲團の上に痩せた膝を並べつゝ、キチンと坐つた。薄セル被布の下に痛々しく骨張つた身體が包まれてゐた。 「喫飯が何んの失禮なもんか。次ぎの間で待たすのが、よつぼど失禮ぢや。煙草盆一つ出さずに。」と、老僧はむつかしい顔をして言つた。 「まアお煙草盆も出せえしまへんでしたか。 と女中は驚いたやうな顏をした。 「なに、吐月峯の音がしたよ。」と私は笑ひながら言つた。 「いや、煙草盆はあるにはあつた。けどもそれはわしに出した煙草盆やない。前に來た客にでも出したんぢやらう。それがそんなり置いてあつたんで、もとより火も何もない。わしはこの通り御持參の煙草盆で吐月峯だけを借つたんぢや。」と、老僧は袂の中をもぐもぐ探つて、ブリキ製の輕便點火器を取り出した。痩せた指の間から「賃用新案……」の文字が讀まれた。 「なかなかハイカラ坊主になりましたね、電燈は點ける、電話はかける。そんなものは持つ。……」と、矢張り笑ひながら言つて、私は食後の茶を飲んでゐた。 「いやア、便利ぢやからと言つて、人が勸めるんで、やつてはみるが、あんまり便利でもないて。……第一電燈の火では煙草が吸へんし、電話では相手の顏が見えんし、……人はどうか知らんが、わしは相手の顏が見えんと話をする氣にならん。そんなもんの中では、まだこれが一番ましぢや。」と言ひ言ひ、老僧は其の點火器を弄つてゐた。 「さうですか。」と、私は気のない返事をして、茶を飲み績けた。 「これさ、主人ばかり茶を飲んで、客に茶を出さんといふことがあるか。」と、老僧は叱るやうに言つた。 「えらいひつ禮でおましたなア。」と、女中も笑ひながら、老僧に茶を出した。 「其の茶碗、疵がある、そつちの無疵のと變へてんか。」と、老僧は埋れ木の茶托にのつた六兵衞の茶碗を見詰めつゝ言つた。 「何處にも疵はおまへんがな。」と、女中も茶碗を見詰めて、怪訝な顔をした。 「いやある。糸底に疵がある。臺所で洗ふ時に附けたんぢやらう。」と、老僧は眼を据ゑて睨むやうにした。女中は默つて其の茶碗を取上げ注いだ茶をこぼしへあけて、糸底を改めると、老僧の言つた通り、糸底が少し缺けてゐた。 「まア、ほんまや、あんたはん千里眼だツかいな。」と、女中は呆れたやうな顏をした。 「わしは器物に疵のあるのが嫌ひでなア、長年の經驗から直覺するんや。」と、老僧は得意らしく言つた。 「あなたはもう樂轄居でせう。まだ孫は出來ませんか。」と、私は手づから無疵の茶碗に茶を注いで老僧に進めつゝ言つた。 「孫どこかいな。天南の嫁に就いて、話がある。そいつを是非あんたに聽いて貰ひたうてな。新聞に宿が出てたから、わざわざやつて來て、昨夜電話をかけるとペケ、忌々しいから無理にも押し込んでやらうかと思うたが、まアまア辛抱して、今朝早う來て見ると、次ぎの問で待たしくさる。業腹で業腹で。」と、老僧は膝を乘り出した。 四  老僧の話に據ると、天南は自分へ何んの話もなく、親が勝手に決めた縁談に、別段不服のやうでもなかつたが、婚禮の當日、花嫁が到着のどさくさ紛れに、何處かへ姿を隱して了つた。いざ三々九度の盃といふ時になつて、花聟の影を逸したのだから、混雑に混雑が加はつて、庫裡も、對面所も、本堂も、人々が織るやうに駈けちがつた。