漢字を見直す動きがアジアにある、と朝日新聞は社説「漢字を生かす」(平成11年7月4日附)で報じてゐる。
注意しなければならないのは、「それなら漢字を共通にしよう」という安易な統一論に陥らないことだ。漢字はそれぞれの国の国語体系の中で独自に発展してきた。同じ漢字でも、意味が異なる場合もある。たとえば中国語の「信」は日本語の「手紙」、「手紙」は中国語では「トイレットペーパー」である。
私は朝日新聞の「國粹主義的」な發想に反對する。日本語と支那語で異る意味を持つからと言つて、同じ漢字を別のものとして扱はねばならない、と云ふ道理はないと、私は思ふ。
もしさうしたいと言ふのならば、同じ日本語でも或漢字を異る幾つかの意味で使ふ場合があるではないか、と私は言返したい。
- 丁
- ひのと。十干の第四番目。
- 働きざかりの男。
- 公役の勞につく人。
- 男の使用人。
- 木を切る音。
- 碁石を打つ音。國訓 ちょう
- 市街地の區劃の單位。
- 距離を測る單位。六十間。
- 二で割切れる數。偶數。
- 書物の紙一枚の事。
- 勞働者。
- 豆腐・蒟蒻などを數へる語。
- 人名 あつ・のり。
同じ日本語であつても、一つの漢字がこれだけ異る意味を持つ事がある。「日本語と支那語で同じ漢字が異る意味を持つ事がある」等と云ふのは無意味である。
日本語と支那語で意味の異る漢字は別の漢字として扱ふべきであるのならば、同じ日本語であつても意味の異る漢字は全て別の漢字として扱ふべきである。さうしなければ、筋が通らない。
日本語・中国語で漢字を分離すべきだと言ふ人は「それでは漢字が増え過ぎる」と反論するだらう。しかし、日本語と支那語で漢字を共通化すれば「異る漢字」は無闇に増えない、と云ふ事實を、なぜさう言ふ人は無視するのだらうか。
「漢字」を相互理解・文化交流の手段や材料として活用しないでおく手はない
、と朝日新聞は説く。私は、それならば、日本語と中国語で漢字を形式的に共通化するのは得策だ、と主張したい。
或は、日本人は、「文藝」の「藝」と「芸亭」の「芸」とを「芸」に、「辯護士」の「辯」、「辨理士」の「辨」、「安全瓣」の「瓣」を「弁」に統一出來たではないか。何で今更、日本語の漢字と中国語の漢字を「意味が異るから」と言つて分離したがるのか。