「現代かなづかい」を改訂したものだが、現代語の音韻に従って書き表わす
方針に變りはなく、「現代かなづかい」(昭和21年)の原則を追認したものとなつてゐる。長野正編著『日本語表現法』(玉川大学出版部)p.107
假名遣ひの性質は變更され、許容される表記の範圍を廣げてゐる。
準則が
よりどころに言換へられた。
主として現代文のうち口語体のもの一般である事に變りはないが、
科学、技術、芸術、その他の各種専門分野や個々人の表記に及ぼそうとするものではないと明記された。
歴史的仮名遣いは、我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして尊重されるべきであると書かれるやうになつた。
しかし、許容は飽くまで許容であり、例外に過ぎず、基本的な原則は事實上、「現代かなづかい」と變らない。
準則
がよりどころ
に變つた事を、国語改革反對派の多くが歡迎してゐる。しかし、「現代かなづかい」は日本の現代社會に定着した、と云ふ既成事實があつて、その上で制限が緩和される事には、何の意味もない。
既に「現代かなづかい」が一般化してゐる現状、制限が目安に變つたとしても、国語改革の流れは全く變らない。国語改革の「制限緩和」は、せいぜい国語改革派の「寛容さ」を強調するものに過ぎない。
「法的」な制限がなくなつたにもかかはらず、「新かなづかい」が一般に使ひ續けられる事實を根據に、「新かなづかい」は一般に定着した、と強辯する国語改革推進派・中立派の人々の勢ひが以前よりも強くなつてゐるとすら言へる。
豫めマインドコントロールされた人々に意見を言はせても、その意見は少しも自由なものではない。自由にものを言へる場で人々がものを言つてゐたとしても、その人々は既に自由にものを考へられる状態にはない。それと同じ事が、「現代仮名遣い」の議論でも言へる。
「現代かなづかい」(昭和21年)の世の中で育つた人々が、いきなり「制限はない」と言はれても、「現代かなづかい」を手放す筈がない。しかも、「現代かなづかい」の「嘘」は一切告知されず、「現代かなづかい」と殆ど同じ内容の「現代仮名遣い」が「正しい表記の目安」として示されてゐるのである。
昭和61年に實施された假名遣の「改訂」は、その本質は「茶番」であつたと言ふほかはない。はつきり「制限ではない」と言はれてしまつた事もあり、この「現代仮名遣い」は、文言の上では「文句の附けやうがない」條文と化してしまつた。
国語改革推進派・維持派は、「現代仮名遣い」を、言葉の上では無意味なものと化しつつ、實質的には制限の根據として有效に利用出來る。国語改革反對派は、さう云ふ改革派の主張の欺瞞性をも含めて、国語改革の本質的な非人間性を指摘し續けて行く必要がある。