萬葉の時代に存在した母音が後消滅し、子音にも變化が生じ、表記の混亂が生じた。それを最初に意識して、規範としての假名遣ひを作成した、とされるのが藤原定家(1162〜1241)である。
定家假名遣は、山田孝雄に據れば源親行が起草し定家が同意したもの、大野晋に據れば色葉字類抄に基いて定家が實踐したもの、とされる。後に行阿(源智行・親行の孫)が増補、「假名文字遣」(1363年以降成立か)として纏めた。
十世紀末から十一世紀初にかけて、既に口語では、は行轉呼が生じ、「お」と「を」との音韻の區別が失はれるなど、變化が生じてゐた。
だが、當時の文獻(平假名草子の書寫本や古點本のかな點)を見ると、助詞「は」「へ」「を」等における假名遣ひの紊れは殆ど無い。既に以前の表記の形式が慣習として定着してゐたものと見られる。ただ、かうした慣習としての假名遣ひが生じた理由は、單純に語音の變遷だけでは説明出來ない。
當時、既に文字による表現が汎く行はれ、表記に關する教育・學習が行はれるやうになつてゐた。その爲、語音の變遷に對して、文字言語における表記については、形式として受繼がれる事になり、固定的に定着し慣習化したものと考へられる。後の定家假名遣や契沖の假名遣ひが表記の紊れを反省して構築された假名遣ひであるのとは異り、「平安かなづかひ」は自然發生的な假名遣ひであつたものらしい。
さうして意識的に話し言葉における發音とは獨立した表記の原則(正書法)の意識である假名遣ひの意識が出現した。かうして成立したのが「平安かなづかひ」と假に呼ぶものである。(馬渕和夫)
しかし、十二世紀頃には語音の變遷が進み、は行轉呼のみならず、イ・ヰ、エ・ヱの區別も失はれてゐた。「平安かなづかひ」も紊れが生じてゐた。定家が改めて假名遣ひの規範を樹てようと考へた所以である。
定家は「僻案(下官集・下官抄)」で、
- を
- お
- え
- ゑ
- へ
- い
- ゐ
- ひ
の區別を説いてゐる。
當初、定家はこれら3類8字のみを取扱つただけである。逆に言へば、これ以外の假名の區別を説くものは、定家以後の増補と判斷される。
「を・お」の區別については、「色葉字類抄」(1164〜80年成立)等の、先行する辭書を參考にしたものと考へられてゐる。「お」と「を」の遣ひ分けについて、「色葉字類抄」ではアクセントの違ひに基いて分類されてをり、定家もその分類法を踏襲してゐる。このアクセントは、當時の京都で使はれてゐた口語のアクセントだと推測されてゐる。(大野晋)
定家の時代、「を」と「お」とが本來異る音であると云ふ意識は殘つてゐたものの、具體的な發音の區別は失はれてゐた。そこで定家は、京都の言葉で高く發音された部分(上聲)を「を」、低く發音された部分(平聲)を「お」と看做す事にしたらしい。(馬渕和夫)
「い」「ゐ」「ひ」、「え」「ゑ」「へ」の書分けは、アクセントの違ひに基いたものではない。これらについては何らかの語例に據つてゐる。11世紀後半から12世紀にかけての物語類(院政期に書寫された中古の平假名草子等)を參照したらしい。(山田孝雄)
定家の參照した文獻には、既に表記の混亂が存在した。それが定家假名遣に「誤り」を生ぜしめた主な原因である。定家假名遣には、少からぬ混亂がある。そもそも「僻案」では、70餘例のうち、實に15の誤りがある。
行阿の「假名文字遣」には定家の「僻案」にはない「ほ、わ、は、む、う、ふ」の遣ひ分けが追加されてゐる。また、アクセントの變化に伴ひ、行阿における「お・を」の遣ひ分けは定家のそれと相違してゐる。
行阿以降にも、江戸時代までに定家假名遣は何度となく増補された。歌人定家が尊敬された事もあり、その増補されたものも世間一般には定家假名遣の名で通用した。いろは歌の作者が空海であると言ふのと同樣、適當ではない名稱だが仕方がない。
鎌倉時代以降、歌、物語、草子、聯歌、俳諧等の表記は悉くこの定家假名遣に準據する事になつた。
定家假名遣に基づいて書かれた文獻の具體的な例としては、「古本説話集」「十訓抄」が舉げられる。吉田兼好の「自撰家集」の自筆本に於ける假名使用法は、定家假名遣そのままである。特に連歌の世界では、定家假名遣に「準據」する事が多かつたやうである。中世後期から近世初頭にかけての連歌資料72文獻を調査した結果、「假名文字遣」と96.1%一致したと云ふ。
尤も、實際に「假名文字遣」を參照した結果として一致するのか、當時の「常識」がたまたま「假名文字遣」と一致しただけなのか、等、不明の點もある。實際に定家假名遣に基づいた文法書が流布してゐたのか、或は「常識」や「模倣」によつてたまたま定家假名遣に「似たもの」が一般に行はれてゐたのかはわからない。江戸時代の文獻を調べると、定家假名遣と一致するものもあれば一致しないものもある。
契沖の「和字正濫鈔」に反對して橘成員が「倭字古今通例全書」を著してゐる(1696年)。
定家假名遣は、混亂した表記にともかく一つの合理的な決着をつけようとした試みの一つである。福田恆存は『私の國語教室』で、定家が發音と表記との間のずれを初めて意識した事を高く評價してゐる。
「おとこ(男)」「おさむ(治)」「おる(折る)」「をく(置く)」「をくる(送る)」「とを(遠)」など、「を」と「お」の遣ひ分けに關して、契沖の假名遣と異る表記の見られる事、のみならず、時代によつてゆれが存在する事が、指摘されてゐる。これは、既に失はれてゐた「發音の違ひ」を「基準」とする爲に、「約束」としてアクセントと云ふ辨別法を採用した爲である。
契沖らのより合理的な假名遣ひ研究が進んだ以後も、傳統として定家假名遣に固執する歌學者等が存在した。しかし、それを單なる「惡き傳統主義」と見る事も、合理主義の缺如と看做す事も、不當である。橘成員は「倭字古今通例全書」で、契沖に對抗して矢張り具體的な出典を示して議論を進めてゐる。
定家假名遣は、單なる表記の合理化を目指した假名遣ひではなく、ありのまゝに國語を表記しようとした試みであつた。その點は評價されねばならない。しかし、近代に至つて、定家假名遣は歴史的・理論的な批判を受け、より正しい假名遣ひの説が出現して、その地位を讓つたのである。
一方、現在一般に用ゐられてゐる「現代仮名遣」は、爲政者が「正書法」であると稱して國民に一方的に「從ふべき規則」を押附けたもので、一種の「命令」である。「話したまゝ」を書くと云ふ主原則とともに、「語意識に基く」書分けの方法を採用し、理念的に支離滅裂であり、如何なる歴史的事實にも據つてゐない、根本的に非科學的で非歴史的な、不合理なものである。既成事實として「定着」したと看做されてゐる「現代仮名遣」だが、飽くまで政治的に作られた「規則」「命令」である事實は注目されるべきである。定家の假名遣は、政治的創作物ではなく、飽くまで言葉の傳統性を重視し、歴史的事實に基かうとしたものであつた。