老僧もヂツとしてはゐられないので、病身ながら其の時はまだ生きてゐた老坊守りとともに「須彌壇の下まで探がしたが、鼠矢が一面に散らばつてゐるだけで∴積つた塵埃の上に人の足痕なんぞはなかつた。  本山の役僧が、末寺からの納め金を使ひ込んで、蒼い顏をして、願念寺に逗留してゐるうちに、便所で舌を噛み切つて死んだといふのは、老僧から三代も前のことだが、其の厠は今も戸を釘付けにしたまゝ、對面所の縁側の奥に殘つてゐる。老僧は念の爲めに其處まで改めたが、長い間に釘は腐つて、開けずの厠の戸が風にパタパタしてゐた。さうした蜘蛛の巣だらけの氣味のわるい中に、天南が潛んでゐようとも思はれなかつた。 途方に暮れた末、其の夜は取り敢へず花聟急病、祝儀延引と觸れ出して、媒妁人にも檀家からの手傅人にも皆な引き取つて貰つたが、花嫁と其の父母とは暫らく願念寺に泊り込んで、天南が姿を現はすのを待つてゐた。  三日、四日、五日、七日、十日、……天南の行方は皆目知れなかつた。「どうしたもんでせうか。一應引き取つて頂いては。」と、老僧が花嫁の親の、これも可なりな老僧に向つて、平生のごりがんがすつかり肩を窄めつゝ、氣の毒さうにして言ふと、 「いや、わしの方では結納まで貰うて、一旦差し上げたもんぢや。連れて歸ることは金輪際ならん。嫁にすることが出けなんだら、娘にして貰うて下され。またあんたの方から他へ片付けょうと、このまゝ此寺で婆にして了はうと、それはあんたの勝手ぢや。わしも用のある身體で、何峙までベンベンと逗留も出けんから、婚禮の盃の代りに親子固めの盃をして貰はう。」と、反對にごりがんをきめ出した。  乃でまた媒妁人を呼ぴにやると、媒妁人は花聟が戻つて來たのだと早合點して、喜ぴながら飛んで來たが、自分の役目は若い男女を取持つのでなくて、老僧夫婦と花嫁とに親子の盃をさせることであつた。 「XXさん、わしはまだあの時ほど心配したことは、前後にないがな。房子(坊守の名)はあれが因で死によつた。」と老僧は此處まで話して、ホツと息を吐いた。其の眼には涙があつた。 「それからどうしたんです。」と、私は少し性急に間うた。 「まア待つとくれ、ゆつくり話しするがなア。」 と、老僧は例のずんど形の吸口の煙管で、ゆるゆる一服吸ひ付けてから、 「XXさん、あんなもんかなア、今の若いもんといふもんは。……親のきめた縁談が不承知ぢやなんて、滅相な。」と老僧は驚いた顏をした。 「それはさうでせう、あなたの女房ぢやない、天南さんの女房でせう。人間は品物ぢやないから、さう勝手に行きませんよ。」 「勝手ぢや?……怪しからん、親が子の嫁をきめてやるのが、何んで勝手ぢや。」 「あなたは家の中に電燈を點けても、頭の中に行燈をとぼしてるからいけない。何百年も昔しの人だつて、さういふ場合には、一應本人の了簡を訊いてからと挨拶して、親の一存で子の縁談は決めなかつたものでせう。況して今時そんな乱暴な。」 「全體あんた等が、そんなことを言うて、若い者にけしかけるからいかんのぢや。まア聞いとくれ。……」と、言つて老僧は語り續けた。──  天南の行方は、其の後一と月ほども分らなかつた。ところが、少女歌劇で名高いあの寶塚の山の上に、無住の庵室があつて、荒れ放題に荒れてゐたが、諸國慢遊の旅畫師が來て、暫らく其處を貸して呉れと言つたので、村人はどうせあいてゐるのだから、火の用心さへ氣を付けて呉れるなら、入つてもよい。