制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成13年7月13日
公開
2001-08-04
改訂
2002-07-20

美しくない美人

・・・ってのは置いといて、自分が二千年生きてきたわけでもないのに二千年の伝統だか歴史だか何だかと言ってほくそ笑んでるようぢゃ所詮やられ役を脱せません。でも、びぢんだから惜しいなぁ・・・

「美人」を「びじん」ではなくびぢんと表記しなければならない必然性を御説明願ひたい……ひよつとして「美人」とは無關係の何かなのか。

それから、「現代かなづかい」か正かなづかひか、どちらかに表記は統一すべし。ちやんぽんは氣持ちが惡い。


「……」を「・・・」と表記するのが「ワープロ世代」の特徴。ワープロに使はれてゐるやうに見える。

反論

上。「美人」と無関係ぢゃないです。(いきなり神経逆撫でしてどうする。)ここで「びじん」ではなく「びぢん」という表記を(誤りであるということを一応認識した上で)用いたのは、単なる「遊び」に過ぎません。言語学的その他広く認められた何かに基づく必然性は皆無です。他にもいろいろ「誤表記」がありますけど、一部(自分で気付かずに間違ってる場合)を除いて「遊び」です。強いて言えば、そういう遊び心を満たすのが私にとっての必然性です。

【2001.07.16追記。やや。やや意外なところからご意見が。おんな好きっ!・・・違った、すいません、「ぢ」の字愛好家よ、今こそ立ち上がるべし。とな(たなかQさん鯖の煮噌味、2001.07.14記事)。「ぢ」のぢんけん運動、いや、人ぢゃなくて字だから「ぢけん運動」? 関係ありませんが、アブラゼミの啼き声って「ぢー」ですよね。そういやまだアブラゼミ啼いてません、私の生息域近辺。】

下。どちらかに統一した方が美しい。個人的にはそう思います。文章の質を可能な限り上げようと思うならば、そういった点にも当然気を配るべきでしょう。しかし、私はそういった面で文章の質を可能な限り上げようとは思っていません。(思ったところで結果は大差ないでしょうが。)私自身は主に「現代かなづかい」に親しんで育ちました。歴史的仮名遣(「正かなづかひ」って言うんですか?)を恣意的に混ぜてたりするのは、ある種の悪ふざけと憧憬からなのかと思ったりしてます


で、その、意外なところからご意見なるもの。

「地面」を「じめん」と書く不条理なこの世の中。「ぢ」の字愛好家よ、今こそ立ち上がるべし。<謎

なんでもかんでも「ぢ」と書けばよろしい、と云ふ譯ではない。で、飜つて「ぢの」ぢんけん運動を見ると、「びぢん」「ぢんけん」「ぢけん」「ぢー」と云ふ一種の假名遣と、「ぢめん」と云ふ歴史的假名遣の話がごつちやになつてゐるやうな氣がする。

苦言

私に理解出來ないのは、「奇矯な假名遣を用ゐるのは、ふざけてゐるからです」の類の言ひ譯である。なぜ、奇矯な假名遣を用ゐないと、ふざけられないのか。なぜ、正しい表記を用ゐてふざけてはいけないのか。或は、なぜ言葉を亂してまで、ふざけなければならないのか。

或は、言葉の論理から見て必然性がないと云ふ事に對して、個人的な嗜好で對抗される理由が分からない。言葉の決りは守るのが當り前なのであり、「それを守るか守らないかは個人の嗜好で決定出來る」と考へるのは間違つてゐる。

もし、個人の嗜好で自分勝手に言葉を弄んで良いとすると、言葉は相互に通じないものと化す。最終的に言葉はコミュニケートの手段としての意味を失ふ。それでは困る。「何を大袈裟な」から「野嵜は電波」まで非難をされさうな氣もするが、さうやつて甘えて言葉の「規範性」に依存してゐると、その「規範性」はいつの間にか消滅するだらう。「規範性」は、意識して守る必要がある。

と言ふか

ふざけるな。