制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
1999-04-17
改訂
2001-06-14

漢字廢止論者の誤謬

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さすがに今では殆どゐないのですが、かつては「漢字を廢止し、日本語表記を假名だけに或はローマ字にすべきだ」と積極的に主張する人がゐました。しかし今でも例へば、尊敬する人がローマ字信者だつたからと云ふ理由でローマ字に親近感を抱いてゐる人がゐます。

 私は、愛橘博士が決して西洋にかぶれ、ローマ字を広めようとしたわけではなく、むしろ日本を愛するからこそ(国語として使用しても矛盾の生じない)日本式ローマ字が必要と考えて、ローマ字普及に一生を捧げたという事実に気付き圧倒された。

別に誰を尊敬しようと蓼食ふ蟲も好きずきで勝手ですが、ローマ字論者の熱意や愛國心は「ローマ字が正しい」理由にはなりません。なぜかローマ字・カナモジ論者にはこの手の御説教好きやら人生論者やらが揃つてゐるので最初に嫌みを言ひましたが、話を戻します。

國語國字問題において重要なのは、論者の人格ではなく、主張の妥當性です。「國語の表記は漢字かな交じり文の方が、或はローマ字文・カナモジ文の方が良い」と主張する理由が、より論理的である事、或は人間的で日本人の精神に適してゐる事が重要である、と云ふ事です。

この際、「人間は本來非論理的だ」から「より樂な方を」と云ふ主張は論外であります。人間の思考・行動がいかに非論理的に見える場合でもそこには合理性がある事は腦生理學或は心理學により説明可能です。

ローマ字化・カナモジ化を意圖した戰後の國字改革論者は、漢字制限を大前提とした當用漢字の制定により、漢字の弱體化に「一歩前進」したと考へました。しかし、現實に、漢字と假名の混淆文は廢れてゐません。寧ろ、表音主義者は、當用漢字(常用漢字)による部分的な漢字制限を「最後の砦」にしてゐるのが現状と言へます。

當用漢字を常用漢字と改めたのは、略字の固定化、言はば「既成事實化」を狙つたものです。この「既成事實化」によつて「最後の砦」を守らうとする努力は、現在の日本で成功ををさめてゐるとは言へるでせう。

2

ここでは簡單にローマ字・カナモジが日本語表記に不適當である所以を説明します。

ローマ字・カナモジは、慥かに誰にでも讀めますし、誰にでも書けます。ローマ字・カナモジ論者の主張は確かにその限りに於ては正しいと言へます。しかし、「ローマ字・カナモジは、直感的に、或は效率的に讀める、書ける」と云ふ譯ではないのに注意して下さい。

讀んで文章の意味が理解出來なければ、文章には意味がありません。そもそも、文章は單に文字を讀取れれば良く理解出來る、と云ふものではありません。そして、良い文章とは、書き易い文章ではなく、讀み易い文章の事です。

ローマ字・カナモジの文章は冗漫でたどたどしく、何度も讀み返さないと何が言ひたいのかがわからない。當り前の話ですが、ローマ字やカナモジで書かれた文章を我々は頭の中で、言はば「かな漢字變換」を行ひながら讀む。「書かれた文章をそのまま理解するのでなく、飜譯しないと讀めない」と云ふ事は、ローマ字文・カナモジ文が非效率的で、思考の流れを阻害するものである、と云ふ事に他なりません。

書き手の手間を省く──これも怪しいものです。漢字のイメージで思考する人間がローマ字・カナモジの文章を書かうとすれば、やはり逆の飜譯が必要になる。手の作業が單純化される代りに頭の中の作業が煩雜になる──やはり思考の流れを阻害します。そして、本質的に漢語に依存する現代の日本語において、この手の「飜譯」は絶對に無くす事が出來ません。

文章は人間の頭の中で考へられた事を定着させるために存在します。しかし思考の流れを定着させるのに困難である方法がローマ字・カナモジによる表記法であると言へます。意圖的に文章と云ふものの意義に對する考察を囘避し、誤魔化す事によつて、ローマ字論・カナモジ論は成立してゐるのであります。

3

ローマ字文・カナモジ文は、切れ目なく續いたのでは平板極まりなく、止むをえず分かち書きされるのですが、その爲に名詞・動詞・形容詞……と云ふ品詞を筆者は意識せねばならないと云ふ事になります。簡單に書くためには文法の專門知識が必要となる譯ですが、これはローマ字・カナモジの主旨に反します。

一方、漢字と假名の適度な混用により、日本語の文章には獨特の「メリハリ」が生じます。言換へれば、重要な意味を持つ單語は漢字によつて強調されます。その爲、かなと漢字の混淆文では、漢字を拾ひ讀みする事によつて、大雜把な文意を把握する事が可能となります。或は、漢字が假名と混用されてゐる事により、文章にはアクセントが自然に生じ、讀者は讀む速度を適度に調節出來ます。

