「当用漢字」は、使用可能な漢字の範圍を定めたもので、漢字制限の性格を持つてゐた。公用文はもとより、日常使用する語であつても、「当用漢字」に基いて用字の選擇が行はれる必要があつた。
もちろん、「当用漢字」の範圍内では表記が許されない語が存在する。さう云ふ語は、別の語に言換へる、或は、かな書きする、と云ふ事になつてゐた。
「当用漢字」の目的は、漢語の整理――漢字を出來る限り減らす事だつた。
しかし、現實に漢語を用ゐないで文章を書くのは、不可能とは言へないまでも、不自然であつた。その爲、もともと漢字で書かれるべき熟語を、かなと漢字とで「交ぜ書き」してでも用ゐようとする傾向が現はれ、批判の對象となつた。また、「当用漢字」で定められた書換へが定着した一方、從來の表記も根強く殘り、混亂が生じた。
專門ジャンルの用語の整理も要請されてゐたが、實際問題として、獨自の用語が要求される專門分野で、容易に漢語が排除されるやうにはならなかつた。ただし、一部の分野で「改革」が進んだのは事實である。
社會全體として、漢語を用ゐる傾向はなくならなかつた。また、制限された漢字、或は漢字の讀み方を自由に使ひたいと云ふ欲求は減らなかつた。「当用漢字」の制限で、漢字を自由に使へない爲、一部でフラストレーションが溜る結果となつた。
新聞や雜誌は、「当用漢字」の漢字制限に從ふのが非現實的――と言ふよりも不可能である事が判ると、獨自に用字の規則を制定し、使へる漢字の範圍を擴げてゐた。社會的に、用字の混亂は増すだけであつた。
漢語の整理が遲々として進まない事は、「国語改革」の目的に疑問を抱かせる理由となつた。また、福田恆存の『私の國語教室』が發表・公刊されたり、國語問題協議會が設立されたり、国語審議会の委員脱退事件があつたりして、そもそもの「国語改革」そのものに問題がある事が、段々と世間に知られるやうになつた。
さうした状況下、国語審議会の委員が大幅に入換へとなり、「漢字假名交じり」を日本語の表記の原則とするとの認識の下で、「当用漢字」の改定作業が始められた。以下、事實を羅列する。
字種・音訓・字体を総合的に示したものである。
一般の社会生活において現代の国語を書き表すための漢字使用の目安とされ、漢字制限ではない事が明記され、必要な時には本表に掲げられてゐない漢字や讀みを用ゐる事が認められた。
個々の事情に応じて適切な考慮を加える余地がある事を認める、とされた。從來、用字の整理が要請されてゐた專門分野における獨自の用字、及び、個人の表記に、自由な裁量が認められた。
明朝体活字のうちの一種を例に用いて示したものであり、活字のデザイン上の差異、筆寫の際の個人の書き癖に基く差異は容認する、とされた。これは、當時、一部の教師が兒童・生徒に、教科書の活字通りに漢字を書くやう要求すると云ふ行き過ぎた指導をしてゐた状況があり、また、制限的な雰圍氣を拂拭する意圖もあつて、特に插入された解説であると思はれる。
「常用漢字表」は、「表意主義者」からは「これで自由に漢字を使へるやうになつた」と歡迎され、一方表音主義者には「國語改革から一歩後退した」と認識されてゐる、と言はれてゐる。しかし、實際のところは何うか。
「常用漢字表」は「漢字を用ゐて良い範圍を示したものではない」と定義されてゐる。しかし、「常用漢字表」の範圍に基いて漢字を運用しようとすると、「当用漢字」に基くそれと實質的に同じとなる。性格づけが變つた事は間違ひないが、さう云ふ定義は理念の上の事に過ぎない。現實問題として、「漢字表」があれば、それに基づいて漢字が運用されるだけである。
私見だが、本表は依然、事實上の漢字制限として機能してゐるやうに思はれる。
實際、「常用漢字表」を漢字制限の爲に利用してゐる書籍等が存在する。
ウェブでは、以下のやうな記述を見掛けた。
義務教育課程で学習する漢字が、ほぼ常用漢字に限られることを考えると、不特定多数の人を対象にした情報は、常用漢字の範囲内で記述されることが望ましいでしょう。
bqpdは、本表の範圍を超えた漢字の使用は「一般社會で容認されない」と見てゐる。一般社會の實状を理由に、bqpdは「常用漢字表」の表外の漢字を使用する事を推奬しない。
インターネットのコンテンツも、読んでもらうために発信するのであれば、特段の意図がない限り、常用漢字表を基準とするのがよいと思われます。
「当用漢字」のやうな明確な漢字制限がなくなつた一方で、「むづかしい漢字をつかわない」風潮が一般社會に定着し、その風潮における「むづかしい漢字」かさうでないかの目安として「常用漢字表」が用ゐられてゐる氣配がある。
一往bqpdは、常用漢字表は、一般社会における漢字使用の目安であって、個々人の漢字の使用を制限するものではありません。
と説明を加へてゐる。これは「常用漢字表」の記述に基いた説明である。
言葉は本來、コミュニケートの手段であり、社會的なものであり、個々人
を超えたレヴェルで使用されるべきものである。この事を考へると、個々人
