普請中 森鴎外  渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。  雨あがりの道の、ところどころに残つてゐる水溜まりを避けて、木挽町の河岸を、逓信省の方へ行きながら、たしか此辺の曲がり角に看板のあるのを見た筈だがと思ひながら行く。  人通りは余り無い。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しながら行くのに逢つた。それがら半衿の掛かつた著物を著た、お茶屋の姉えさんらしいのが、何か近所へ用達しにでも出たのが、小走りに摩れ違つた。まだ幌を掛けた儘の人力車が一台跡から駈け抜けて行つた。  果して精養軒ホテルと横に書いた、割に小さい看板が見附かつた。  河岸通りに向いた方は板囲ひになつてゐて、横町に向いた寂しい側面に、左右から横に登るやうに出来てゐる階段がある。階段は尖を切つた三角形になつてゐて、その尖を切つた処に戸口が二つある。渡辺はどれから這入るのかと迷ひながら、階段を登つて見ると、左の方の戸口に入口と書いてある。  靴が大分泥になつてゐるので、丁寧に掃除をして、硝子戸を開けて這入つた。中は広い廊下のやうな板敷で、ここには外にあるのと同じやうな、棕櫚の靴拭ひの傍に雑巾が広げて置いてある。渡辺は、己のやうなきたない靴を穿いて来る人が外にもあると見えると思ひながら、又靴を掃除した。  あたりはひつそりとして人気がない。唯少し隔たつた処から騒がしい物音がするばかりである。大工が這入つてゐるらしい物音である。外に板囲ひのしてあるのを思ひ合せて、普請最中だなと思ふ。  誰も出迎へる者がないので、真直に歩いて、衝き当つて、右へ行かうか左へ行かうかと老へてゐると、やつとの事で、給仕らしい男のうろついてゐるのに、出合つた。  「きのふ電話で頼んで置いたのだがね。」  「は。お二人さんですか。どうぞお二階へ。」  右の方へ登る梯子を教へてくれた。すぐに二人前の注文をした客と分かつたのは普請中殆ど休業同様にしてゐるからであらう。此辺まで入り込んで見れば、ますます釘を打つ音や手斧を掛ける音が聞えて来るのである。  梯子を登る跡から給仕が附いて来た。どの室かと迷つて、背後を振り返りながら、渡辺はかう云つた。  「大分賑やかな昔がするね。」  「いえ。五時には職人が帰つてしまひますから、お食事中騒々しいやうなことはございません。暫くこちらで。」  先へ駈け抜けて、東向きの室の戸を開けた。這入つて見ると二人の客を通すには、ちと大き過ぎるサロンである。三所に小さい卓が置いてあつて、どれをも四つ五つ宛の椅子が取り巻いてゐる。東の右の窓の下にソフアもある。その傍には、高さ三尺許の葡萄に、暖室で大きい実をならせた盆栽が据ゑてある。  渡辺があちこち見廻してゐると、戸日に立ち留まつてゐた給仕が、「お食事はこちらで」と云つて、左側の戸を開けた。これは丁度好い室である。もうちやんと食卓が拵へて、アザレエやロドダンドロンを美しく組み合せた盛花の籠を真中にして、クウヱエルが二つ向き合せて置いてある。今二人位は這入られよう、六人になつたら少し窮屈だらうと思はれる、丁度好い室である。  渡辺は稍々満足してサロンヘ帰つた。給仕が食事の室から直ぐに勝手の方へ行つたので、渡辺は始てひとりになつたのである。  金槌や手斧の音がばつたり止んだ。時計を出して見れば、成程五時になつてゐる。約束の時刻までには、まだ三十分あるなと思ひながら、小さい卓の上に封を切つて出してある箱の葉巻を一本取つて、尖を切つて火を附けた。  不思議な事には、渡辺は人を待つてゐるといふ心持が少しもしない。その待つてゐる人が誰であらうと、殆ど構はない位である。あの花籠の向うにどんな顔が現れて来ようとも、殆ど構はない位である。渡辺はなぜこんな冷澹な心持になつてゐられるかと、自ら疑ふのである。  渡辺は葉巻の烟を緩く吹きながら、ソフアの角の処の窓を開けて、外を眺めた。窓の直ぐ下には材木が沢山立て列べてある。ここが表口になるらしい。動くとも見えない水を湛へたカナルを隔てて、向側の人家が見える。多分待合か何かであらう。往来は殆ど絶えてゐて、その家の門に子を負うた女か一人ぼんやり佇んでゐる。右のはづれの方には幅広く視野を遮つて、海軍参考館の赤煉瓦がいかめしく立ちはたかつてゐる。 渡辺はソフアに腰を掛けて、サロンの中を見廻した。壁の所々には、偶然ここで落ち合つたといふやうな掛物が幾つも掛けてある。梅に鷺やら、浦島が子やら、鷹やら、どれもどれも小さい丈の短い幅なので、天井の高い壁に掛けられたのが、尻を端折つたやうに見える。食卓の拵へてある室の入口を挾んで、聯のやうな物の掛けてあるのを見れば、某大教正の書いた神代文字といふものである。日本は藝術の国ではない。  渡辺は暫く何を思ふともなく、何を見聞くともなく、唯姻草を呑んで、体の快感を覚えてゐた。  廊下に足音と話声とがする。戸が開く。渡辺の待つてゐた人が来たのである。麦藁の大きいアンヌマリイ帽に、珠数飾りをしたのを被つてゐる。鼠色の長い著物式の上衣の胸から、刺繍をした白いバチストが見えてゐる。ジユポンも同じ鼠色である。手にはヲランの附いた、おもちやのやうな蝙幅傘を持つてゐる。渡辺は無意識に微笑を粧つてソフアから起き上がつて、葉巻を灰皿に投げた。女は、附いて来て戸口に立ち留まつてゐる給仕を一寸見返つて、その目を渡辺に移した。ブリユネツトの女の、褐色の、大きい目である。此目は昔度々見たことのある目である。併しその縁にある、指の幅程な紫掛かつた濃い暈は、昔無かつたのである。  