歴史的かなづかひを「現代かなづかい」に變へた時、国語改革の當事者は大變よく國語の事を知つてゐたのだけれども、その時の彼らの知識は「言葉は記號である」と云ふものであつた。「記号だから幾らでも変えて良い」と云ふ非常に「わかりやすい」理窟だ。
ところが「記号だから幾らでも変えて良い」のなら「現代かなづかい」だつて幾らでも「変えて良い」筈である。しかし「現代かなづかい」を「変える」事は、今の日本では許されない事とされてゐる。だから「現代かなづかい」と「現代仮名遣」とは何も變らない。昭和二十年の頃から現代まで、「かなづかい」は全く變更されてゐない。
一方、「記号だから幾らでも変えて良い」筈なのに「現代仮名遣」を歴史的かなづかひに變へる事を主張すると氣狂ひ呼ばはりされる。しかし、繰返して言ふが、單なる記號なら何う變へても良い筈なのである。
「単なる記号」であるなら、歴史的かなづかひを「現代仮名遣」に變へる事が許されたやうに、「現代仮名遣」を歴史的かなづかひに變へる事も當然許される。この理窟に反論する事は出來ない。反論する事が出來ない理窟なら、反論しないのが當然で、そこで「反論」するのは、その人が理窟を輕視する人間だからだ。
「現代仮名遣」を歴史的かなづかひに變へる事を否定する人は、理窟を輕視する人間=理窟が解らない人間=話が通じない人間である。
「現代仮名遣」が「正しい」「正しくない」と云ふ事は、そもそも理窟の問題として現代の日本人は受容れられない。だから正かなづかひの主張を感情で排除しようとしてしまふ。彼等は、正かなづかひの主張をする人間の言ふ事をそもそも「理解したくない」――理解して受容れてしまつたら、自分も書き方を「変えなければいけない!」――ので、話を聞き入れる氣は最初から無い。詰り、彼等には吾等とコミュニケーションを取る氣が最初から無い。