制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成十七年六月二十二日
公開
2009-01-03

「保守」「真正保守」

一時期、「真正保守」なる異常な用語が大流行してゐてウェブでもオフラインでもあちこちで見られたのだけれども、見るたびに嫌な思ひをしてゐた。

「保守」は、「保守派」「保守的な態度」のやうな形容の爲の言ひ方か、「保守する事」の意味でか、そのどちらかの使ひ方しかしない。「革新と保守」のやうな對比的な言ひ方はするにしても、「保守」がそれ自體として何らかの思想を意味する事はない。フランス革命以來、進歩的・革新的な、變化を求める態度が出現した訣だが、それに對して、變化によつて生ずる危險がありはしないかと慎重な態度を取る「保守的な態度」が、相對的な立場として「ある」やうになつた。決して積極的な態度ではないし、思想でもない。

最近では、非道い話だが、「文學者」「哲學者」のやうに、「保守」と云ふ語を以て人を指す語とする人もゐるみたいだ。けれども、これは根本的に勘違ひしてゐる。「野嵜は保守派だ」とは言ふが、「野嵜は保守だ」とは言はない。

「真正」は、絶對的な「真理」「真実」と、相對的な「正義」「正しい」とをごつちやにした言ひ方で、こんな妙な言葉を平氣で使ふのは定めし頭の惡い人間だらう。

――で、ぐぐつてみたのだが、1989年11月30日に西部邁が「真正保守を求めて」なる講演をやつてゐる。

やつぱり、この邊の「保守」の連中が言出した事なのだらうと思ふ。西部は「保守派」なのに國語に關しては一切「保守」する必要性を認めない人間だから、ラディカルな言葉遣ひを好んでしてゐるのだらう。

「真正保守主義者」は「真正」の「保守主義者」、「真正保守思想」は「真正」の「保守思想」――と云ふのならば、一往「正しい」言葉の使ひ方ではあると言へなくもない。けれども、「真正保守」の「主義者」、「真正保守」の「思想」なんてものはあり得ない。


それにしても、「真正」だなんて、良くも言へたものだ。「真」にして「正」なり! 馬鹿ぢやないか。小ッ恥かしくて、俺にはとても使ふ氣にならない言ひ方である。實際、野嵜は一度も「真正保守」と言つた事がない。松原先生を「真正保守」と言つた人もゐたやうだが、何ともまあ。