制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」2000-11-02
公開
2001-06-21

「高杉親知の日本語内省記」を斬る

高杉親知氏が一年の沈默を破り、日本語内省記で突然新しい主張をがんがん公開し始めた。

幾つかは納得出來る主張。鈍化する思考力は慥かにさうである。

しかし日本語において英語が漢語を置き換えるのは問題がある。日本人は、意味が広い大和言葉の隙間を、千年以上かけて意味が狭い漢語で埋めてきた。それが日本語の幅を広げたのだが、今後英語由来の外来語を増やしても日本語は豊かにならない。英単語は大和言葉と同じく意味が広いからだ。むしろ漢語を押し潰していくので、幅は狭まるばかりである。「新規開店」なら店が出来たことが明らかだが、「新規オープン」では何が出来たのかは分からない。例えば最近「チェック」という言葉が安易に使われていると感じる。漢語なら「点検」、「検査」、「照合」、「確認」、「検証」、「検図」、「解析」、「分析」などを使い分けるのに、英語なら「チェック」一つだ。楽だが、単純で曖昧であるのは確かだろう。

一方で、なんだか考へ過ぎの主張も。日本語平等化計画「女」なんか見たくないの二つの主張は明かにをかしい。

元々「嫌」は他人に対する不信を表す。なぜ女偏なのかは分からないが、良い意味合いでないのは確かだ。

いつの間にか、「惡い意味の漢字に女と云ふ字を使ふのは許せない」と云ふ話になつてゐる。

過剩に「この語は差別的か、否か」を意識する事によつて世の中が平等になると私は思はない。だつてあなた、いきなり「この語には實は偏見が隱されてゐるのですよ」と言はれて、それではじめて氣附くやうな「偏見」等、本當に存在するものですか。存在しない「惡」を恰も事實であるかのやうな顏をして提示し、反省を迫るのは、「南京虐殺」信者もさうですし、怪しげな新興宗教の教祖もよくやらかす事です。日本人は反省が好きですからね、「贋物の罪悪感」を植ゑつけられて、平氣で反省する。本當は、さう云ふ「安易な反省」こそ、反省すべきなのに。

差別用語にしろ何にしろ、或語が存在すると云ふ事實は認めるべきですね。語の存在そのものをいきなり否定しようとするのではなく、まづは存在を認める。さうでなければ、それは「見て見ぬ振り」と一緒ですから。「問題」があるのなら、見据ゑるべきで、目を逸らすべきではない。その上で、その「問題」が、本當に問題であるのかどうか、よくよく檢討してみるべきであります。安易に「問題」を重大視し、いきなり「反省」してしまふのは條件反射的行動であり、「道徳的」と言ひながら、寧ろ道徳の抛棄であります。善人になる爲に理性的な行動を抛棄する事は、人間である事を抛棄してしまふ事にほかならないから、極めて不道徳なのであります。