制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2006-08-19

方言・標準語――日本國内の言語の統一

明治以前の状況

從來、日本では東西で大きく言語が分れてゐた。また、中央と地方とでも矢張り言葉は異つた。江戸時代になると、地域間で言葉が異る傾向は、さらに強まつた。藩制が布かれた爲、同じ日本人同士であつても、藩が異ると言葉が通じない、と云ふ事態が屡々生じたのである。

一般に、領民は藩の中で生活が完結してゐたから、他所の藩で異つた言葉が用ゐられてゐても特に困難を感ずる事は無かつた。しかし、武士階級では、參勤交代で江戸に出ると他の武士と話が通じない、地方に派遣されると話が通じない、と云ふ事態に遭遇した。

明治時代

江戸時代において、言葉によるコミュニケーションの困難が問題となつたのは、限られた人々だけであつた。しかし、藩が消滅し、全國が統一された國家となつた明治時代になると、人々の移動機會が多くなり、地域毎の言葉の違ひは大きな問題となつた。

何處の國でも同じだが、近代統一國家成立の際には、言葉の不統一が問題になるものである。日本に於ても、國語政策を論ずるに當つては、言葉の統一は大前提となつてゐた。そこではただ「如何にして言葉を統一するか」の方法論に關する議論が行はれたに過ぎない。

三宅米吉

方言の解消と言語の統一を主張したのは、急進的な民族主義者・集權的な統一論者に限られる、と云ふ訣ではない。

明治十七年、三宅米吉は「かなのしるべ」を書いて、國内の言語統一について論じた。

いま くにことば の もとい を さだめて、むりおし に くにぐに の なまり を あらためさせん と するわ ほねおりて その かい なき わざ なる べければ、ただ なを ますます くにぐに の ゆきき の べんり を まし その ゆきき を しげく し、まじらい を あつく させ、しらず しらず みづから あらためさする に しく なかる べし。

三宅は、のちに東京文理科大學(今の東京教育大學)の學長となる人物だが、引用文を見れば判る通り、カナモジ論者である。

上の引用文に顯はれてゐるが、三宅は「權威・權力によつて統一された言葉を人々に押附けるべきだ」とは述べてゐない。ただ、人々の交流を増やし、相互の接觸の機會を増やす事で、自然に言葉が統一されて行くべき事を説いてゐるに過ぎない。

上田萬年

國字問題史上、國語改良論の大立て者として有名な上田萬年も重要な發言をしてゐる。

明治二十八年一月、上田は大日本教育會で「教育上國語學者の抛棄し居る一大要點」と題した講演を行つてゐる。そこで上田は、自分は、言語についても中央集権主義を採ることに賛成する、と述べたと云ふ。(『國語のため』)

時期は日清戰爭中であつたが、上田ははつきりと政治的な方法を主張してゐる。

岡倉由三郎

岡倉は、福原麟太郎の恩師である英文學者だが、漢字廢止論者であつた(漢字を廢すれば自然に漢語は無くなる、表記は平假名を用ゐれば良いだらう、といつた事を述べてゐる)。

その岡倉が、「應用言語學十囘講話」(明治三十五年)で三宅を批判してゐる。

……三宅の方法は間接の方法であって、これでは必ずしも正しい他国語が、外から入ると定まらないのであるから、甚だ危険である。と批判し、自分は学校教育を施す時に、徐徐と地方語を改めて、中央語を注入する直接の方法を採ると述べている。

『日本語の歴史 6』の執筆者は、これは、三宅という個人の考えと岡倉という個人の考えの違いというよりは、それぞれの時代を反映した考えというべきであろう。と述べてゐる。

「國語」と「標準語」「普通語」が同一視された時代

國語政策において指導者的な立場にあつた上田萬年

「國語」なる語が出現したのは明治二(1869)年、南部義籌が提出した建議書「修國語論」が初めてであると言はれる。その後、上田萬年が『國語のため』(明治二十八年)を出版、「國語」と云ふ言ひ方を屡々用ゐた。そして、小學校令施行規則「國語科」が公布(明治三十八年)され、以來、一般化したとされる。

特に「國語」の普及に力を入れたのは、上田である。上田の用語法について見てみると、先づ漢語教育に對する國語教育であり、次いで博言學(言語學)に基いた國語研究である。從來の漢文教育・漢文訓讀と云ふ文語の教育に對して、上田は現代語としての日本語の教育――言換へれば口語の教育を目指した。そのベースには西歐傳來の言語學があつた訣だが、上田の用語としての國語學から離れてその後は言語學と對立する獨特の國語學が日本では成立して行く。

