上代の文献では、い・え・おの三段について、か・さ・あ・は・ま・や・ら各行とその濁音行の音が二種類に分れてゐた事に基き、漢字を遣ひ分けて萬葉假名の文章が書かれてゐる。一つの音節を表記するのに複數の假名の中から一つの假名を選んでゐるかのやうに見えるので、これを「上代特殊假名遣」と呼ぶ。
「假名遣」と呼びならはされてゐるが、「上代特殊假名遣」は、音節の辨別が存在した事實の表記への反映である。當時の音韻組織に基いた「表音的」な表記であると言つて良い。だから、「上代特殊假名遣」は、「假名遣」とは呼ばれてゐるものの、今普通に云ふ假名遣とは意味合ひが異るものである。
假名遣は、表記の混亂の意識が生じてはじめて必要となる概念である。混亂のない、或は混亂の意識の無い時代に、現代的な意味での假名遣は存在しない。「上代特殊假名遣」の存在した時代には、定家以後に意識されるやうな混亂は存在しなかつた。言換へれば、上代には假名遣の問題はなかつた。
萬葉假名や、平安朝以前の文獻には、或種の規則がある。8世紀の文献には、現代とは異る音韻體系に基く表記の規則が存在する。この表記の規則を「上代特殊假名遣」と呼ぶ。
日本書紀と古事記、萬葉集、風土記等の上代の文献では、言葉によつて、音節を表はす漢字が遣ひ分けられてゐる。現代の日本人には「古」「故」「孤」「許」「己」の「こ」は同じ音節「こ」を表はすもののやうに思はれる。しかし、上代の文献では、「言」「心」の「こ」を「許」「己」で表記し、「古」「故」「孤」では表記しない。逆に、「戀」「越」「子」の「こ」は必ず「古」「故」「孤」で表記し、「許」「己」では表記しない。
このやうに、二類の區別される音節をそれぞれ、甲類・乙類と呼ぶ。
記紀以降の文獻には(或は記紀にすら)、「上代特殊假名遣」の規則に合致しない混亂した表記が見られる。
萬葉集では、後になつて編纂された卷に、一部の音韻が失はれた爲生じた混亂が存在するので、時代が下るに從つて「上代特殊假名遣」の規則は意識されなくなつたものと考へられてゐる。記紀における混亂は、書寫の際の誤もあるのだらうと考へられてゐる。
契冲の「和字正韻」、奧村榮實の「古言衣延辨」、そして石塚龍麿の「假字遣奧山路」の三著が江戸時代の萬葉假名の研究としては代表的なものである。萬葉假名研究には他に草鹿砥宣隆「古言別音鈔」、「假名大意抄」「萬葉用字格」等がある。
上代假名遣の存在に初めて氣附いたのは本居宣長である。宣長は、「古事記」の用字に偏りがある事を「古事記傳」の序文で報告してゐる。
宣長の發見を受けて、石塚龍麿が古事記・日本書紀・萬葉集を調査してゐる。
龍麿には「古言清濁考」の著作もある。
奥村榮實は、「古言衣延辯」で延暦・天暦(901〜957)以前には、あ行の「え」とや行の「え」とに音韻上の區別があり、書分けがなされてゐた事を述べた。
阿行ノ假字として「衣・依・愛・哀・埃・英・娃・翳・榎・荏・得」を、
夜行の假字として「延・要・曳・叡・江・吉・枝・兄・柄・頴娃」を擧げる。
ほかに、萬葉假名における文字の使ひ分けについては、以下のやうな研究があつた。
江戸時代の間に、上代における文字の遣ひ分けの背景には音韻の區別があつたものであるらしい、と考へられるやうになつてゐた。
明治になつて、橋本進吉は萬葉集の研究を進めてゐた。橋本は、萬葉假名に於る文字の使ひ分けを整理してゐた。橋本はこの遣分けを「上代特殊假名遣」と呼び、甲乙二類の音韻の區別に據るものであるとした。
研究の過程で橋本は、石塚の「假名遣奥山路」の存在に氣附いた。橋本は「國語假名遣研究史上の一發見――石塚龍麿の假名遣奥山路について――」(「帝國文學」1917年11月號)で報告し、同書を高く評價した。橋本は、「ぬ」ではなく「の」に二類がある、「古事記」の「ち」には二類がない、として、龍麿の説を訂正した。
上代特殊假名遣は當時の音韻に基く表記である、と云ふ橋本の主張には、現在までに反對意見も幾つか出てゐる。しかし、上代の文献を解釋する上で上代特殊假名遣は屡々重要な鍵となつた。その爲、この上代特殊假名遣が存在したと云ふ事實は、現在のところ學問上の定説として認められてゐる。
現在知られてゐる「上代特殊假名遣」は、一部の音を表記する文字にのみ出現してゐる。しかし、それは上代以前の日本語に八つの母音があつた事の名殘なのではないか、と云ふ説がある。即ち、現在知られてゐるa・i・u・e・oにï・ë・öを加へた八母音が古代の日本語の母音であつたのではないか、と云ふ説である。
有坂秀世は「上代特殊假名遣に母音調和の痕跡がある」と指摘した。母音調和はアルタイ語系言語の特色とされ、日本語がアルタイ語系である可能性が高い事を示唆する。
ただし、古代の日本語における八母音説は假説に過ぎず、上代特殊假名遣にしても萬葉假名にのみ見られる擬似的な「假名遣ひ」である。いづれにしても、平安時代末以來の一般的な意味での假名遣ひ――歴史的假名遣とは直接、關係があるものではない。