しかし雨が漏らうと床が腐らうと、手入れは出來ない。それから幾ら壞れてゐようと、腰板なんぞ剥がして、焚きものにすることはお斷りだと念を押して旅畫師をその庵室に住はせた。旅畫師は可なりの畸人で、いろいろの變つた動作が村人を驚かしたが、別に害にもならないことなので、皆笑つて見てゐた。  この振書師と天南とは何時のほどにか交りを結んでゐた。それを老僧は少しも知らなかつたので、少女歌劇とやらを觀に行くと言つて時々寶塚の方へ出かける天南をば、それも女欲しさの物好きと睨んだから、一目も早く家内を持たせるに限ると思つて、老僧の眼にも十人並を少し優れたあの娘なら、無斷で宛行つても喜ぶことと思ひの外、祝言の盃の間際を脱け出して、山の上の荒れた庵室に旅畫師をたよつたのであつた。  若しやと思つて、老僧は寺男に寶塚の方を探させたのであつたが、山の上の庵室へまでは氣が付かなかつた。もう死骸になつて、何處かで腐つてゐるのではないかと、老僧よりも坊守りが悲嘆の涙にくれてゐたが、生死一如と觀念瞑目して、老僧は疎らな腮髯を扱きつゝ、新たに養女となつた絹子をば、生みの娘のやうに可愛がつてゐた。  其のうちに漸く、山の上の荒れ庵室に、旅畫師と二人で自炊をしてゐるといふ天南の消息が判つたので、なまじひ他のものが行つては、また奥深く取り逃がすといけないと思つて、天氣の好い日、老僧が草履穿きで、杖を力にとぽとぼと山を登つて行つた。庵室の屋根はつい其處に見えてゐるのに、いざ辿り着くまでの細路がなかなか遠くて、石經斜なりといふ風情があつた。もう三月ではあつたが、山懐には霜柱が殘つてゐた。  久しく喘息の氣味で惱んでゐた老僧は、屡々絶え入るばかりの咳をして、里を見下ろす高い徑で杖に縋つて息んでゐた。其の咳の響きが庵室まで聞えたか、破れ戸が少し開いてまた閉つた。漸くに庵室の門まで辿り着くと、扉のなくなつた屋根の下には、樵夫が薪を積み上げて、通せん坊をしてゐたが、徑は其の脇の土塀の崩れたところに續いて、其處から人の往來する痕があつた。  戸の開つてゐる玄開へかゝつて、「頼まう」と呼ぶと、内郡でごとごとする昔がして、頭髮が肩まで伸ぴて垂れ下つて垢だらけの男が、汚れくさつた布子の上へ、犬の皮か何かで拵へた胴着のやうなものを羽繊つて、立ち現はれた。其の額には山伏のやうに兜巾を着けてゐた。これが旅畫師であらう、成るほど妙な男ぢやわいと思つて、老僧は何氣なく、畫家の香雲さんといふお方にお目にかゝりたい。わしはかういふものぢやがと、古帳面の端を切つて拵へて來た「願念寺住職橋川降法」と、大きく書いた手札を渡すと、「文人畫の香雲はわしぢやが、まア上りたまへ。」と、横柄なことを言つた。隨分老けては見えるけれど、まだ三十に足らぬ若造で、老僧は何糞ッと思つたが、腹を立てた爲めに天南を隱されると困ると考へたから、「御免下さい」と丁寧に會稗して、朽ちた式臺から上りかけたが、兎ても足袋では歩けるところでないので、一旦脱いだ草履をまた穿いて、塵埃だらけの中へ入つて行つた。見れば其の旅畫師はガタガタと日和下駄で破れ畳の上を歩いてゐるが、ところどころ雨漏りがして、畳から床板まで腐れ拔けた大きな穴から青々とした笹の葉が勢ぴよく伸ぴてゐた。それでも佛間になつてゐる一番奥には、破れながらも、畳が滿足に敷かれてゐて、經机の上に筆や紙もあり、傍には香雲と名乘る其の旅畫師の描いた山水だの蘭だのが、取り散らかつてゐた。