世界的に見れば、日本人の知的レヴェルは、長い歴史を通して、ずつとハイレヴェルなものだつたやうである。
しかし、階級間での知識の差は、慥かに「あつた」と思はれる。
江戸時代初期には、地域毎の言葉の違ひが極めて大きかつた。參勤交代が行はれた武士階級は、方言で喋ると話が通じない事があつた。その爲、江戸や大阪で勤務する武士逹は、「標準語」として漢文訓讀體を用ゐたらしい。明治から昭和の大東亞戰爭敗戰の時點まで官僚は文語を用ゐた。その原點は江戸時代の支配階級である武士の用語にある。
庶民階級も、嘗てはそれなりに高い知識を持つてゐた。鎌倉時代の百姓に據る立派な文章が殘つてゐる(當時の裁判における告發状等の文書)。士農工商のヒエラルヒーが固定化された江戸時代に、幕府の「據らしむべし、知らしむべからず」の政策によつて、農民は隨分、知識を失つたやうである。
それでも1900年頃の日本人の識字率は、90%程度はあつたと推測されてゐる。現在の目から見ても高いレヴェルにあると言へるが、もちろん當時においても極めて高いものであつたと言ふ事が出來よう。そして、その理由としては、寺子屋が普及してゐた事が擧げられる。文化年間(一八〇四〜一八)に江戸府内には千二、三百の大小寺子屋があったという。
江戸時代末、江戸では既に武士と庶民との間の言葉の差が減少してゐた。「江戸語」が地方に可なりの程度、進出してゐたやうである。明治維新前後の頃、既に「江戸語」は事實上の共通語として定着してゐた。この「江戸語」が「東京語」となり、明治時代の標準語のベースとなつた。杉本つとむが『日本を知る小辞典2ことばと表現』でそのやうな主旨の事を述べてゐる。
出版はもともと京都からはじまったものであるが、明暦・万治のころから江戸・大阪の出版も目だってくる。そして十八世紀以前に江戸で本屋の数は一二五軒を数え、大坂でも六九軒、十八世紀の半ば過ぎには、全国で六七六軒にまでふくれあがっている。また、一枚刷の瓦版・讀賣の類が出現し、はじめはセンセーショナルな事件を面白をかしく扱つてゐたが、その後、客觀的な報道を行ふやうになり、幕末には單なる傳逹の機關としてのみならず論評をも含んだ言論機關として成熟してゐた。
地方でも、都會と同樣、それなりに知的レヴェルは高かつたやうである。
大東亞戰爭で日本は敗れ、アメリカ軍が進駐した。その時、アメリカの民間情報教育局(CIE)は、次のやうに考へた。
CIEは、日本人の讀書き能力の調査を行つた。日本人の識字率は低いものであらうと推測してをり、實際にそのやうな結果が出れば日本語のローマ字化を行ふ理由になると考へたのである。しかし、結果は逆で、日本人の識字率は極めて高いものであつた。(大野晋の記述に據る)
「文字の多さと、言語習得の難易とは、必ずしも關係がある訣ではない」と云ふ調査結果が出たのである。アメリカ人は合理主義だから、日本語のローマ字化と云ふ方針は、すぐに放棄してしまつた。