もちろん、上田の用語法のみが明治時代の國語の唯一の用語法と云ふ訣ではない。前島密は「國文教育之儀ニ付建議」(明治二年)で、假名を「國字」、日本語の文章を「國文」と呼び、日本語の單語を「國語」と言つてゐる(但し、漢語を排除した日本固有の語彙だけを指すものではない)。また、日本の事を「國」と云ふ漢語で表す事は維新前後から行はれるやうになつてゐる。

しかし、特に國語教育・國語研究に關して、上田の及ぼした影響は大きい。上田は明治三十年、文科大學(今の東京大學文學部)に國語研究室を設置し、のちに國語調査委員會の設置を實現してゐる。この間、上記の發言に表れてゐるやうに、上田は、日本を近代國家たらしめるとの目標を持つて、言語の統一を目標とした活動をしてゐた。

「方言」を滅ぼす爲の「國語」とは

近代の日本において、「國語」と云ふ言葉は、「國内の言語を統一する爲に作られた基準となる言語」と云ふ事になる。ただ、だからと言つて「國語」とは「國家語」の事である、のやうに「國家」を強調して表現する事は正確ではないと言へる。明治政府が國家として國語政策にかかはつた訣ではないからである。

日本に於ては、民間人・學者が自らの信ずる近代化を實現する爲に、積極的に國家權力を利用した、と云ふ傾向が強い。寧ろ、國家の側は國語問題に關しては寧ろ非常に消極的であつた、と言ふ事が出來よう。さうした傾向は、戰前のみならず戰後にまでずつと引繼がれてゐる。

國語政策・國語教育は、國家主導でなく、寧ろ民間主導であつたと言つて良い。そして、「言語の統一」と云ふ當時の「至上命令」は、國家が強要するまでもなく、民間で一般に信じられてゐた。方言・「訛り」を追放する爲に教育の場で行はれた多くの方策(例へば「方言札」)は、明治政府・文部省といつた「お上」が押附けたものではなく、現場の判斷によつて行はれたものであつた。

言文一致運動・口語の標準化

一方、地域差のある「方言」に對して國家レヴェルで統一された言語を教へる事は、「國語」の名に於て行はれた事であつたが、その「國語」教育が「漢語」教育を否定する立場からなされたものである事は改めて指摘しなければならない。三宅米吉は以下のやうに述べてゐる。

かく くち の ことば と ふみ の ことば と を ことに する わ もとより ねがわしからぬ こと にして、ゆくゆく わ かならず ひとつ に せざる べからざる なり。

上田萬年も述べてゐた事だが、文語の口語からの乖離は大變に問題視された。口頭語に文章語を近附ける事は急務とされたのである。言文一致運動もさうした發想の下に行はれた運動であつた。

政策的な必要と云ふ觀點から議論された話し言葉の統一であるから、話し言葉のそれ自體としての統一と云ふ事が考へられた訣ではない。書き言葉を話し言葉に近附けねばならない――さう云ふ發想から、混亂してゐる話し言葉を何とかして統一しなければならない、と云ふ意味での、話し言葉の標準化が構想されたのである。

ただ、具體的にどのやうな言葉が標準的な言葉とされるべきかは、まだ誰もはつきりとは判つてゐなかつた。

國語調査委員會

明治三十五年に國語調査委員會が設置された。同委員會は初めに以下の四項目を調査方針として立ててゐる。

  1. 文字ハ音韻文字(フォノグラム)ヲ採用スルコトトナシ假名羅馬字ナドノ得失ヲ調査スルコト
  2. 文章ハ言文一致體ヲ採用スルコトトシコレニ關スル調査ヲ爲スコト
  3. 國語ノ音韻組織ヲ調査スルコト
  4. 方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト

一番めから三番めまでは表記の表音化を國字政策の至上命令と定義した國語問題史上惡名高い「方針」だが、第四番めに擧げられた「標準語の選定」もそれらの方針と切つても切離せないものである。

そして大正五年、國語調査委員會は研究成果の一つとして大槻文彦編緝で『口語法』を公刊した。そこで「標準語」を以下のやうに定義してゐる。即ち、主トシテ今日東京ニ於テ專ラ教育アル人々ノ間ニ行ハルル口語、と云ふものである。以後、「標準語」は大體「東京方言」であると規定する事が一般化した。

參考文獻