まんざら下手でもないそれ等の畫を見て、老僧は少し感心しかけた。  丁寧に初對面の挨拶をしても、香雲は相變らず横柄に頷いてゐたが、やがて、「天南といふものが先生のお世話になつて居りますさうで、あれはわしの長男ですから、寺を相續する身分ぢやで、一應お歸しを願ひたい。と、老僧に取つては、殆んど生れて初めての慇懃さで言ふと、香雲は「ふゝん」と笑つて、「あれはお前の倅か。と言つた切り、ヂツと老僧の額を見詰めてゐた。ほんたうならごりがんをきめ込みたいところを、老僧はなほも患を殺して、俯向いたまゝでゐた。次の間で草履を脱いで、破れ畳の上に坐つてゐるのだが、唯一つの火鉢は香雲が自身に抱へ込んで客には煙草盆も座蒲團も出さない。 「どうか天南に逢はして頂きたいので。と、なほも泣き付くやうに言ふと、香雲はうるささうにして、「天南、……天南。」と、佛壇の方に向つて呼んだ。すると何を入れる爲めなのかと先刻から思つて見てゐた佛前に据ゑてある二つの長持の一つの方の蓋が、むくむくと動いて、「現はれ出でたる……」と、義太夫の節で唸りながら、長持の蓋を兩手に差上げつゝ、藁屑だらけの姿を見せて、大見得でも切りさうな樣子をしたのは、疑ひもない天南であつた。しかし、瞳を定めてよく見るまでは、全くそれと分らぬまでに、僅かの月日は彼れの樣子を變り果てたものにしてゐた。  まるで狂人ぢやと、其の時老僧は思つて、我が子ながらも氣味わるく、恐ろしくて、何んともいふことが出來なかつた。 「XXさん、よう聞いとくれ、わしは其の時、何の涙か知らんが、ぼろぼろと頬を傳うて涙が流れた。ほんまに。と老僧は兩眼に涙をいつぱい溜めて此處まで語つた。 五  それ以來天南は全く變つた人間になつて了つた。時々ひよつこりと寺へ歸つて來るが、默つて戻つて、默つて飯を喰つて、默つて寢て、默つて歸つて行くことが多い。香雲の弟子になつて、文人畫の眞似事が出來るので、寺へ歸つて來た時、襖へ筍を描いたり、茘枝を描いたり、それに小生意氣な自贊をして行つたりした。  嫁に貰ふ筈で養女にして了つた娘は、其の後縁あつて、兵庫の寺へ片付けたが、西派の有福な門徒寺で、願念寺の坊守になるよりは仕合はせであらうと、老僧は漸く重荷を卸した氣になつたが、それにしてもあの優しい、素直な、氣だてのよい娘を、どうして天南が嫌つたのか、まだ兵庫へ片付かぬ前、山から歸つた天南に娘が挨拶をしても、天南は横を向いてゐた。 「XXさん、天南は不具者ぢやないかと、わしは思ふのぢやが、あんたはどう考へる。と、 老僧は舶場の宿で長話の末にさう言つて、こくりと首を傾けた。首を傾ける度に、骨が可なり大きな音を立てて鳴るのが、老僧の昔しからの特徴で、右に左に、首振り人形のやうにすると、骨がコトンコトンと鳴つた。それが老僧には按摩の代りにもなつたのである。  精紳的に不具なのか、肉體的不具なのか。私は其の天南といふ男を少し研究してみたいと思つた。小學校へ通つてゐる頃の天南を、私は薄く覺えてゐるけれど、其の後どんな男になつたか、私は全く知らない。それで其の日は先づそれきりとして老僧に別れたが、いづれ二三日のうちに願念寺を訪ふ約東をして置いた。さうして老僧と二人で、山の上の荒れた庵室に、香雲といふ旅畫師と天南とを見に行くことに定めた。  