制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2002-12-30
改訂
2004-11-22

言葉と論理

物事を疑ふのは、眞實を知る爲に――少くとも、嘘に騙されない爲に――必要な事です。私逹は、欺されない爲には、何事も疑つてかからなければなりません。

しかし、本當に物事を疑ふ爲には、きちんと考へなければなりません。そして、きちんと考へる爲には、考へる爲の道具――言葉を正しく用ゐなければなりません。

言葉を正しく用ゐる爲には、言葉そのものの用ゐ方を我々は反省してみる必要があります。だから私は、「現代仮名遣」と云ふ「餘りにも當り前のもの」もまた、疑つてみなければならない、と主張します。

我々の多くは、生れた時から「現代仮名遣」が「當り前」の日本の社會に生きてゐます。しかし、歴史的にも原理的にも、「現代仮名遣」には欺瞞があります。「現代仮名遣」の欺瞞を欺瞞と認めない生き方を、多くの日本人がしてゐます。さう云ふ生き方が、今の日本の社會では「當り前」の生き方です。

ですが、それで良いのでせうか、と、私は問ひたい。

正假名遣を用ゐる私を嘲笑する人はとても澤山ゐます。私は別に、さう云ふ人を嘲笑はしません。しかし、さう云ふ人逹は、「難しい歴史的假名遣の代りに與へられた『現代仮名遣』で満足してゐるだけ」なのではないか。

たしかに、「正假名遣を使つてさへゐればそれで良いのか」と問はれれば、「そんな事はない」としか答へられません。しかし、そこから「ならば、『現代仮名遣』で良いではないか」と云ふ結論を引出す事は出來ません。

「現代仮名遣」は、ただ多くの人が使つてゐるだけで、決して正しい表記ではありません。歴史的には成立過程に疑問點が多數ありますし、原理的にも「發音に從ふ」と同時に「語の意味に從ふ」と云ふ二つのスタンダードに基いてゐると云ふ問題點があります。

今の時代、私逹日本人の多くは「現代仮名遣」を與へられてゐます。逆に言へば、正假名遣を用ゐるのは、正假名遣を積極的に選んだ人間だけです。

正假名遣を選ぶのは、戰後半世紀の間に確立された表記の體制に反逆する事です。言葉について、多くの人は大變に保守的です。ですから、今の體制側の言語である「現代仮名遣」を守る爲に、多くの日本人は、歴史的・原理的な正統性を主張する正假名遣を排斥しようとします。

しかし、私逹は、體制の内側に閉ぢこもり、反體制的な存在をただ反體制的であると言ふだけの理由で排斥してゐて良いものでせうか。それは日本的な「和をもつて尊しとなす」精神で、他者を拒絶してゐるだけではないでせうか。

ただ、多數であるか少數であるかを根據に物事の眞僞・正邪を判斷しようとする發想は、人間の持つ理性的・論理的な判斷力を否定する、人間性を冒涜する發想であると、私は考へます。と言ふよりは寧ろ、眞實や正義を求める人間の本性を問答無用の暴力で彈壓する、反進歩的な態度である、と言つた方が良いかも知れません。

「この世には絶對に正しいものなど存在しない」と云ふ相對主義的な考へ方をする人は多いでせう。しかし、それでは人間に進歩など存在し得ない事になつてしまひます。進歩を信ずる限り、私逹は「正しいと云ふ事」を信じてゐなければなりません。そして、より正しいものを求める進歩的な發想を認めるのならば、より正しい言葉の用ゐ方、より正しい表記の仕方を、私達は考へざるを得ません。

極めて現代口語的な言い回しを、文字に落すばかりか正字正仮名でやられると、これはもう見苦しいとしか思えないのだ、と云ふ印象批評をされた事があります。印象批評ですから、「俺はかう思つたのだから仕方がない」と云ふ事で、最後までごり押しされましたが、この「印象」は勉強不足に基づく勘違ひでしかありません。

なぜなら、假名遣は昔から「現代の文章における表記を過去の文献の表記を參考に正す」ものだからです。

極めて現代口語的な言い回しをそのまま書く言文一致の文體が、現代においては一般的な文體です。言文一致の文章で、個々の語を表記するのに、過去の文献を參考に原則を定め、よりどころとしようとする――それのどこがをかしいのでせう。「をかしい」と斷言する人は、結構ゐるやうですが、その理由を追求されると決つて怒り出すので、そんな主張をした理由は「正字正かなの使用者を問答無用で默らせる」爲にするものであつた事が明かです。

正字正かなを否定しようとする人の中には、「現代仮名遣」「常用漢字」は絶對に正しい、と信じてゐないと精神の安定に支障を來す人がゐるやうです。自分の「常識」を突崩された腹癒せに、正字正かな派を罵倒して精神のバランスを取らうとする――頭の固い人だと思ひます。

どうも、「発音と表記が大体一致していてとても書きやすい現代仮名遣は世界で最も優れた表記だ」と信じてゐる人がゐるやうです。さう云ふ人にしてみれば、正假名遣の主張は馬鹿げたものに見えて當然です。英語やフランス語、ドイツ語その他のほぼ全ての言語で、發音と表記は一致しません。正假名遣では、それらの言語と同レヴェルになつてしまふ。「現代の日本語の表記は世界で一番優れた表記である」と信じてゐる人にとつて、正假名遣の正統性を主張する人は、「現代仮名遣」「常用漢字」と云ふ「世界一の表記」を貶める許し難い行爲である、と見えるでせう。

しかし、さう云ふ後ろ向きのナショナリズムは感心しません。私は、正假名遣が世界で一番優れた表記だとは思つてゐません。ただ、「自分は一番である」などと一々思ひ込まないで良いと思つてゐるだけです。人は、ありのままの自分をそのまま受容れれば良い。發音と表記の一致しない假名遣を、日本人はずつと使つて來たのです。さう云ふ現實を我々は素直に受容れるべきだ、と私は言つてゐるだけです。