制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2003-07-19
改訂
2006-02-19

「自由」について

二つの「自由」――freedomとliberty

もとは佛教用語の「自由」は、勝手氣儘を意味し、惡い意味の言葉でした。その「自由」と云ふ言葉は、明治以來、freedom/libertyの譯語として使はれてゐます。最初に使つたのは西周だと云ふ話です。

「意味の違ひ」に關する參考書の解説

freedomとlibertyとは意味に違ひがある、と屡々言はれます。

「freedomは、消極的な自由で、障碍や拘束の無い事、或は解放感を指す、libertyは、積極的な自由で、發言の自由や行動の自由、束縛からの解放を意味す」と云ふものですが、實際には區別されない事が多いやうです。以下、參考書の記述より。

freedomは、獨立・解放・免除の意味があります。「言論の自由」はfreedom of speech、「出版の自由」はfreedom of the press。libertyには、何かをする「權利」の意味があります。また、「政治的自由」はpolitical liberty。

freeとなると、まづ、拘束から自由である事を意味します。人がfreeであれば「奴隷でない」「監禁されてゐない」、國がfreeであれば「獨立してゐる」、と云ふ事になります。拘束されてゐない「暇」な状態も指します。拘束がない状態で何かをする事が出來る、と云ふ場合、be free to do。さらに、「氣前が良い」「物惜しみしない」と云ふ意味もあつて、「無料」の意味も出てきます。ただ、a free spenderは「金遣ひの荒い人」で、良い意味ではありません。

liberalは、「自由主義の」「進歩主義の」の意味もありますが、「寛大な」「細かい事に拘らない」「氣前の良い」と云ふ意味がまづ、あります。こちらは、open-mindedと云ふ事で、もともと良い意味です。

「自由主義者」「進歩主義者」はliberalist。「自由主義」はliberalism。freemanと言ふと、奴隷でない「自由民」とか「自由市民」とかいつた意味になります。

ただ、今では兩者の意味は相互に通用する事が多いやうで、ニュアンスが違ふ、程度に考へても良いかとは思ひます。

サー・ハーバート・リードの個人的な見解

サー・ハーバート・リードが矢張りlibertyとfreedomを區別してゐます。

英語には、'liberty'と'freedom'という二つの語がある。これは、ほとんどの言語が持ち合わせておらぬ利点である。私の個人的見解ではあるが、それら二つの語には区別があり、しかも、この区別は重要である。あえて述べるならば、'liberty'は身体の或る状態を指し、'freedom'は精神の或る状態を指す。

M.クランストンは、現實の英語の用法に於て、そのやうな區別が行はれてゐない事を指摘してゐます。(マルティン・ブーバーの所謂)「より高い自由」「より低い自由」について、それら二つの概念を區別すべきであるとサー・ハーバートは主張し、英語に二つの語がある事實を根據として持出したのだが、これは拙いやり方だとクランストンは述べてゐます。

三つの「自由」――河合榮治郎に據る

「自由」の定義は、サー・ジョージ・コーンウォール・ルイスによれば、二百以上あるさうです。Use and Abuse of Political Terms, 1832

二百年前でそのやうな状況であれば、現在ではさらに多義となつてゐるだらうから、簡単に「自由」とは何かを言へる筈もないでせう。が、取敢ず一般に「自由」とは、Absence of Restraint、強制のない状態を意味する、と云ふ事で意見は一致してゐます。

が、この「強制のない状態」と言つても、それには幾つかの状態が考へられ、その結果、「自由」は大體、三つに分類されます。

最初に、團體と團體、團體と個人、個人と個人との間に、「強制のない状態」です。要は、團體または個人が、他の團體または個人から強制を受けてゐない事です。外的な關係における強制のない状態は、「社會的自由」「市民的自由」と呼ばれてゐます。

