カタカナ語が増えて日本語が亂れてゐると言つても、そもそも日本語は漢語を採入れて成立したのではないか──今さら英語やその他の外國語を採入れても、ちつとも構はないのではないか、それで日本語は亂れやしないのではないか。
確かに上代、奈良、平安時代、日本人は日本語に漢語を採入れた。そして、日本語は豐かな表現力を身に着けた。だからもともと日本語には外國語に對する包容力がある。今英語やその他の外國語がカタカナ語として入つてくるのは良い事だ。――この主張は、語彙の數だけを基準に、事態を判斷したものである。問題は、外來の語彙をどのやうな形で日本語に採入れるか、と云ふ質の問題である。
日本人は、漢語を外來語として受容れたのではなく、漢字をシステムとして血肉化し、日本語の一部に組込んだ。
例へば、日本人が支那語の「デン」と云ふ音だけ受容れて「電」「傳」「殿」等の漢字を受容れなかつたら、或は、「デンポウ」「デンシン」と云ふ音だけを受容れ、それらの一聯の音をそれ自體として「概念を示す記號」として扱つてゐたとしたら、どうだつたであらうか。
その場合、「デン」なり「デンポウ」なりの音が指示する概念は固定化される事となる。その爲、日本でのちに「電信」「電報」等の熟語が作られる事はなかつた筈である。日本人は最初に受容れた概念だけを機械的に使ひ續けねばならなかつた筈である。或は、誤用なり語義の擴張なりによつて、古い語をそのまゝ使ひ續ける事となつたであらう。
現實には、「デン」に「電」「傳」「殿」等の漢字がある事、それらが語の意味に基いて書分けられてゐる事、のみならず漢字を組合せる事で概念を組合せられる事――詰り、新たな概念を説明的に熟語で表現出來る事を、日本人は理解した。その結果、日本人は、例へば「電」と「報」とで「電報」と云ふ語を造り得た。
「電報」が「電」と「報」と云ふ漢字を含む事で、「電信」「報道」と云ふ他の語との關聯が保たれる。一方、「電信」「電報」と「傳法」「傳心」とでは、音は同じだが語は異る。漢字は、音とは別に意味を持つ――漢字が表意文字であるとされる所以である。かうした漢字の機構を利用して、日本人は概念の系統も理解する事となつた。そして、漢字に概念がある事を理解した日本人は、漢字に、やまとことばの概念を當嵌めた――訓讀みを賦與した。この結果、元來曖昧なやまとことばは、漢字に據つて再分類され、意味の深化が行はれる事となつた。
日本人は、漢字のシステムを受容れ血肉化した。その結果、日本語は變質し、弱點を強化し得た。日本語のシステムには、漢語のシステムが巧みに接ぎ木された。
明治になつて、外國の文物が大量に流入した。そして、英語やフランス語、ドイツ語が大量に流入した。新たに流入した概念に對しては、漢字の造語機能を利用した飜譯語が割振られた。しかし、飜譯語が作られなかつた概念も少くない。それらの概念には、暫定的に音を寫したカタカナ語が割當てられた。
西歐が完全に世界を覆つた現在、日本に流入する新概念は増加し續けてをり、飜譯語ではなく音を寫しただけのカタカナ語もまた増加する傾向にある。そもそも、漢字に據る飜譯語を作る、と云ふ作業そのものが、現在の日本では行はれない傾向が生じてゐる。
このカタカナ語の増加について、冒頭に示したやうに、漢語を受容れたのと同樣、「日本語を豐かにする事だから、惡い事ではない」と云ふ見解が、多くの人によつて出されてゐる。この件について、檢討してみたい。
「日本語を豐かにする」と云ふ事について、より嚴密な定義が必要である。先づ、「單に數が増える」と云ふ量的な觀點から「豐かになつた」と云ふ事は、妥當でないと思はれる。寧ろ、質的な觀點から、判斷すべきである。よつて、「語が機械的に使用されたか何うか」ではなく、「語の機能を活かした日本語の活性化・深化が行はれたか何うか」を、「日本語を豐かにしたか何うか」の判斷の材料としたい。
