制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成14年12月19日
公開
2002-12-30
改訂
2004-11-22

私(野嵜)の假名遣に關する考へ方

語と語意識について

語意識は誰にでもある事

助詞の「は」「へ」「を」を、「現代仮名遣い」で書く人も、「わ」「え」「お」でなく「は」「へ」「を」と自然に書きます。では、なぜ、そんな風に書くのが自然に感じられるのでせうか。

それは、「は」「へ」「を」は助詞の機能があるから「それを示すやうな表記をしなければならない」と考へるからです。

これは、語が意味する觀念に對する意識ではなく、語そのものに關する意識です。「木」には、指示する觀念としての内容があります。しかし、「は」「へ」「を」に、指示する觀念としての内容は、ありません。

語意識を感ずべき語は「は」「へ」「を」だけか

ここで、かう云ふ語意識を感ずべき語は、助詞だけなのか何うか、反省してみませう。

「は」「へ」「を」は、助詞です。ですが、助詞だ、と言つても、何も解りません。助詞とは何か、を考へてみる必要があります。

助詞の性質の一つは、既に述べました。助詞は、何か具體的な觀念に對應する記號としての語ではありません。助詞は――實は學者によつて定義が異るのですが――、敢て譬喩で説明すれば、概念を伴ふ語と概念を伴ふ語とをくつつけて、思想としての文を構成する「糊」のやうなものです。と言ふより、助詞のやうな「膠」が存在する日本語のやうな言語を膠着語と申します。

そして、助詞のやうな「糊」「膠」のやうな役目を持つ日本語の品詞や、品詞の部分は、助詞以外にもあります。それは、助動詞、そして用言の活用語尾です。

用言の活用語尾は、母音と子音とを區別しない日本語の性質から、用言の語幹と一體のものとして、屡々、認識されます。その爲に長い間、文法學で混亂が續いて來たのですが、表記の上で不分明でも、學問的には分離可能です。そして、語意識としては、活用語尾の存在を、我々は認めてゐます。

私の考へ方:要旨

語意識と假名遣について

語意識を感ずる語は語意識に從ふべき事

「私わ」ではなくて「私は」の方が、「行こう」ではなくて「行かう」の方が、讀み易いし、意味を把握し易い、と私は思ひます。

語意識を覺える語において歴史的假名遣を用ゐるのは、語意識の存在を強調する事になります。發音と一致しない表記ですが、それによつて書き手の語意識の存在を讀み手は意識させられる事になります。結果として、讀み手は注意を喚起せられ、書き手の意圖をより正確に掴む事が出來ます。

私は、その程度の意味で、「歴史的假名遣/正かなづかひの正しさ」を主張してゐます。

字音假名遣を區別する事

歴史的假名遣と言ふと、「ちょうちょう」ではなくて「てふてふ」と書くと云ふあれの事だらう? と云ふ話が必ず出ます。私は、しかし、この手の「歴史的假名遣」は、今述べた歴史的假名遣と區別すべきであると申し上げたい。

「蝶」を「てふ」と書く、と云ふのは、漢字の音の表記の話です。漢字の音をかなで書く時の決りを字音假名遣と言ひます。これは慥かに歴史的假名遣の一種です。が、私は必ずしもこの字音假名遣には拘りません。と言ふより、拘る必要はない、と思つてゐます。

字音假名遣の對象である漢字によつて構成される語は、全て觀念的な内容を含む語で、用言の語幹・體言です。助詞・助動詞・用言の活用語尾とは異ります。漢語・漢字の熟語は、概念に對する記號である、と、極論を言へばなります。もちろん、字音假名遣にも體系はありますし、漢語は死んだ記號の群である訣ではありません。しかし、助詞・助動詞等とは比較にならないほど、記號としての性質が強いものです。ですから、妥協は可能である、と考へます。

ただ、今のところ、私の獨斷で、「ここまでの假名遣は保存すべきで、ここから先の假名遣は便宜上、表音的に改めても良い」と極附ける事は出來ないと考へます。ですから一往、私は從來の假名遣に全面的に從つてゐます。しかし、繰返し申しますが、字音假名遣に關しては、時枝誠記博士や福田恆存氏も述べたやうに、合理的な形で簡易化する事は許容される、と思ひます。「てふてふ」には拘らない、と云ふ事です。

餘談:漢字の扱ひについて

漢字の遣ひ方についても同じです。

畫數の多い文字が、時と場合によつて不便であるとしても、體系的で適正な形に字體を改めるには議論が必要で、しかもその議論は現在までに全くなされてゐません。ですから私は當座、從來の字體に出來るだけ從ふやうにしてゐます。

が、單なる便宜主義に基いたやつつけ仕事でなく、合理的・學問的な根據に基いた體系的な整理が可能であるならば、漢字の合理化は許容出來ると考へます。

私は、ただ單に、獨斷を避けてゐるに過ぎません。