次に、さう云ふ團體や個人による外的な強制がなくとも、人間の意志が何かによつて決定されてゐたならば、やはり自由とは言へません。階級とか、職業とか、さう云ふ社會的立場が必然的に意識を決定するとすれば、それは自由ではありません。これらは哲學的に「意志決定論」と呼ばれるもので、それに對して、行爲に際して二者擇一を迫られた時、その一方を選んで他方を捨てる意志決定を自己の決斷で行ひ、その責任が常に自己にある事を「意志自由論」と呼びます。現實には外的・物的な條件の束縛がありますが、さう云ふ條件を考慮から排除した上で殘る人間の主體的な意志決定を自由の體驗と考へる――と云ふのが「意志自由」の觀念です。

そして、もう一つ、これはキリスト教を齧つた事のある人間には割と馴染みのある概念になるのですが、「道徳的自由(Moral Liberty)」と云ふものがあります。我々の意志が自由に行爲を選べるにしても、間違つた事を選ぶ事もあれば正しい事を選ぶ事もある。或價値に基いて判斷出來る時、自然な衝動に從へば誤つた方を選んでしまふ二者選擇もある。しかし、その時、敢て正しい方を選ぶのが眞の意味の自由である、と言ふのです。

このうち、第三の「道徳的自由」は、一般に分りづらいでせうが、曽野綾子女史がこんな事を言つてゐました。

決して占いに動かされてはいけない……占いや迷信の類で生活をしだすということは、魂の自由をうしなうことだ。

この場合、或價値とは、道徳的法則ですが、人がその道徳的法則を主體的に選びとつてゐる――人が自ら法則の立法者となつてゐる――と考へるのであつて、その道徳的法則が人を支配するのではないと考へます。

この「道徳的自由」は、ソクラテスが最初に唱へ、ストア派がそれを襲用し、のちにキリスト教教會が採入れます。近世に至り、『社會契約論』の中でルソーがこれを重要な位置に据ゑ、「自然状態から市民國家に移行する時、人間は『道徳的自由』を獲得してゐる」と云ふ事を述べ、「一般意志」に服從する「道徳的自由」こそが眞の自由である、としてゐます。ルソーの考へを發展させたのがカントで、彼の用語では「理性」が「道徳的自由」における從ふべき法になります。

「社會的自由」「意志自由」「道徳的自由」は、それぞれ違ふものですが、後の二つは密接に關係してゐます。しかし、「道徳的自由」は、社會的な方面から考へを徹底していくと、「社會的自由」と正反對の意義を持つやうになるので注意が必要です。ヘーゲルは、カントの「理性」を「外的表現」として實現するのは國家である、詰り「國家は理性的である」として、「國家に從ふ事は自己の内なる理性の法則に從ふ事であり、國家に從ふ事こそ眞の自由である」と云ふ結論を出し、國家による個人の支配を正當化する論理を提供してゐます。

自由主義

自由主義は社會思想の一種であり、その根柢には哲學を持つ、夫れは、十八世紀末までは自然法の哲學であり、その後は功利主義の哲學であつたが、現在は理想主義である――と河合榮治郎は指摘してゐます。

理想主義は、「先天的の能力」=「經驗から導き出されたのではない能力」の存在を主張する事を特色とする哲學である。理想主義は道徳哲學と社會哲學に特色がある。

慥かに、クリストファ・ドーソンもまた「政治と國民文化」(『政治の彼方に』所收)で、自由とは大衆が權力に對する權利ではなく、個人と團體が最高度の自己發展を遂げ得る權利だ、と述べてゐます。

一方、ドーソンは、私は自由主義を以て一つの過渡期的現象と信ずるものである。と述べてゐます。古いキリスト教的世界と新らしい世俗文明との中間の薄暮の状態とみる訣です。ドーソンは、進歩主義に屬せず、道徳的理想主義に基いて諸問題を解決しようとする自由主義を必ずしも信用してはゐません。

自由と平等

ゲーテが自由と平等とを併せ與へんとするものは夢想家か山師かであると述べてゐるさうである。

參考文獻