制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
1999-10-07
改訂
2004-09-12

漢字の效能――觀念語の理解に關して

1

現代の日本人は純粹なるものが大好きである。だから誰もが傳統だけを重視する國粹主義か、傳統を抹殺する急進主義のどちらかを選ばうとする。現實をありのままに把握するよりも、自分の信じた理念にそはないものを切捨てた自分だけの「現實」を望み、その實現だけを希ふ。或は現代の日本人は皆、イデオロギーに從ひたがる。

日本人の日本語觀は皆、以下のどちらかである。

「純粹な日本語」とは、ここでは古代の「日本語」そのままを云ふのではない。

最近のSF『星界の紋章』(早川書房・ハヤカワ文庫JA)で森岡浩之は「アーヴ語」なる「人工言語」を登場させてゐる。この「アーヴ語」について森岡はかう云ふ説明を附してゐる。

アーヴ語の祖語は多分に人工言語としての側面を持っていた。

というのも、教条的な民族主義者によって再構成された古代語だったからである。その語彙からは、近代になって流入したヨーロッパ語起源のものはもちろん、文字と同時に入ってきた中國語起源のものも排除された。

こういった過激な再構成は、とうぜんさまざまな難問をともなっていた。文明を放棄するつもりなどさらさらなかった彼らは、幼稚ながら宇宙航行を実現した科学技術の産物を、金属文明の黎明にいた先祖たちの語彙で表わす必要があったのである。

「ネタばらし」になるのを承知で解説すると、この「アーヴ語」なるものの前身は日本語である。森岡氏は『星界の紋章』で、言語學の知識を驅使して、「アーヴ語」のシミュレーションを行つてゐる。この「アーヴ語」は、示唆的である。

現代の日本人は、右翼・國粹主義者でなくとも、否、寧ろ左翼的で革新的な人ほど、日本語を改良しようとするし、その際、屡々、日本語の過激な再構成をしようとする。その結果、日本語とかけ離れた、「アーヴ語」のやうな新しい言語が成立してしまふ事は、推定可能である。

そして、さう云ふリスクを冒してまで、日本人は日本語を「改良」せねばならぬと思ひ込んでゐる。日本語が日本語でないものと化する事は、「改良論者」にとつて、リスクと感じられないらしい。「改良」と云ふ語に彼らは眩惑されてゐるのではないか、私は思ふのだが。

2

日本語の「日本語本來の部分」と「それ以外の部分」の分離──例へば社會人類學者の梅棹忠夫氏がそれを主張してゐる。梅棹氏はカナモジ論者である。然るになぜカナモジ論者であるかといふと、カナモジ論でないと日本語の「正字法」が確立出來ないからだと言ふ。

これだけはげしく変化をとげながら、近代日本語は、かきことばとして、完成の域にちかづいたとは、ぜんぜんかんがえられない。むかしからの問題点が、いくつも未解決のまま、もちこされているのである。たとえば、現代日本語においても、その表記法は、きわめて不安定である。これは、ことばのかきかたの基準になる、いわゆる正字法が確立していないためであるが、現代における文明語で、正字法をもたない言語というのは、ちょっと類がないのではないだろうか。こういうことをかんがえると、今後まだ、どういうことになるのか、予想もつかない。

鈴木孝夫氏は『閉された言語・日本語の世界』(新潮選書)で梅棹氏の論文「現代日本文字の問題點」を論じてゐる。鈴木氏はかう書いてゐる。

梅棹氏は決して漢字がいけないとか、漢字の訓読みそれ自体がいけないとか言っている訳ではない。文字としては、漢字はいわば、非常によくできたものであると考えている。訓読みにしても、それ自体は、大変独創的な、おもしろい発明であることを認めるのである。しかし問題は、音読みと訓読みの漢字、ひらがな、カナモジがいっしょになって、一つの表記システムを形成している所にあると考えてゐる。これでは安定した正字法をつくり上げることがほとんど不可能だというのである。

安定した正字法をつくり上げる爲に、梅棹氏は「漢字の訓讀みを止めよ」と主張する。「漢字の訓讀みを止めれば、送り假名の問題が解消するから、表記の混亂は減る」と云ふ主張である。