「長く待たせて。」  独逸語である。ぞんざいな詞と不吊合に、傘を左の手に持ち替へて、おほやうに手袋に包んだ右の手の指尖を差し伸べた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするなと思ひながら、丁寧にその指尖を撮まんだ。そして給仕にかう云つた。  「食事の好い時はさう云つてくれ。」  給仕は引つ込んだ。  女は傘を無造作にソフアの上に投げて、さも疲れたやうにソフアへ腰を落して、卓に両肘を衝いて、黙まつて渡辺の顔を見てゐる。渡辺は卓の傍へ椅子を引き寄せて据わつた。暫くして女が云つた。  「大さう寂しい内ね。」  「普請中なのだ。さつき迄恐ろしい音をさせてゐたのだ。」  「さう。なんだが気が落ち著かないやうな処ね。どうせいつだつて気の落ち著くやうな身の上ではないのだけど。」  「一体いつどうして来たのだ。」  「おとつひ来て、きのふあなたにお目に掛かつたのだわ。」  「どうして来たのだ。」  「去年の暮からウラヂオストツクにゐたの。」  「それぢやあ、あのホテルの中にある舞台で遣つてゐたのか。」  「さうなの。」  「まさか一人ぢやああるまい。組合か。」  「組合ぢやないが、一人でもないの。あなたも御承知の人が一しよなの。」少しためらつて。「コジンスキイが一しよなの。」  「あのポラツクかい。それぢやあお前はコジンスカアなのだな。」  「嫌だわ。わたしが歌つて、コジンスキイが伴奏をする丈だわ。」  「それ丈ではあるまい。」  「そりやあ二人きりで旅をするのですもの。丸つきり無しといふわけには行きませんわ。」  「知れた事さ。そこで東京へも連れて来てゐるのかい。」  「えゝ。一しよに愛宕山に泊まつてゐるの。」  「好く放して出すなあ。」  「伴奏させるのは歌丈なの。」Begleiten(ベグライテン)といふ詞を使つたのである。伴奏ともなれば同行ともなる。「銀座であなたにお目に掛かつたと云つたら、是非お目に掛かりたいと云ふの。」  「真平だ。」  「大丈夫よ。まだお金は沢山あるのだから。」  「沢山あつたつて、使へば無くなるだらう。これからどうするのだ。」  「アメリカへ行くの。日本は駄目だつて、ウラヂオで聞いて来たのだから、当にはしなくつてよ。」  「それが好い。ロシアの次はアメリカが好からう。日本はまだそんなに進んでゐないからなあ。日本はまだ普請中だ。」  「あら。そんな事を仰やると、日本の紳士がかう云つたと、アメリカで話してよ。日本の官吏がと云ひませうか。あなた官吏でせう。」  「うむ。官吏だ。」  「お行儀が好くつて。」  「恐ろしく好い。本当のフイリステルになり済ましてゐる。けふの晩飯丈が破格なのだ。」  「難有いわ。」さつきから幾つかの控鈕をはづしてゐた手袋を脱いで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は真面目に其手をしつかり握つた。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにゐて、暈の出来た為めに一倍大きくなつたやうな目が、ぢつと渡辺の顔に注がれた。  「キスをして上げても好くつて。」  渡辺はわざとらしく顔を蹙めた。「ここは日本だ。」  叩かずに戸を開けて、給仕が出て来た。  「お食事が宜しうございます。」  「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺は起つて、女を食卓のある室へ案内した。丁度電燈がぱつと附いた。  女はあたりを見廻して、食卓の向側に据わりながら、「シヤンブル・セパレエ」と笑談のやうな調子で云つて、渡辺がどんな顔をするかと思ふらしく、背伸びをして覗いて見た。盛花の籠が邪魔になるのである。  「偶然似てゐるのだ。」渡辺は平気で答へた。  シエリイを注ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が附き切りである。渡辺は「給仕の賑やかなのを御覧」と附け加へた。  「余り気が利かないやうね。愛宕山も矢つ張さうだわ。」肘を張るやうにして、メロンの肉を剥がして食べながら云ふ。  「愛宕山では邪魔だらう。」  「丸で見当違ひだわ。それはさうと、メロンはおいしいことね。」  「今にアメリカヘ行くと、毎朝極まつて食べさせられるのだ。」  二人は何の意味もない話をして食事をしてゐる。とうとうサラドの附いたものが出て、杯にはシヤンパニ工が注がれた。  女が突然「あなた少しも妬んでは下さらないのね」と云つた。チエントラアルテアアテルがはねて、ブリユウル石階の上の料理屋の卓に、丁度こんな風に向き合つて据わつてゐて、おこつたり、中直りをしたりした昔の事を、意味のない話をしてゐながらも、女は想ひ浮べずにはゐられなかつたのである。女は笑談のやうに言はうと心に思つたのが、図らずも真面目に声に出たので、悔やしいやうな心持がした。  渡辺は据わつた儘に、シヤンパニエの杯を盛花より高く上げて、はつきりした声で云つた。  ”Kosinski soll leben !(コジンスキイ ゾル レエベン)”  凝り固まつたやうな微笑を顔に見せて、黙つてシヤンパニエの杯を上げた女の手は、人には知れぬ程顫つてゐた。  * * *  まだ八時半頃であつた。燈火の海のやうな銀座通を横切つて、ヱエルに深く面を包んだ女を載せた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行つた。