制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
2001-11-24
Uさんへのメール

正かなづかひ覺書──なぜ正字正かななのか?

メモです。

1

假名遣と云ふものは古代から中世・近世にかけて發展して來たもので、當然、封建時代の殘滓のやうなもの或は古臭いものが殘つてゐると屡々考へられます。しかし、さうは言つても、それらのものを完全に無くす爲には、かなづかひばかりか日本語そのものを廢絶しなければなりません。

ならば、ふるめかしいものも何もひつくるめて、我々は我々だけの日本語を有りの儘の姿で愛しなければならないのであります。より表音的に改造すれば濟むものではない、と私は考へるのであります。

現實に、「現代かなづかい」は歴史的假名遣の書換へ方を示したものでしかないのでして、歴史的假名遣は無くなつたやうで無くなつてゐません。また、「現代かなづかい」の存在そのものが、歴史的假名遣の原理が國語表記の基礎的な原理である事を證明してゐるとも言へませう。

2

「歴史的假名遣はエリートの爲の表記である」と見るべきではありません。「多くの場合に守られてはゐないが、全ての國語表記の根柢に潜在的に存在するものが、正かなづかひの原理である」と見るべきです。

文章が潛在的な意識を顯在化する爲に書かれるのならば、潛在的に存在するかなづかひの原理を意識的に用ゐるのは、實用的には無意味であるやうに思はれても、文章を意識的に書かうとする人には重要な事でせう。

言葉は本來、コミュニケーションの爲に生れたものではなく、物事を認識する過程として生れたものである、と云ふ前提から考へれば、言葉の問題においては、通じ易いかどうか、と云ふ議論は二義的なものとなります。

寧ろ、より正しく現實を認識できる言葉の使ひ方、が、言葉本來の機能から考へて、要請される、と云ふ事になります。

物事の認識を共有する、と云ふ目的で、言語はコミュニケーションに轉用された、と考へられます。岩波ジュニア新書の『なぜ國語を学ぶのか』に、この發想が、ちらりと出て來ます。