のレヴェルでのみ漢字の自由な使用は許される」と言ふのは「漢字を一般社會で自由に使用する事は許されない」と云ふ事になる。
「常用漢字表」の記述に關らず、現在、社會的に漢字制限は「ある」と言つて良い。
新聞は、原則として「常用漢字」に從つた表記を採用してゐるが、一部、用字の範圍を擴張してゐる。雜誌や書籍においても、用字の範圍は「常用漢字表」から食み出してゐる事が多い。しかし、用字の問題は既に問題とならず、字體の問題が大きな問題となつてゐると言へる。
ほぼ全ての雜誌・書籍で現在、所謂略字體が用ゐられるやうになつてゐる。その爲、略字體にしか觸れた事のない人の間で、正字體を嫌惡する傾向、生理的に正字體を拒絶する傾向が生じてゐる。
「常用漢字表」は、「当用漢字字体表」までに定められた略字體を踏襲してをり、正字體を採用してゐない。その略字體を新聞や書籍が採用してゐる結果、社會的に正字體が排除される事となつてゐる。
筆者の野村氏は、立場としては表音主義者であり、國語國字改革の積極的推進派の一人である。「常用漢字表」策定の際、国語審議会の委員であつた岩淵悦太郎氏に、(国語)審議会の空氣がともすれば過去の表記習慣に目を向けがちで,若い世代の動向を軽視しているのではないか
、と云ふ疑問を呈した、と本書の「はしがき」に書いてゐる。
同書の「はしがき」で、野村氏は以下のやうに述べてゐる。
常用漢字表が告示されて,三十五年にわたる当用漢字表の時代に,ひとつのくぎりがつけられました。常用漢字表の性格が目安とされるところから,これで文章の表記がまったく個人のかってになるのだという誤解の声も一部には聞かれます。しかし,当用漢字表をはじめとする第二次大戦後の国語施策が決して根底からくつがえされたわけではありません。常用漢字表は,あくまでも当用漢字表の延長線上にあります。
戦後の一連の施策は,現代の話しことばに基づいた,わかりやすい文章の創造をめざしたものであり,それに成功をおさめました。公用文や新聞の文章は,戦前にくらべて,はるかにわかりやすいものになりました。また,専門家だけでなく,一般の人々が自由に文章を書くことができるようになったことも,その成果といえましょう。当用漢字が常用漢字に改められても,その基礎にある,わかりやすい文章,合理的な表記システムをめざす姿勢が否定されたわけではありません。
その意味から,この辞典は,常用漢字表をよりどころとして,その範囲で文章を書こうとする方々への手引きとなるように編まれました。この三十五年間に定着した,かなで書いてもわかることばには,あえて漢字を使わない習慣は,なるべくそれを生かすことにしました。また,無意味に難解な語句や漢字を使わず,だれでも知っていることばで・きちっとした文章を書こうとする志向は,できるかぎり尊重しました。いわば,この辞典では,常用漢字表は漢字使用の上限を示すものと考えています。
「目安」と云ふ條文の規定は、實質的に無意味であり、現實には「常用漢字表」を「制限」の基準であると看做すのが妥當だ、と野村氏は主張してゐる。「國語國字改革は、既に實施されてをり、その流れを止める事は許されない」と、野村氏は考へてゐる。
「改革が行はれた」と云ふ既成事實を作つておいて、「もう事實があるのだから」として一度なされた改革を押通さうと言ふものである。國語國字改革の推進派には、この種の「論理」を言ふ人が多い。だが、これは論理ではない。しかし、「既成事實」を根據として一度やらかした事を「正しい」と言ふ戰術は、現實の輿論形成に極めて有效に働く。一度出來てしまつた現實として「既成事實」が「守るべき事」とされ、「保守すべき事」とされてしまふ。それを、論理によつて檢討し、理念によつて覆すのは、今の日本國では困難である。「現實を保守する」と云ふ理由を附ける事が出來るので、西部邁ら保守派ですら、この種の「論理」を主張する。皮肉を言ふが、西部ら保守派は戰後民主主義も保守してゐれば良からう。或は、西部は、自分が嘗てやつてゐた学生運動を、保守したら良からう。「保守すべきもの」を、西部らは餘りに恣意的に決定してゐる。彼等はプロレタリア革命が發生したら、それをすら「保守すべきもの」と言張るに違ひない。閑話休題。
JISの文字セット、文字コードは、文字によつて正字體・新字體が、包括されてゐたり、ゐなかつたり、と、不整合が多く、一貫性を缺いてゐる。原則に一貫性のない「当用漢字」を參考に策定された仕樣で、一貫性を保たうと言ふのは無理な話で、JISの文字セットの不備は、現實問題として避けられない。野村氏が關與した改正でも、さうした不備は改善されず、「互換性」の名の下に「既成事實」としてそのまま殘されてゐる。PCでは、JISの規格を使用してをり、正字體を完全には使へない。インターネットの一般化でさう云ふ環境の固定化が進行してゐる。結果として、昨今は正字體排斥の傾向にますます拍車がかかつてゐる。
