制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2002-09-28
改訂
2003-02-09

「神」について

その1

その2

「神」は現在、「人智を越えてすぐれた尊い存在」としての宗教的信仰の對象一般を指す語として使はれてゐます。

もともとは、神道の「八百萬の神々」を指す語が神です。神道で言ふ「八百萬の神々」は、人間と境を接する存在で、或はその境にはけぢめがありません。

キリスト教が日本に入つて來た時、絶對者デウスを宣教師は「天主」と譯したりそのまま「でうす」と呼ぶやうにしたりしてゐました。彼らは、自分逹のデウスと神道の神々とが異るものである事を知つてゐました。

江戸時代、鎖國とキリシタン彈壓によつて、日本のキリスト教は潰滅しました。明治になつて、再びキリスト教が日本に上陸したのですが、その時、デウス或はGodは、神と譯されました。

その結果、現在の日本では、神と云ふ語に絶對者と云ふ意味合ひすら賦與されるやうになつてゐます。「現人神」とか「軍神」とかいつた語に、現代の日本人は拒絶反應を起しますが、恰も人が絶對者になつたかのやうに思はれるせゐでせう。

戰前・戰中の指導者が或意味、その邊の誤解をしつつ、國民にもその誤解をするやう強ひた側面もあり、一概にさう云ふ誤解も本當の誤解と言ひ難い氣もするのですが、天皇の「人間宣言」を喜ぶ連中がどこまで解つて喜んでゐるのか、非常に氣がかりです。

「絶對者としての天皇」が「人間宣言」で「絶對者の地位から滑り落ちた」とか言つて喜んでゐるのだとしたら、彼らの「神」の觀念は戰前の指導者の天皇觀の域を出てゐない事になります。即ち、彼らの頭の中は戰前の状態に留まつてゐる、彼らは戰前から全然進歩してゐない、と云ふ事になります。進歩的な事を言つてゐるやうに見える彼らが、實は戰前の古めかしい觀念に頭の中を支配されてゐるとしたら、彼らの主張は危なつかしくてとても受容れられるものではない、と云ふ事になります。

神道の神が人間と同じ相對的の世界に住む存在であるならば、「神である天皇」も當然絶對者ではあり得ません。

實際のところ、「人間宣言」なる通稱も、天皇の側から言出されたものではなく、「天皇制反對論者」が附けたもので、相當怪しい用語と言へます。いつたいに、戰後直後は混亂が非道く、當時に出た文書や法律、命令は檢討すればするほど譯がわからなくなるやうな代物です。しかし、この混亂は、淵源を辿れば日本が西歐の文化・文明を受容れた事に原因があります。單に戰後の混亂だけに注意すれば良いと云ふものではありません。

そして、西歐と日本の相克とは、即ちキリスト教と神道の相克である事――この事をもつとも象徴的に示してゐるのが、「神」と云ふ語にほかならない、と思はれます。