それよりも、翻訳物で長い独白が続く場面なんかで閉じ括弧がつかないことがあるのはどうにかならんか。英語では同一人物が長く喋るときに
``Peter Piper picked a peck of pickled pepper
``A peck of pickled pepper Peter Piper picked
``If Peter Piper picked a peck of pickled pepper,
``Where's the peck of pickled pepper Peter Piper picked ?''のように、段落の切れ目で引用符を閉じずに改行し、また引用符で始まるような書き方をするんだけど、それが訳本として出版されると、この括弧の使い方がそのままで
「色は匂へど散りぬるを
「我が世誰ぞ常ならむ
「有為の奥山今日越えて
「浅き夢見し酔いもせず」という感じになってることがよくある
續けて、翻訳家ともあろうものが、日本語と英語で約物の使い方が異なるということがわからないんだろうか?
、と千熊屋氏は書いてゐる。しかし、日本語獨特の約物の使い方
なるものは、案外當てにならないものである。
谷活東の散文「七夕の夜」に、次のやうなくだりがあるさうである。谷は泉鏡花の「杜若」に出てくる登場人物のモデルとなつた「文士」。
「うむ。足下の名は、
「谷と申します。
「家は何処だ。
「直ぐ下の右側で、橋の角で、
「何番地だ。
「二十八番地。
「どの家だ。
「あすこに見えまする右側の新しい家で、
「うむ、大きな家だな。
「側へ行くと小さうございます」
明治のものであるが、日本人によつて最初から日本語で書かれた文章である。段落の切れ目で引用符を閉じずに改行し、また引用符で始まるような書き方を
谷はしてゐる。
西鶴の『一代男』を見てもわかる通り、良く讀めば地の文と區別される、と云ふのが日本語の會話文の表現方法であつた。今の日本語の約物
は、英語などの外國語に於る約物
を參考に作られたものである。
鉤括弧のやうな約物
は、もともと日本語に存在しないもので、明治になつてから漸く整備された代物である。上記の谷の文章は、その整備期の文章である。
だが、その整備期は過ぎ去つたと言切れるだらうか。明治以來、日本人は傳統と西歐の折衷と云ふ困難な作業を續けてをり、その作業は完了してゐない。