ある出版業者の話 一  もう十年前のむかし事になつた。  出版業者のB氏は、つねづね自分の店から人気のある作家として知られたT氏の書物を出してみたい希望をもつてゐた。だが、T氏にはその頃きまつた出版書肆があつたし、それにふだんからこの作家の気むづかしい性分を知りぬいてゐるしするので、めつたなことも言ひ出せなかつた。  ある時B氏は、先日亡くなつた内田魯庵氏を訪ねてその話をした。 「先生。それについて何かいいお考へはありませんでせうか」 「ないこともない」内田氏は客の言葉を聞くと、即座に答へた。「どんな気むづかしい作家の原稿でも、請け合つて取れる秘法がここに一つある。ただそれには強い根気がなくちやならんが…」  出版業者は乗り出すやうに膝を進めた。 「先生。その秘法とかを是非ひとつお聞かせくださいませんでせうか。さういふ場合の根気なら、いくらでもこちらに持合せがございますから……」 「さうか。それぢやいつて聞かさうか。だが、ほんたうに根気が続くかな」  内田氏は軽く笑ひながら、その秘法といふのを話して聞かせた。それは月のうち幾日目でもいいから、ちやんと日をきめて、毎月その日になると、たとへ雨が降つても、風が吹いても、必ずその作家を訪問するのだ。さうすると一年経たないうちに、きつと原稿が貫へるやうな機会が到来するものだといふことだつた。内田氏は言葉を添へて念を押した。 「言つておくが、作家に会つても、原稿の話は最初の一度だけで充分で、その後はうるさく繰り返さないはうがいい。ただ会つて何がな世間話でもして帰ればそれでいいのだから、そこの呼吸を忘れないやうにな」  B氏は内田氏に教へられた通りに、毎月日をきめて遥々市外の片田舎にT氏を訪問することにした。かうして日をきめてみると、その日になつて、雨が降つたり、風が吹いたりして、髄分出にくくなるやうなこともなくはなかつたが、B氏はそれでも押し切つて訪問に出かけていつた。そんなをりには、T氏のはうでもこの思ひがけない来客を迎へるのに不思議な感じを持つてゐたやうだつたが、しまひにはその日が来るとやがて現はれるべきはずの客の顔を、まんざら待ち設けてゐないのでもないやうな節さへ見えるやうになつた。  さうかうしてゐるうちに、ちやうど一年ぶりのその日がやつて来た。かねて幾分の期待は持ちながらも、実際にはどうなることかと、内心危ぶまぬでもなかつた原稿の約束を、客はその日になつて主人の口から聞くことができた。  B氏は早速内田氏を訪ねて、そのことを報告した。そしてついでに訊いてみた。 「先生。月に一度の訪問はよかつたんですが、なぜまたきちんと日をきめてかからなければならなかつたんです。それがためには私も随分苦労しましたよ」 「さうか。それは気の毒だつたな。だが、君、観音さまだつて、縁日は月の十八日ときまつてるぢやないか」  内出氏は冗談のやうに言つて、声を立てて笑つたさうだ。  このことがあつてから間もなく、私はB氏の口から詳しくその話を聞いた。そして内田氏のやうに世情に通じた人でなければ、できない相談だと感心してしまつた。 二  書肆X堂の主人は、かねて知合のM氏といふ若い坊さんから、その著作の自費出版の世話を頼まれたことがあつた。M氏は真面目な時宗の学僧で、著作といふのは、何でも浄土教の発達についての研究論文とかだつた。この若い坊さんが住職をつとめてゐたのは、高槻在のろくに檀家もない貧乏寺だつたが、実家の兄といふのがかなり裕福だつたので、出版費の五、六百円はその手から融通せられて、引請けのそもそもから原稿と一緒にX堂の主人に渡されてあつた。  その頃書肆X堂は、商売の手違ひからかなり金には困つてゐた。で、M氏から費用が手に入ると、それを引き請けた自費出版のはうへは廻さないで、勝手に一時店のはうの穴填めに融通してしまつた。  不如意なX堂の内幕をいくらか勘づいてゐた印刷所では、約束の期日が来て、M氏の出版物が製本まですつかりできあがつてゐるのにもかかわらず、代金と引換へでなければといつて、本を渡さうとしなかつた。  自分の処女出版ができあがるのを、ひどく待ち焦がれてゐた若い坊さんは、約束の期日が来ても、一向本ができあがらないので、催促がてら毎日のやうにX堂の店さきにその姿を現し出した。  その都度店の主人は、 「あの印刷屋も困りもんですな。仕事が込み合つてくると、いつもかうなんですから……」 と、違約の責任を、印刷所の手順が悪いからといふことにして、言ひわけをするのだつた。X堂にとつては、さうでもして金の工面がつくまで、一日おくりに日を延ばすより仕方がなかつたのだ。  書肆の主人の言葉にあやふやなところがあるのを見て取つたM氏は、そんなわけだつたら、自分のはうでぢかに印刷所に掛け合つてみようと言ひ出した。それを聞くと、主人は慌ててなだめにかかつた。 「それは手前のはうにお任せください。明日にもきつと埒をあけませうから」  しかし、そんな一時の気安めが、長持ちするはずはなかつた。  それから四、五日して、自分でぢかに印刷所へ掛合ひに出かけていつたM氏には、すべてのいきさつが手に取るやうに判つた。  X堂の応接室で、主人と向ひ合つて坐つた若い学僧は、じつと相手を見つめたまま三、四十分がほどは物ひとつ言はなかつた。  あたりの重苦しい空気に堪へられないやうに、主人はそつと顔を上げた。学僧の眼は警へやうもなく悲しかつた。 「今度のことは何もかも私の不都合でした。重々お詫びを申し上げますから、どうかお免しくださいますやうに……」  若い学僧の唇は徴かに顫へた。 「お免しする?あなたをお免しするなぞ、そんなことが私にできようはずがありません。それはただ仏さまのなさいますことで……」 「ただ仏さまの?」主人は口のなかで繰り返して言つた。「それぢや、どうあつてもあなたからはお免しがいただけないんですか……」 「私は……私は、忘れませう。今度のことは、すつかり。──それだつたら私にもできると思ひます」  その時学僧の眼のうちに、やるせない悲しみとともに、一抹の苦しみの動きを感じたやうに相手の主人は思つた。  程経て、私は書肆の主人からこの話を聞いた。そして学僧M氏の心の持ち方にひとかたならず感心させられたものだ。 (昭和6年刊『樹下右上』)