制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「瞬間」平成13年6月20〜21日
公開
2001-06-21
改訂
2008-09-27
謝辭
よたろー樣、木村貴樣に、呉智英さんの「スベカラク」批判の在處を教へていただきました。また、メールでも情報をいただきました。ありがたうございます。

すべからく

須らく
當然。爲すべき事として。

非常に奇妙な表現だが、「須らく」は、「〜しなければならない」「〜するのが良い」と云ふ意圖の文章である事を、文章のはじめの部分で豫め示す「豫告語」として便利であるがゆゑに生殘つたのではないか、と高島俊男は推測してゐる。『お言葉ですが…(2)』213ページ以下

「すべからく」は「すべて」ではない、と説く呉智英氏

「現代ヤミ市――山本七平・岸田秀「日本人と『日本病』について」」より

「すべからく」を「すべて」の意味で用ゐるのは間違ひである。高島氏は「すべからく」の行く末を嘆いてゐるが、呉智英は「すべからく」を「すべて」の意味で使つてゐる人間を嘲笑つてゐる。

このあたり、岸田自らが立脚する「唯幻論」そのものという感じであるがもっとズサンな所は他にもある。岸田はケンカについて、こう言う。「日本人のけんかというのは、すべからく『怨みを晴らす』という形」。意味不明の日本語だ。岸田は「すべからく」を「すべて」の高級表現だと思っているのである。「すべからく」は漢字で書けば「須らく」で、意味は「ぜひ(〜をせよ)」であり、つまり「すべからず」の反対語である。早大文学部卒、和光大数授(「教授」の誤植だろうな、単なる)の岸田センセは、本書の中で日本語の動詞の語尾変化についても論じていらっしやるが、「ク語法」(高校古文で習う)については御存知ないらしい。否、センセだけを非難してはいけない。管見の範囲では、評論家・上野昂志、同・川本三郎、演劇家・唐十郎、詩人・鈴木志郎康などが「須らく」を「全て」の高級表現と思い込んで使っている。この四人に共通することは、いわば反権威・反規範主義である。そういった人たちが文法規範に無知であること自体はかまわないとしても、「全て」と平易に言えばすむものを、高級表現だと思って誤用する心は皇室と縁組したがる成金のようで、卑しい。その卑しさがファシズムを生んだとするのが、単純化して言えば、心理学者・フロムの説である。そこまで見すえた時、初めて、個別科学である心理学が、説明原理を支える一柱となりうるのだ。

保守派・右翼の仲間みたいな事になつてゐる最近の呉智英さんとは違つて、當時の呉氏は自分で自分が左翼の仲間だと思つてゐたやうで、どことなく左翼風の相手を見下した樣な文體を用ゐてゐるのもそのせゐだらう。その言ひ分は尤もで、今でも通用する。

「趣味としての摘發――誤記・誤字・誤植をあげつらふ」より

もう一つ、呉氏の文章。

'71年頃、『少年マガジン』誌上に「へんな学校」というおもしろいコラムがあった。ここで、「すべからく」という語を「すべて」という意味に誤用していた。「すべからく」とは「為可し」のク語法による名詞化だから、「なすべきことには」「ぜひとも」というような意味であり、「すべて」とは全く無関係。

さっそく、投書。

すぐに、返事。

やがて、単行本が出版されると、サイン本の寄贈を受けた。満足である。

「もつたいをつけた迷文で珍論を説く 上野昂志の卷」より

『バカにつける藥』第二章「バカを撃つ」の「もつたいをつけた迷文で珍論を説く 上野昂志の卷」に、『インテリ大戰爭』で叩かれた上野氏と呉氏との論爭(「ガロ」誌上)が再録されてゐる。

上野氏は、書くといふ場の力學が呉氏はわかつてゐない、と言ひ、言葉の誤用は無知である事もあるが、屡々勇み足によるものであり、呉氏の言ふ「高級表現」に對する憧れによるものではない、と述べる。「すべからく」を「すべて」の意味で誤用してゐるのはやはり『すべからく』『すべし』となり得るやうな文脈でなされてゐるのである、と上野氏は反論する。