天南には弟が二人と、妹が二人とあるけれど、次ぎの弟は小學校も卒業しないで、諸國を彷徨うた末、今は滿洲に居るさうで、もとより住職を繼ぐ資格もない。季の弟は不如意な寺の財政の中から、無理に中學校へ通はしてあるけれど、これは何時物になるやら分らぬ。女の子の姉の方は或る山寺の梵妻になつて、生れた寺を省みることも尠く、十九になる其の妹が老僧の世話を一手に引き受けてゐるのである。天南の家出から落膽して病み付き、藥も碌に服まずに死ん だ坊守房子の一週忌が、もう間もなくやつて來ると言つて、老僧は鼻を詰まらせてゐた。 「わしは肉身の縁が薄い生れぢや。」と、諦めたやうに言つて、私の宿から歸つて行く老僧の後姿を見てゐると、初夏の青々とした世界にも秋風が吹いてゐるやうで、いかつた肩には骨が露はに突つ立つてゐる。  約束の日は朝から好く晴れてゐた。船場の宿の座敷から眺めてゐると、梧桐の梢の青々としてゐる庭越しに、隣りの家の物干臺が見えて、幅一寸に長さ五寸ほどの薄い板が、●(魚扁に旁が及:めざし)のやうに細繩で繋いで、ドツサリ乾してあつた。あれは何んだらうと、私は先頃から度々考へたが、どうも分らなかつた。老僧にきくと、せゝら笑つて、「まアよう考へてみなされ。分らんことは苦心して知る方がえゝ。と、ごりがんの本性は違へずに、肩をいからして言つてゐた。  それ切り其のことを忘れてゐたが、今日はまた早くから、麗はしい朝日に照らされて、其の黄色い薄板が、●(魚扁に旁が及:めざし)のやうに乾してある。柔かい新緑の風は、こんなに市塵の深い瓦の上へも吹いて來て、乾された簿板が、搖々と動いてゐる。今日こそあれが何であるかを確めたいと思つて、私は欄千の側まで出て、伸べ首をしてゐたが、見れば見るはど、あんな木の端のやうなものを、どうしてあゝ大事にするのかと、それが分らなくなつた。掃除に來た女中に向つてきかうかと幾度か思つたけれど、老僧の言つたやうに、自分で考へて知つたのでなければ値打ちがないやうな氣がして、頻りに智慧を絞つたが、どうも分らない。  膳部を運んで來た女中にきかうとしては、何だか老僧の言葉を反故此にするやうに思はれ、この些細なことが俄に大事件の如く考へられて來て、私は輕い悶えさへ感じた。 「姉さん、あれ何んだね。彼處に干してあるあれ。」と、私は到頭思ひ切つて、隣家の物干臺を指さした。食事が濟んだので、茶をいれかけてゐた女中は、其方を振り向いて、「あれだツか。」と氣のない返事をしたが、「くし(櫛)でひよう。」と、事もなげに言つた。しかし私はまだ分らなかつたのである。くしをば串と解した私は、あんな幅の廣い串があるものか、事によるとこれからそれを細く割つて串にするのかも知れないが、それにしては短か過ぎるし、それに串は大抵竹ときまつてゐるのに、あんな本で串を拵へてどうするのか、團子の串にでもなるのであらう。けれども昨日からちよいちよい見るところでは、あれを扱つてゐる人が串にしては少し丁寧にやり過ぎてゐると思つて、私は不審の首を傾げてゐた。女中が膳部を下げてから、私はまた欄干の側へ出て、更に其の●(魚扁に旁が及:めざし)のやうな簿板が徴風に搖々してゐるのを眺めてゐたが、どうも串とは受け取れなかつた。  初夏にしては冷かな朝風が吹いて、宿の褞袍も重くはなかつた。