カタカナ語とはどのやうな物であるのか、少し考へてみていただきたい。それは、「top」「level」「strike」を「トップ」「レヴェル」「ストライク」と書いて、そのまゝの形で文中で用ゐる事である。そして、これが日本語をどれだけ豐かにしてゐるのか、を以下、考へる。
先づ考へるべき事は、カタカナ語は原語の元の意味を正確に移入してゐない、と云ふ事である。即ち、日本人は、或外來語をカタカナ語として使ふ際、元の語の意味の一部を借りてきてゐるに過ぎない。
例へば、カタカナ語の「トップ」は、「トップ會談」等、主に地位のトップを表す。これは所詮英語の「top」の意味の一つを拔出してきただけである。
原語の「top」には「頂上・尖端」「首位」「極度・絶頂」「表面」「(人參・大根等の根に對して)葉」「(野球の)(囘の)表」といつた意味がある。
かうした「言葉のつまみ食ひ」的な語の使用方法が、原語の語としての機能を活かしてゐると考へる事は可能であらうか。
次いで、音だけを寫してゐる事について、考察したい。
ここで、漢語における問題として屡々指摘される、同音語・類音語の問題が、カタカナ語にも生ずる事が考へられる。同音語・類音語の出現は、音韻の少ない日本語が外國語を受入れる際、必然的に發生する現象である。
英語の「whole」「hole」「hall」は、どれもカタカナで表記すれば「ホール」となつてしまふ。これでは區別がつかない。そして、音韻の數が英語に比べて日本語は少ない。カタカナ語では、同音語、類音語が大量に出現する。
漢語にも同音語・類音語はある。これは從來、何度も指摘されてきた事實である。だが、漢語の場合、同音語が多いとは言へ、表記には漢字が用ゐられる。この場合、語に據つて表記が異る。漢語の場合、目で見れば、區別は可能である。
カタカナ語では、どれも全く同じ表記となり、それ自體では區別をつけられない。英語の綴りがあれば、區別はつけられる。が、今のところ、日本語の文章でカタカナ語でなく原語の綴りを用ゐる、と云ふ表記は、スノッブ的であり、一般的に認められてゐない。そして、今檢討してゐる問題は、原語の綴りを用ゐる問題でなく、カタカナ語を用ゐる問題である。
カタカナ語には、他にも問題がある。カタカナ語では、本來同じ語を、表したい意味に從つて表記を分けてしまふ事がある。
例へば英語の「strike」を、野球の時は「ストライク」、罷業の時は「ストライキ」と分けてゐる。
この場合、それぞれの表記で原語の意味の一部をつまみ食ひをしてゐる、と見る事が出來る。或は、原語の「strike」と云ふ一つの單語を、概念毎に別の語として分斷してゐるのである。日本人は、「ストライク」と「ストライキ」との間で、原語における語の關聯性を意識しない。
非常に簡單に纏めると、以下のやうな事が言へる。
かかるカタカナ語を以つて「日本語を豐かにした」と言ふ事は、可能であらうか。
單なる發音のみならず漢字の機能を有機的に採入れたかつての事例と、英語なりフランス語なりの單語の發音のみをカタカナで表記し、或は、日本流に改めた語を作り出して、それを記號として使つてゐる現在の事例とを、同じレヴェルの事として見る訣には行かない。
「外國語の體系を日本語の體系の中に位置附け、日本語の體系を擴張・擴大する」と云ふのが「日本語を豐かにする」と云ふ事であるならば、カタカナ語が氾濫する現状は「日本語が豐かになつた」事だとは言へない。
そして、例へば「アルファベットの綴りをそつくりそのまゝ日本語の中に採入れて、日本語に於て英語などの造語法を活かせるやうにする」と云ふのが、カタカナ語の缺陷を排除し、流入し續ける新概念を日本語の中に位置づける爲の「對策」の方法として、考へられる。が、さうした「日本語の擴張」が、日本語の既存の體系としつくり行くものか何うかは、檢討の餘地がある。