呉氏は、なり得るといふ反論や言ひ譯を、豫め十分檢討した上で、私は言つてゐるのだ、と書いてゐる。續いて、なぜ誤用を咎めるのか、を呉氏は簡單に纏めてゐる。

  1. 無知は恥づかしいが、それはそれだけのことである。失敗は私にもある。誤字誤用も然り。
  2. 「須らく」は、「すべし」のク語法による變化であり、意味は、義務・命令・當爲である。非常にわかりやすく言へば、「すべからず」が禁止(するな)なのだから、「すべからく」が命令(せよ)だと思へば、當たらずといへども遠くはない。
  3. だが、誤用がこの十餘年、特に目につく。それは「須らく」を「すべて」の高尚な雅語だと思つてのことである。そして、この誤用者は、ほとんどスベカラク(上野よ、どうしてこの文章を「すべし」で結べると言ふのだ)。一つは、上野に代表される反權威・反秩序・反文部省の人たち。そして、もう一つは、前者ほど多數ではないが、宮本盛太郎など、前者とは逆に反權威・反秩序・反文部省の人たちに反感を覺えながら、單に、反反權威・反反秩序・反反文部省を對置することしかできない人たち。この二種類である。
  4. そこには、次の心情が見てとれる。まづ、前者。權威主義的な雅語・文語を批判してゐるつもりのその心の底では、自分が雅語・文語をつかひこなせない妬みがとぐろを卷いてゐる。この人たちが權威批判をするのは、自分が權威から疎外されてゐるからにすぎない。次に、後者。この人たちは、戰後民主主義の中では、本來は權力に關はる立場にゐながら、言論界ではしばしば少數派の悲哀を味ははされてゐる。言つてみれば、アメリカにおけるプア・ホワイトである。プア・ホワイトの妬みの構造は、前者と類似してゐる。つまり、前者も後者も、心情的に、自分が正統になりえないことの郡合のいい大義名分として、反正統を唱へてゐるのである。
  5. といふやうなことも、やはり省みれば、誰の心の中にもスベカラク存在する(上野よ、これはどうだ)。だから、これについても、單純な無知無學よりねぢれてゐる分だけ卑しいが、私のみが石もて打つことはできない。
  6. しかし、民主主義は、この卑しさを制度的・構造的に生み出し増殖させる。それは、平準化=「易しさへの強制」の逆説である。漢字は難解であり權威主義的であり、特權階級にのみ奉仕するものだとして、民主主義の名において、易しさへの國家權力による強制が行なはれた。當用漢字制度などの漢字制限である。「須く」も、この一環として、國家權力によつて抹殺されたのだ。
  7. それでも、國家權力によるどんなに理不盡な蠻行があつたとしても、結果的に、易しさの實現が成功し、ひいては、あらゆる權威が消滅する社會が到來したのなら、それはそれでかまはない。だが、現實に到來したのは、漢字制限による言語表現の混亂と、それに乘じて、反權成を大義名分にする權威亡者の跳梁だけであつた。
  8. ここにこそ、民主主義の究極形がスターリニズムとファシズムであることが、はつきりと現はれてゐる。

ほかの例

価値相対化と社会の女性化が進み、ありとあらゆる現象にすべからく理由が求められるようになり、話し合いは紳士的で絶対的抑圧は暴力的で野蛮であるという画一的風潮の行き着いた果てが、身辺の概念をひとしなみに記号化するようになってしまった人間の発生ではなかろうかね。

 いいログイン(くどい)に『With You』のデモが収録されていたので観る。それにしても安易なタイトルだ。まあ、Hゲームのタイトルというのは、すべからく安直なものだと相場が決まっているが。...いや、タイトルに関して人のことを言える立場にないことは自覚しているつもりだ(おい)。

今更ですが、沢渡さん、「すべからく」の使ひ方、間違つてます。

辭書の問題

三省堂

三省堂は言葉の正しさと云ふ觀點で辭書を作つてゐない會社で、誤用でも何でも「使はれてゐれば何でもあり」の立場だから云々。

何うも「近年の用法」なるものが「ある」と言はれるやうになつて、誰もが安心してしまつてゐるやうな印象。しかし、「ニュアンス」が何う斯う言はれるやうでは、言葉として安心して使へるものではない。

「女性はすべからく美しい」式の言ひ方は、意味が曖昧だから、避けた方が無難。と言ふか、なぜか誤用を受容れる人つて「ニュアンス」が何う斯う言出すよね。何なんだらう。

「すべからく〜べし」の古典的な用法ならば、意味も何も確定してゐて、安心して使へる。

岩波国語辞典第三版

ちなみに、うちのサイトではおなじみ岩波国語辞典第三版の記述。

すべからく【須らく】
(副)当然。なすべきこととして。「学生は――勉強すべきだ」<すべくあることの意。下を「べし」で結ぶ。

三省堂の辭書と違つて、こちらははつきり「べしで結ぶ」となつてゐます。

佐藤定義編『最新詳解古語』(平成十年二月二十日最新版九版発行・明治書院)

一往古語辭典からも。

すべからく【須く】
(副)ぜひすべきことには。当然すべきこととして。「徳をつかん(=ツケヨウ)と思はば、――まづその心づかひを修行すべし。」<徒二一七>◎「すべかり」(「す」はサ変動詞。「べかり」は助動詞「べし」の補助活用)の未然形+接尾語(一説、準体助詞)「く」の一語化で、「すべくあること」の意。漢文訓読からの語で、その系統の文章に現われ、下の「…すべし」と応ずるのが普通。

「当然」では説明として中途半端ですが、「当然すべきこととして」なら意味がはつきり解ります。

もともと「当然〜すべきである」と云ふ意味だつたのが、最近になつて「すべき」の部分が拔け落ちて、「当然〜である」の意味で使はれる事も許容されるやうになつて來た、と云ふだけの話であるやうに思はれます。本來當爲の表現だつたのが、状態の表現にも用ゐられるやうになつた、と云ふ事のやうだけれども。

やつぱり「新しい用法」は、「ニュアンス」が何う斯う言はないと正當化できない話で、それならまだまだ「正しい用法」として認めないでおいた方が良いと思ひます。新語の類は、「ニュアンス」の域を超えて一般に認められる特定の語義が確定してから、一般的な用語法として認めた方が良いでせう。

參考