制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-01-31

「現代かなづかい」の問題點と、正假名遣ひによる問題解決

「現代かなづかい」の問題點のうち、正假名遣ひによつて解消される或は少くとも輕減されるであらうと思はれるものを幾つか擧げる。

原理原則の問題──「現代かなづかい」は曲學阿世の「學問的イデオロギー」の産物である

音聲言語に表記を從屬せしめる事を「現代かなづかい」は目指したが、却つて「現代かなづかい」と云ふ表記に音聲言語が從屬させられる結果に終つてゐる。

「現代かなづかい」は定められた規則に國民が無批判に從はなければ實施不可能なものである。そして、音聲言語と表記は一體であると云ふ前提が、「現代かなづかい」を使用する者に標準語を強要してしまつてゐる。

即ち、「現代かなづかい」が實施されてゐる現状は、表記が音聲言語に從屬してゐるのではなく、音聲言語が表記に從屬してゐる状態である。

方言の問題──「現代かなづかい」は標準語を強要する「言語ファッショ」の産物である

方言の消滅を「現代かなづかい」獨りの責任にするのは必ずしも正しい事とは言へまいが、「現代かなづかい」にその責任の一端がある事は間違ひない。

歴史的假名遣は少くとも表記の規則のみを定めるものであり、音聲言語をも束縛しようと云ふものではない。歴史的假名遣を「標準語」強要の道具と見做す見方もあるが、兩者を嚴密に區別した時、さうした見方は成立たなくなる。

表記のルールを音聲言語のルールから獨立したものとするのならば、表記の固定が音聲言語の固定に繋がらない事は自明の事であらう。そして、表記と音聲言語は獨立のものであるとする歴史的假名遣は「現代かなづかい」ほどには音聲言語を束縛せず、「現代かなづかい」のやうに方言を破壞する事はない。歴史的假名遣で書かれた文章は讀み手の都合で方言で讀まれてもよい。或は、薩摩辯の書き手が書いた文章を、東北辯の讀み手が讀めなければ意味がないと考へるのが歴史的假名遣の立場であらう。

「現代かなづかい」は、書かれた通り發音されなければ、その存在意義が消滅する。ゆゑに、却つて發音──音聲言語に制約を與へてしまふ。「現代かなづかい」で書かれた文章はそのまま發音されねばならぬが、これは標準語を基準に「規範」として「現代かなづかい」が制定された事に原因があると云ふのは言過ぎか。

いづれにせよ、現状、標準語で書かれた「現代かなづかい」の文章を標準語で發音するやうに、讀者は強制されてゐる。音聲言語と表記は一體であるべきであると云ふイデオロギーが、却つて現實に害惡を齎してゐる。

聾唖者への配慮──「現代かなづかい」は「健常者の論理」の産物である

「現代かなづかい」は飽くまで「發音される通りに書く」と云ふのが原則である。否、内閣告示には「音韻」と書かれてゐる、そして「音韻」とは「耳に聞こえる音」とは違ふ、と云ふ反論もあるかと思ふが、現實に一般の日本人が「音韻」と「耳に聞こえる音」とを區別してゐるかと云ふと、或は區別すべきだと考へてゐるかと云ふと、さうではなからう。また「現代かなづかい」立案者が將來、日本語を表音化しようと考へてゐた事實もある。

さう云つた事から考へると──否、考へるまでもなく──「現代かなづかい」は「日本語の發音を聽く事が出來、日本語の發音をする事が出來る人間」にとつて便利なやうに作られてゐる事は明かである。しかしこれは、音を聽く事が出來ない或は喋る事が出來ない人間の事を無視する事になつてはゐまいか。

實際のところ、聾唖者が言語を解する時點で、音聲言語が言語の本質であると云ふ主張の誤りは明白なのである。それを眞理と考へたソシュール言語學およびそれをもとに成立した表音主義が誤りである事もまた明白である。同時に表音主義を將來實現するための一階梯として實施された「現代かなづかい」が誤りである事も明白である。

日本語の發音を原理原則とする「現代かなづかい」は聾唖者に對する差別であると云ふ事も可能である譯で、逆に、語を基準としてゐる正かなづかひは「障礙者に優しい」と言ふ事も可能である。その點、「弱者の身方」である筈の日本的左翼の方々には是非とも正かなづかひの使用をおすすめしたい。

外國人の學習の障礙──「現代かなづかい」は島国根性の産物である

英語、フランス語、ドイツ語、その他の全ての言語で表音主義が採用された例はない。(例外としてハングルがあるとされるが、個人的にあれは發音記號であると思ふ。また、私見では、ハングルの普及したのは、日本の帝國主義に對する反動であり、「現代かなづかい」が普及したのと同樣の事情によるものであると思ふ)アメリカ人やイギリス人は、enoughと書き、womenと書くが、これは「現代の音韻」を基準にした表記ではない。いはば表意主義を現在でも英語は採用してゐるのである。英語圈にも、英語を發音記號で表記しようと云ふ運動はあるが、普及してゐない。

英語圈では、表音主義は非常識なのである。さう云ふ英語圈の人間にとつて、表音主義を採用してゐる「現代かなづかい」はどのやうに見えるであらうか。

「發音通りに書く」と云ふ原則は、やはり日本語の發音に慣れてゐない外國人に對する「障壁」ともならう。或は、外國人が日本語を學習する際、「發音通り」と云ふ事を故意に隠さないと、教授が出來ないのが現實である。

言語表現は語に從ふのがルールなのであり、外國語學習はそのルールを學ぶものである。發音を基準にして言葉を學ぶ事は不可能である。即ち、「現代かなづかい」の據つて立つ表音主義が間違ひなのは、語學學習の觀點から見ても明かなのである。