串の疑問がどうしても解けないまゝに、私は褞袍を袷に着更へ、袷羽織を引ツかけて、ブラリと外へ出た。行く先きはもとより願念寺であつた。  客の込み合大きな郊外電車から、痩せ衰へたやうな小さな電車に乘り換へると、相客は多く草鞋穿きの道者連であつた。牡丹畑の見える村を過ぎて、縞のある大きな蛇の出さうな藪の間を通り、溪流に架けた危ツかしい橋を渡ると、眼の前に一帶に貧乏村が開けて馴染の深い願念寺の二重屋根が右手の方に見えた。電車を下りると、畑道が細くうねつて、絲のやうに願念寺へ續いてゐる。土が其のまゝ人になつたやうな農夫に、三人に行き逢つたが、無智と蒙昧との諸相に險惡を加へて、ヂツと私を見る濁つた眼が凄いやうである。最も多く天地の愛を受けて、自然の惠に浴することの多い人たちが、どうしてあんなに嶮しい顏になるのであらうか。私は田園に出る度に、土と親しみつゝ働く人々の姿を見て常にさう思ふのである。路傍の麥の穗は、丁度笛を作るのに頃合ひなほど伸ぴてゐた。  願念寺の庫裡の入口に立つと、足音を聞き付けたらしい老僧の聲で、早くも「ずツとお上り」と言つた。庫裡の一室は畳が破れて、自然木の大きな火鉢が置いてあつた。老僧は黒い布子の上に黄色いちやんちやんのやうなものを着て火鉢の前に端然と坐つてゐたが、幾ら心易い中でも、禮儀は禮儀だと言つたやうな顏をして、丁寧に挨拶をした。 「今日はあんたの案内で、山登りをせんならんと思うて、少し心配してたら、それに及ぱんことになつた。えてもんが向うからやつて來よつた。まるで出山の釋迦や。と、老僧は茶を淹れながら言つた。すると突然横の方の破れ障子の蔭から轉げ出すやうにして、一人の男が現はれた。 「天南です。お久しおます。」と、莞爾々々してゐる其の面ざしは、どうしても坊主顏であつた。頭髮も短く刈り、着物もさッぱりして、出山の釋迦といふ姿は少しもないのみか、親の老僧が殆んど骨と皮とに痩せてゐるのに比べて、これはデクデクと肉付きがよかつた。 「君は畫を習つてるんですか。」と、私が間ひかけると、「えゝ。……これが東京でいふしやれといふ、もんだツせ、解りまツか。と、北叟笑ひをした。  別にさう大して畸人とも變人とも思はれないで、後家の質屋にでも鑑定の附きさうな田舎坊主であつた。 「君は女嫌ひだツてほんとですか。」と、私はまた問ひかけてみた。 「さア、どう見えます、あんたの眼では。」と、天南は澄まし込んでゐた。あの張り切つたやうな體格から考へても、女嫌ひでは通らなさうなのに、或は身體が不具ででもあることかと、私は一種の痛ましい感じに打たれながら、天南の樣子を見詰めてゐた。 「また山へ歸るんですか。」 「えゝ。これはしやれやおまへんで。……下界は厭やだす。けどなア、飯だけは下界の方が可味いので、時々喰ひに來たりまんね。飯さヘなかつたら下界に用はない。」ど言ひ言ひ立つて天南は臺所の方へ行つて了つたが、それきりもう姿を見せなかつた。老僧は何時の間にか鼻の先きに汗を浮べて、ヂツと拳を握り詰めてゐた。 六  それ以來、私は老僧に逢はなかつた。もう一度大阪の宿へ尋ねて行くかも知れないといふことであつたから、二三日心待ちにしたまゝで、東京へ歸つて了つた。  この最後の對面の時、老僧は蟲が知らしたとでもいふのか、「XXさん、わしが死んでも時々は思ひ出して呉れるやろな。