福島忠彦氏に據る「前書き」から引用。
なお、現行の国語施策として示されている「常用漢字表」「送り仮名の付け方」「現代仮名遣」等は、当然のことながら、国民の言語生活全般を拘束するものではなく、また、それ以外のものが日本語として全て間違いであるとしているものでもありません。しかし、社会生活を円滑に進めていくためには、法令・公用文書・新聞・雑誌・放送等の公共性の高い分野では、標準的な表記のための目安やよりどころを定めておく必要があるというのが、国語審議会の答申及びそれに基づく国語施策の趣旨であります。
如何にも官僚的な「答辯」で、言語明瞭意味不明の典型と言つて良い。「日本語として正しいか正しくないか」と「日本語の社会において正しいか正しくないか」とを微妙に區別してゐるらしいのだが、それらは區別出來るのか。
したがって、本書に掲げられている問答の答えも、国語施策の示すところに従って文章を書くとすれば、こうなるであろうというものを中心としており、本書の趣旨も国民の言語生活について規範を示そうとするよりも、むしろ人々が日本語について考えたり話し合ったりするきっかけとなり、参考となるものであることをねらいとしております。
嘘つけと言ひたくなる内容であるのは如何なものか。
續いて、「凡例」から引用。
過去二十年にわたって発行された原本の発行期間中に、次のような国語施策の改定が行なわれた。
「常用漢字表(昭和56年・内閣告示)」「現代仮名遣い(昭和61年・内閣告示)」「外来語の表記(平成3年・内閣告示)」
右の改定以前に発行されたものは、当然ながら旧施策をよりどころとして解説されている。しかし、その解説中にあらわれる「当用漢字表」と「当用漢字字体表」は「常用漢字表」に、「当用漢字音訓表」は「常用漢字表の音訓欄」に、また「現代かなづかい」は「現代仮名遣い」にと、それぞれ現行の施策に読み替えていただければ、内容的には、現在でもそのまま適用できるものである。
結局のところ、これは「国語施策の改定」が何の意味もなかつたと言つてゐるのでないか。
原文における表記の基準は、漢字の字種・音訓・字体については、「当用漢字表」(昭和55年まで)及び「常用漢字表」(昭和56年以降)、仮名遣いについては、「現代かなづかい」(昭和60年まで)及び「現代仮名遣い」(昭和61年以降)、また、用字用語は「文部省用字用語例」、送り仮名は「文部省公用文送り仮名用例集」に基本的に従っている。これら国語施策の改定の前後で、若干表記の仕方の異なる部分があるが、本書にはあえて原本の表記のまま収録することとした。
これは、金田一春彦先生によれば「言葉の乱れ」に當るのではないか。(金田一に據れば、國語改革に據つて「正しい言葉」の「基準」が作られたから「言葉の乱れ」は「少なくなった」事になるのだが、その國語改革で「基準」が變ると、かうした(金田一の所謂)「言葉の乱れ」が「生ずる」事になる。となると、金田一の所謂「言葉の乱れ」を生じさせない爲に、金田一は言葉の固定を主張しなければならなくなるし、當然、國語施策の變更に反對しなければならなくなる。が、さうすると、今度は「言葉は變化する」「言葉は生きてゐる」と云ふ觀點から金田一は批判される事になるし、同時に國語施策そのものが否定される事になる。一方、國語改革の主導者逹は、戰後の改革で實施された施策について「固定的なものではない」と辯解してゐる。國語改革を支持する立場の人々は、それぞれ場當り的に改革擁護の論理を展開してゐる。それらを綜合して考へると、國語改革を一貫する論理は全く存在しない事が判る。彼らはただ、既存の國語を破壊したかつたに過ぎない。その目的を達した後、如何にして「新しい國語」を創造するかが問題になつたのだが、そこで見解の相違が明かになり、結果として混亂が生じてゐる)