或は、漢字假名混じり文では、漢字が體言(名詞)・用言(動詞・形容詞・形容動詞)に、假名が付屬語(助詞・助動詞)に自然に分れます。意味上重要な語に漢字が、輕く讀み飛ばすべき語に假名が對應します。これは思考の流れに反映してゐますが、同時に讀み易さにも反映してゐます。漢字假名交じり文は、日本人の腦の生理に合つてゐると言へます。

しかし、ローマ字・カナモジ論者はまだ反論します、「それは教育次第でなんとでもなる」と。「習ふより慣れろ」理論とでも申しませう。慥かに、子供の頃からローマ字或はカナモジだけで教へこまれれば、ほかに方法はないのだから、それで書くでせう。しかしそこにもローマ字・カナモジ論者の主張に反する事實があります。

何萬字もある漢字を覺える手間を省く事がローマ字・カナモジのメリットと云ふのがローマ字・カナモジ論者の主張です。しかし、ローマ字或はカナモジだけで構成された單語を覺える手間はかなと漢字を覺える手間よりも、本當に少いのでせうか。

我々日本人は、中學・高校で英語を習ひます。英語はアルファベットだけで記述されます。英語の表記は文字數が非常に少い。ローマ字・カナモジ論者の主張に從へば、文字數が少い英語を日本人は容易に習得出來なければならない。しかし、アルファベットだけで綴られた單語を諳記する事は、日本人が英語を習得する最初の、そして最大の難關であります。

なぜ我々が英單語を覺えるのを苦手とするかといへば、單語を構成するアルファベットの綴りには何の必然性もない、と云ふ事が原因であります。「音と意味の間には何ら關聯はない」と云ふのは、言語學の常識です。日本人が英語を習ふ時、アルファベットの羅列であり、音の連續である單語を機械的に覺えなければならない。そこに英語學習の難しさがある。日本語をローマ字化・カナモジ化した場合、それが當嵌るのです。英語と日本語の違ひ、と云ふ事は問題になりません。あらたに言語を學習するものにとつて、英語も日本語も關係ありません。

表音文字による表記に於ては、意味のない表音文字を綴つて單語を構成せねばならない。勿論、表意文字たる漢字も音とは關係がありません。ならば、學習の手間は「同じ」です。しかし、漢字一字は英單語一語とよく似てゐます。漢字學習に於ては、漢字の習得は語の習得と同義であります。表意文字である、と云ふほかに、visualである、と云ふ漢字の特性は、漢字學習において有效性を發揮します。この點は、漢字のローマ字・カナモジに對するアドバンテージである、と言へませう。

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以上鏤々述べてきた通り、決して漢字假名併用の表記はローマ字・カナモジだけの表記に劣らない、と私は考へます。

さて最後になりましたが、ローマ字・カナモジ論者の主張がまだもうひとつ殘つてゐるので、觸れておきます。「漢字假名混じり文は弱者に優しくない」と云ふ主張です。漢字假名混じり文は盲人が文章に觸れる時の牆壁だと云ふのであります。しかし片端を良かれ惡しかれ片端扱ひする事が、片端にとつて甚だプライドを傷つけるものである事は、『五體不滿足』の著者も述べてゐる事です。

また、技術の發達が、ローマ字・カナモジ文の漢字假名交じり文に對する「優位」を否定します。「讀上げソフト」は、ローマ字・カナモジ文よりも、漢字が適切に用ゐられてゐる文章を、より自然に讀上げ得ます。

嘗て、表音主義者は「技術上の困難」を理由に漢字を攻撃したものですが、いまや、漢字に對してローマ字・カナモジを優位な位置に立たしめる爲に、彼らは技術の進歩を呪つてゐる始末です。下手に「特定の技術」に依存した爲、彼らは技術の進歩を阻害しないではゐられないのであります。技術は人間の生活を便利にする爲にあるのであり、技術の爲に人間の生活を無理矢理變化させなければならない、と云ふのは、本末轉倒であります。

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そもそも、文化は「弱者のため」とか「強者のため」とかにあるのではありません。文化は我々がどうする事も出來ない所にあるものです。文化は、その文化の中に生きる人間の身に染み込んでゐるものであります。文化を改變する事は環境を改變する事よりも、人間の心身に影響を與へるものであります。

人工的な環境が人體に及ぼす惡影響はつとに指摘されてゐます。ならば人工的な文化──人工的な言語もまた精神に惡影響を及ぼすのではないか。

ダイオキシンなどよりも日本語の問題は我々日本人にとつて切迫したものであり、眞先に對策をとらねばならないものであります。しかし私は思ふ、もはや問題は病膏肓に入つてしまつたのではないか、と。