思ひみ出す種にこれを一つ進ぜよう。」と言つて、朱●(土扁に旁が尼:でい)の急須を一つ呉れた。地肌が澁紙のやうに皺を見せた燒き方なので、老僧は澁紙●(土扁に旁が尼:でい)ぢやなぞと言つてゐた。  歸りに京都で宇治の新茶を買つて、早速其の澁紙●[土扁に旁が尼]の急須で淹れて飮んだことを、老僧に知らしてやると、「澁紙はうい奴にて候、仕合はせな奴にて候。貧衲はまだ新茶に縁なきに、彼れは早や其の香味を滿喫し居る由、舊主人も爾の幸運を喜んで居るとお傳へ丁され度候喉。といふ葉書が來た。老僧はまだ宋●(土扁に旁が尼:でい)、紫●(土扁に旁が尼:でい)、鳥●(土扁に旁が尼:でい)といろいろの急須を有つてゐて、それに取つかへ引つかへ粗末な茶を淹れて愛翫してゐたやうであつたが、子に縁が薄いので、急須をば子のやうに思つてゐたのかも知れない。  今年の一月に年始状を出して置いたが、先方からは何んとも言つて來なかつた。昨年の正月だつたか、骸骨の畫を書いた上へ、「ごしごしとおろす大根の身が滅りて殘りすくなくなりにけるかな」とした老僧の葉書が、多くの「謹賀新正」の中に混つてゐたのを思ひ出して、私はいよいよ大根が摺り減らされたかと、哀はれに思つてゐたが、一月も末になつてから、子供の字で「賀正」としたのが老僧の名で來た。さうして其の次ぎの日に、苦惱の痕のまざまざと見られる調はない字で、「世間並の流行感冒に罹つかつて漸く命は取り止めたり、それも束の間、肺がわるうなつて、旦夕に迫る」とした葉書が來た。偖こそと私は折り返へして、「何か喰べたいものでもあれば、還慮なく言つて來て下さい。直ぐ迭ります」と書いてやると、一週側ほどしてから、矢張り苦しさうな筆蹟で、「折角の御意、差し當り何も欲しいものはなけれども、流星光底長蛇を逸してはと、一日一夜考へ通した末、鮒の雀焼きを所望いたす。成るべく小なるがょし。それから寒夜頸筋の寒きに惱む。お女房の肩掛の古いのがあつたら一つ惠みたまヘ。頸卷き一つにも不如意な貧衲の境界を御身は如何に觀る。當より得る快さは曾つて知らねども、世貧より味ふ樂みは五十八年來嘗めつくしたり。……」として、まだ何か書きたかつたまゝで、筆を投げたさまが、葉書の餘白に現はれてゐる。表の宛名は例の子供の字であつた。  そこで私は、早速千住まで鮒の雀燒きを買ひにやつて、毛絲の肩掛けとともに迭つてやつた。すると直ぐ、「うまいあたゝかい、うれしい」と書いた苦し氣な葉書と、「鮒の雀燒を喰ふと、また雀の鮒燒きが喰ひたくなつた。隴を得て蜀……」と、これは中途で切れたながら、割合に元氣らしい字の葉書とが二枚一所に來た。  雑司ケ谷の鬼子母神へ行つて、雀の燒とりを買つて來て送つてやらうかと思つてゐるうちに、三月となつて、私は新らしい筆を起さなければならぬ長篇の準備に取りかゝつて、暫らく老僧のことを忘れてゐると、 「ごりがん事……永劫の旅路に」といふ天南からの訃報が來たのであつた。早速天南に宛てて、香料を途つておいたが着いたか、着かぬか、それさへ分らない。  近頃になつて上國から來た人の又聞の話に據ると、老僧の遣骸は滿洲に居る次男が歸つて來るまで、其のまゝにしてあつたが、次男のところがなかなか知れなかつたので、歸り着くまでに半月の餘もかゝつたといふことであつた。(大正九年)