歴史的假名遣は通例、定家假名遣、復古假名遣、字音假名遣に大別される。
定家假名遣、復古假名遣はやまとことばを中心とした言葉を書表す決りであり、字音假名遣は漢字の音を書表す決りである。
「現代かなづかい」「現代仮名遣い」では、復古假名遣と字音假名遣とを全く區別してゐないが、兩者は生成の過程が異る爲、同一視すべきではない。逆に言へば、同一視すべきでないものを同一視して排除した「新かなづかい」には問題があつた、と云ふ事である。
假名遣はもともと「音韻上の語形」と「假名文字上の語形」との對應關係を定める規則である。だが、その對應關係の決め方には、時代に依つて異るものとなる。
はじめの決め方は簡單だが、時代の變化とともに音韻が變化するのは必然である。この考へ方に基づいてやつて行かうとするならば、時代が遷る毎に「假名遣」の大改定が要請される事となる。
あとの決め方に基づいてやつて行くならば、表記は時代を越えて一貫したものとなる。「書き言葉」は、記録の爲に存在するものだから、2の考へ方に基づいて表記に於ける同一語形の保持が行はれた方が都合が良い。
「上代特殊假名遣」の解説で「今普通に云ふ假名遣とは意味合ひが異る」と書いた。「上代特殊假名遣」は、上の分類で言ふとはじめの決め方における「假名遣」に當る。假名文字が初めて出來た平安時代初期の頃は、このやり方で假名書きはなされてゐただらうと推測されてゐる。
しかし、定家の時代には、既に「音韻上の語形」と「假名文字上の語形」の間にはずれが生じてゐた。だから、定家假名遣は、あとの決め方に基いた假名遣である。契冲の假名遣も當然、あとの決め方に基いてゐる。明治以後も、「歴史的假名遣」は「平安初期以前の文字上の語形」を引續いて「音韻上の語形」に對應させてゐたと言へる。
長い間あとの決め方に基いて定められて來た假名遣だが、昭和21年に定められた「現代かなづかい」ははじめの決め方の發想に舞戻つてゐる。「現代かなづかい」は、基準になる「音韻上の語形」に昭和のものを用ゐ、「假名遣」の「大改定」を行はうとした實驗であつた。しかしながら、徹底してはじめの決め方に基くことは到底不可能で、あとの決め方に基づいた「例外」を大量に作る事となつた。結果的に、「現代かなづかい」は、はじめの決め方にもあとの決め方にも基いてゐる(と云ふ事は即ち、どちらにも基いてゐない、と云ふ事だ)、中途半端で一貫性のない、非合理的なものとなつた。單純なイデオロギーによつて強引な改革を目指した「現代かなづかい」が却つて非合理的なものであると云ふのは皮肉である。
「歴史的假名遣」は江戸時代にほぼ完成した。それは常に誹謗されるがごとき非論理的非合理的のものではない。寧ろ、「歴史的假名遣」は、論理的・合理的なものであると言へる。
定家も契冲も(或は、彼等の追随者も)、出典・根據を明かにした上で誤を正さうとした。實證的な態度をもつて表記の亂れに對處しようとした。また、表記の規則の背後に存在する一貫した論理を、彼らは模索し、體系化しようと努力した。
亂れた表記を、本來の表記から見て正さうとするのが「歴史的假名遣」の方針である。そして、その本來の表記を論理的・體系的に再構成するのが、「歴史的假名遣」の最終的な目的である。情緒的・感傷的と言はれる日本の文化の中で、「歴史的假名遣」は數少い正統的な存在である。
その一方で、亂れを盲目的・積極的に肯定する「現代かなづかい」は、體系化の努力を抛棄した現代の怠惰な日本人に、或意味ふさはしいものと言へよう。「現代かなづかい」は、國語表記の退化であると言つて良い。