3

鈴木氏はこの梅棹氏の主張に複數の問題點がある事を指摘してゐる。

書かれた日本語の文章に一定の音声言語を対応させることは、ほとんど不可能であると梅棹氏が言われているが、これはなにも日本語に限ったことはない日本語の『生』が『キ』『ナマ』『ショウ』『セイ』等々何十通り以上にも読めるという例は、英語のenough, cough, bough, ought, through, thoughなどに含まれる -oughの綴りの部分が多種多樣に讀めるのと「好一對」である。音聲言語と表記の一對一對應は、いかなる言語でも考慮されたことがない。日本語だけそれを考慮する必要はない。

梅棹氏は次のやうに述べる。

音声言語としての日本語を文字言語としての日本語に変換しようとするとき、どういうことがおこるか。それこそ大混乱がおこるのである。

すなはち、或一つの文章を表記するのに「どれだけ漢字を使ふかが、人によつてまちまちになりうる」し、送り假名の方式も人によつてまちまちになる。結果として、文章の書き方が人によつて異るものとなる。

これに對し、鈴木氏は單純に「統一しなくてもいいではないか」とコメントしてゐる。

日本語の送り仮名を統一しなければと多くの人が考えるのは、実は現在の哲学で言う擬似問題の一つなのであって、画一的な答の出ない、そして画一的な答を出す必要のない問題を立てて、勝手に苦しんでいるとしか私(鈴木氏)には思えない。

鈴木氏は續けて述べる。

日本語は漢字かな交じり文という性質と、漢字の音訓両読という特殊な性質のために、画一的な正書法が本質的にできない、そして必要のない言語なのであって、だからこそこれまで正書法なしですんできたのである。これを語構造の違う西欧の言語と比較し遅れているとか、混乱していると考えるのは非常な間違いである。

梅棹氏は、表記を音聲言語に一方的に隷屬させるべきだと考へてゐる。しかし表記と音聲言語は持ちつ持たれつであり、音聲言語が表記を規制すると同時に、表記が音聲言語に影響を及ぼす事もある。特に日本語ではその傾向が強い。

書き言葉は「音聲言語を寫すだけの爲のもの」即ち「話し言葉の影」に過ぎない、と屡々言はれる。慥かに、書き言葉は、最初はそのやうなものであつたかも知れない。しかし、一旦成立すれば、書き言葉は話し言葉から相對的に獨立し、それ自體のシステムを作つてしまふ。そして、必ずしも實際の發音や、實際に話される形式とは異つた、獨自の形式を持つやうになる。結果として、書き言葉は「意味を表現する爲のもの」となる。

梅棹氏は、漢字、ひらがな、カタカナを「表記といふシステム」の中で考へてゐる。けれども、「言語と云ふより大きな枠組」の中では考へてゐない。さう鈴木氏は指摘してゐる。

4

「ひらがな・カタカナ・漢字といつた文字の機能を、それぞれ純化せよ」と梅棹氏は主張してゐる。詰り、「漢字には漢字の機能だけを、假名には假名の機能だけを與へよ」と云ふ事を、梅棹氏は主張してゐる。

なるほど、確かにそのやうにすれば、日本語はシステムとしては「すつきりとしたもの」にはなるだらう、とは思ふ。ただ、さうした「すつきりとしたシステム」は、日本語のシステムを解體したものであり、漢字のシステムと、和語のシステムとの間の交流を斷絶するものである、とも思ふ。この事に梅棹氏は氣附いてゐないやうだが、しかしこれは問題ではないか。

例へば、梅棹氏の理論が現實の日本語に適用されると、梅棹氏流の「日本語」で育つた人間は、「惡人」と「わるい」の間に、「正義」と「ただしい」の間に、何の聯關性も見出せなくなるのではないか。

漢字の音讀みと訓讀みは、漢語と和語の仲を取持つ。我々日本人の、義務教育をちやんと修了した者は、恐らく全員、「惡」と云ふ漢字に、「あく」と云ふ音讀みと、「わるい」と云ふ訓讀みとがある事を知つてゐる筈である。漢語の「惡」と和語の「惡い」は、「惡」と云ふ漢字で表現される、と云ふ事を、恐らく誰もが殆ど無意識のうちに理解してゐる筈である。

詰り、日本人はその音讀みと訓讀みを覺える事で、「惡」と云ふ概念を覺えてしまふ訣である。漢字を習得する事は、單に文字を覺えると云ふ事ばかりでなく、漢字によつて表現される概念・觀念を理解する事である、と言へる。