かうした「現實」に、「常用漢字表」における「目安」と云ふ文言は、空文と化してゐると言つて良い。逆に、「表」の存在は、表音主義者や現状維持派によつて有效に利用されてゐる、と言へる。
本書の冒頭で編著者は、志賀直哉が昭和21年に發表した「日本語廃止・フランス語採用論」を引き、強い調子で批判を行ひ、日本語の文字や表記の體系そのものについて、完全とも不完全とも云ふ事は出來ないと述べて、大事なのは我々日本人の言語を用ゐる能力そのものにあると結論してゐる。「はじめに――日本語観
編著者は、「当用漢字」の解説で、このように豊富な漢字を無制限に用いることは教育上から見ても社会生活上から見ても好ましくないとの考えから実施されたのが、「当用漢字表」の制定です。
と述べてゐる。
續いて「常用漢字」の解説で、当用漢字は、日本語表記のおおかたの基準として定着を見ましたが、その後の一般社会の漢字使用の要請に合わないとの指摘も出てきました。
と述べてゐる。そして、そこで、社会生活における相互の伝達や理解をより円滑にするため、一層適切な漢字表が必要と考え作成されたのが『常用漢字表』(昭和五十六年・一九八一)です。
と述べてゐる。さらに、「常用漢字表」の内容について簡單に解説したあと、編著者は以下のやうに書いてゐる。
そして、当用漢字表は制限的な性格を持っていたのですが、この常用漢字表は、「現代の国語を書き表わす場合の漢字使用の目安を示すものである」として、目安という性格に変わっています。しかしそれは、この表を無視してほしいままに漢字を使用してもよいというのではなく、常用漢字表を努力目標として尊重することが期待されているのです。
志賀直哉の文章は、私は森有禮の英語採用説から、この事(フランス語を採用する事)を想ひ、中途半端な改革で、何年何十年の間、片輪な国語で間誤つくよりはこの方が確實であり、徹底的であり、賢明であると思ふのである。
と云ふ文章までが編著者により引用されてゐる。
「日本語廃止・フランス語採用論」を否定した編著者は、しかし、どうやら、「中途半端な改革」には贊成――少くとも容認をしてゐるらしい。或は、自身が國字改革に贊成・反對と意見を言ふのではなく、事實として、「常用漢字表」に依然、「努力目標」として暗示された「制限的な性格」が殘存してゐる、と云ふ事を指摘してゐる。
編著者は「あとがき」で、そこで私は、日本語を「どのように」読み書きするかということのみに走らず、「なぜ」そのように読み書きするようになったのか、ということもわかってもらいたくて本書をつくりました。
と書いてゐる。だが、「常用漢字表」その他の解説を見ても、その「なぜ」の説明は、現状を「合理的」に解釋したもの、心理的に納得する爲のものとして提示されてゐるに過ぎない。「なぜ」の説明が、單に讀者をして「わかつた」と言はしめる爲だけになされてゐるに過ぎないのである。
「常用漢字表」の「目安」と云ふ表現が、結局のところ單なる目安ではなく、「事實上の制限」として機能してゐる現状を、編著者は認め、讀者をして納得せしめようとしてゐる。
戸籍法(昭和二十二年十二月二十二日法律第二百二十四号)「第五十条第二項」には、第五十条 子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
、2 常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。
と云ふ決りがある。そして、戸籍法施行規則(昭和二十二年十二月二十九日司法省令第九十四号)最終改正:平成一六年四月一日法務省令第二八号の第六十条に、戸籍法第五十条第二項 の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。
とある。
- 常用漢字表(昭和五十六年内閣告示第一号)に掲げる漢字(括弧書きが添えられているものについては、括弧の外のものに限る。)
- 別表第二に掲げる漢字
- 片仮名又は平仮名(変体仮名を除く。)
即ち、人名に使用する漢字は、「常用漢字表」を根據に制限されてゐる。
一般の社会生活において現代の国語を書き表すための漢字使用の目安
とされてゐる「常用漢字表」が、現實には漢字制限の根據として使用されてゐる、と云ふ例の一つである。
なほ、ここで言ふ別表第二に掲げる漢字
は「人名用漢字別表」であり、附則(昭和五六年一〇月一日法務省令第五一号)に、当分の間、子の名には、この省令による改正後の戸籍法施行規則第六十条各号に掲げる文字のほか、附則別表に掲げる漢字を用いることができる。
として掲げられてゐる。
「常用漢字表」の内閣告示と同日附けで「公用文における漢字使用等について」(事務次官等会議申合せ)が内閣官房長官から各省廳事務次官等宛に通知された。
この「申合せ」では、公用文における漢字使用は「常用漢字表」(昭和56年内閣告示第1号)の本表及び付表(表の見方及び使い方を含む。)によるものとする。
と規定されてゐる。
公用文の領域では、現在も漢字制限・用字制限が行はれてゐると言へる。