聽いただけでは理解出來ないやうな「高級」な概念であつても、漢字で表記されれば、日本人はそれなりに意味を諒解する。鈴木氏が次のやうな例を擧げて説明してゐる。イギリス人でも、教養のない人は「anthropology」と云ふ單語を理解しないし、語を見ただけで意味を推測する事も出來ない。しかし、漢字の讀める日本人ならば、「人類學」と云ふ單語を、見ただけで「人類と關係がある学問らしい」と云ふ風に、漠然とではあるが、意味を何となく想像出來る。

5

カタカナ語は「訓読みがなくて音読みだけの漢字」に似てゐる、と鈴木氏は言ふ。カタカナ語は所詮外來語であり、日本語に成り切つてゐない。だから、以下のやうな現象が生ずる。

なぜカタカナ語は「日本語」に成り切つてゐないのか。それは、カタカナ語が單に「或特定の對象」を指示するだけの「レッテル」でしかないからである。

日本人は石炭と書いて、「石(いし)のやうな炭(すみ)」と云ふ解釋をする。これは石に「いし」、炭に「すみ」と云ふ訓讀みがあるから可能な事である。さて、ここで考へていただきたいのだが、「石」と「炭」に音讀みしか許されない、と云ふ事態が出來したら一體どうなるであらうか。或は、逆に、漢字が廢止されて「石炭」を「セキタン」と書かねばならなくなつたらどうなるであらうか。

何れの場合も、「石炭」「セキタン」を、機械的に諳記せねばならなくなる筈である。そして、「石炭」と「いし」「すみ」の關係、「セキタン」と「石」「炭」との關係は、意識されなくなるであらう。

日本以外のどこの國の言葉でも、外國の言葉が外來語として取入れられる場合は、ドライバーやローラーの例のやうに、もとの言語におけるその言葉の持つ組立てのしくみや、意味の内部構造が不明となり、セキタンのやうな形で一つの言葉全體が、ある特定の對象に引き當てられるのである。そこで借用語は教育のない人にとつては、機械的な記憶の負擔を増す重荷となることが多い。日本語にカタカナ外來語が増えることは、要するに一般の人にとつてはよく分らない言葉が増えることになるのだ。

鈴木氏も指摘するやうに、「高級」な概念が漢字で表記される事で、日本では知識がインテリ階級に獨占される事なく、一般の人々にも理解されて來た。

歐米諸國では、術語自體に日常語との決定的な差異がある。その爲に、知的階級とそれ以外の階級との間に格差が生ずる事がある。日本では、漢字の御蔭で、逆に、その二つの階級の間に決定的な懸隔は生じない。

一方、日本ではインテリ程、訣のわからないカタカナ語を好んで使ふ傾向がある。或種の「獨占欲」がさう云ふ傾向を生じてゐると見る事も出來よう。

6

以上、縷々述べたやうに、日本語は、漢語のシステムと和語のシステムが、竝行して別個に存在してゐる訣ではなく、その二つのシステムが入り交じり、絡み合つて成立してゐる言語である。漢語のシステムと、和語のシステムとは、互ひに密接な聯關を持ち、容易に分離できない。

これら二つのシステムを切離し、純粹なものにしようとするのは、困難であると言ふよりも、不可能である。無理に兩者を切斷しようとすれば、日本語そのものが解體されてしまふ。

しかし日本人は「純粹」な日本語を求めたがる。それが困難である事を承知してゐれば、知的遊戲としてのSFの世界に留まつてゐられるかも知れない。だが、どう云ふ訣か「日本語の純粹化は簡單に實現可能だと」思ひ込んでゐる人が結構ゐるらしいのである。

かう書くと、「否、そんな事はない、だから自分は漢字かな交じり文で滿足してゐる」と反論が來るかも知れない。だが、一般の日本人は、さうした「日本語を純粹化すると云ふ幻想」に基いて作られた「人工言語」である「現代仮名遣」「常用漢字」とを使つてしまつてゐる。

「占領表記」である「現代仮名遣」と「常用漢字」とが、「表記は音聲言語に隷屬すべきである」と云ふ「日本語を單純化する作業の一過程」である事は、別の場所で書いた。

そして、日本語の表記を、完全に表音化しようと云ふローマ字主義やカナモジ主義のやうな表音主義は、明治以來の「傳統」を持つてゐるが、今に至るまで複數の方式が亂立してゐるし、どの方式にも問題を抱へてゐる。